第26話 パンケーキ

 ――――人ごみは苦手だ。



 シンの外套の左袖口を右手で握ったまま、ソフィアは俯いて彼に続いて歩いていた。


 2人は港町クナートの市場通りに来ている。大通りから横にいくつも伸びる通りで、それぞれの通りごとに専門の店や露店がのきを連ねる。ソフィアは、シンに連れられるがままに、雑貨店が多い通りを歩いていた。そこは、聖夜祭の翌日にも関わらず多くの人々で賑わっていた。恐らく他の通りもそうなのだろう。

 昨日の祭りの余韻に浸る者や、帰途に着く前に土産物を求める者、年の瀬に入用の物を購入する者、そして彼らを相手に商売をする多くの人々。大通り沿いにもなれば吟遊詩人の奏でる竪琴のメロディー、軽業や踊りで魅了する美しい人々、この季節でも誇らしげに花弁を揺らす花々が町を彩る。そして風に運ばれてくる、果物や花など、様々な匂い。


 そんな中、シンはともすれば弾みそうになる足を意識的にゆっくりと運ぶ。大好きな楽しく賑やかな町を、ソフィアと連れ立って歩ける事に彼は喜色を隠せない様だ。自然と口元もほころんでいる。

 逆に、ソフィアは先ほどから足元が覚束なかった。それは単に人ごみによる情報過多という事ではなく、人間に対する恐怖心が未だに拭えない事が大きい。

 向かい側から歩いて来る人々の目、目、目……同じ方向へ進む人々の、背後からの気配、視線、足音。見られている様な、避けられている様な、――存在として目に映っていない様な。響く大勢の笑い声が、どうしても耳の裏に木霊する。徐々に吐き気や眩暈を感じ始め、唇を噛む。



(……気付かれない様にしなくては)


 背を向けて前を歩くシンに聞こえない様に、ソフィアは小さく息を吐いた。そのタイミングで、唐突に先を歩くシンが振り返った。


「ねぇソフィア! これ見て!」


 満面に笑顔を浮かべたシンに、ソフィアは内心で慌てながらも取り繕うように不機嫌そうな顔を作る。


「急に大きな声を出して、子どもじゃないんだから」

「あはは、ごめんごめん」


 軽く笑いながら言うと、シンは「これ見て」と露店に並ぶ商品の一つを指差す。チラリと目を向けると、金属製の白い小さな花飾りがあった。


「可愛いね」

「そうね」

「ソフィアに買ってあげ」

「いらないわ」


 シンが言い終わらないうちに、被せるように即拒否をしてから、しばし考え込む。それからふと、良い事を思いついたと言わんばかりに得意げにシンを見上げる。


「これ、孤児院の人にお土産で買って行けば良いんじゃない?」

「え」

「あなたが大好きなお茶を入れてくれる人」


 言ってから、“大好き”が、どちらに掛かっているのか自分でも分からなくなり、言葉を切る。それから、大して親しくも無いのに立ち入った事を言ってしまったかもしれない、と青くなる。不躾な事を言って気を悪くさせたかもしれない――ソフィアはシンの顔色をそっと伺うが、彼は気に留めた風でもなくにっこりと笑って肩を竦めた。


「うーん、僕はソフィアに似合うと思ったんだけどなぁ」


 ――否定も肯定もせず、曖昧な返答だった。


 シンは基本的に人懐ひとなつこいが、それが彼の素なのかと言われると、ソフィアはそうは思えなかった。どちらかというと彼は、あまり本心を見せない気がする。

 それは、元の世界ヴルズィアで長く生きてきた彼の、自己防衛本能なのかもしれない。



「うーん、残念。ねぇソフィア、何か欲しいものがあったら何でも言ってね?」


 ゆっくりと歩くのを再開しながら、シンは振り返って微笑んだ。それに対して、ソフィアはやや呆れた様に言葉を返した。


「欲しいものは特にないわ」

「ホラ、可愛いものとか……」

「生活に必要なものは間に合ってるし、華美な装飾のついたものは実用性に欠けると思う」

「あ、じゃあ美味しいものとか?」

「食べ物は身体が動かせる必要最低限が摂れれば十分よ。あたしは今、間に合ってる」

「……」


 ソフィアの返答に、言葉を失ってシンは彼女の顔を見つめた。不思議そうに彼女も見つめ返してくる。――強がっているわけでもなく、意地を張っているのではなく、普通にに見えた。だが、もしそれが本当ならば。ソフィアはシンに何も求めていない事になる。それは彼に言いようの無い寂しさを感じさせた。彼女にとって自分が“必要ではない”事を突きつけられたかのようで、急に身体の内側が凍えるような寒さを感じる。表情を取り繕える自信が無くなり目を伏せて俯くと、ソフィアが動揺した声を上げた。


「な……なによ、急に」


 シンが少し顔を上げると、彼女は尖った言葉の強さとは裏腹に、不安そうな顔をしていた。水色の澄んだ瞳が揺れており、シンの外套の袖口からは、冷えて赤くなった小さな手が力を失って離れかけていた。それを見た途端、シンの心に温かさが戻った。確かに彼女はシンに何も求めてはいないかもしれないが、彼女はシンをきちんと見ている。そして、彼女なりの不器用な優しさで、懸命に会話しようとしてくれている。

 ――――シンはソフィアに不安を感じさせた事を内心で恥じた。頼って欲しい、と何度も口にしているのに、不安にさせてどうする、と心の内で己を叱咤する。一度強く瞼を閉じてから、ゆっくりと開き、彼女の瞳を見詰め返す。それから、彼女の不安を少しでも取り除けるよう、安心させるように努めて柔らかく、おどけた様に微笑んだ。


「ん、ごめん、何だかお腹すいちゃって……少し早いけど、ソフィアの連れてってくれる予定だったお店、連れてってもらってもいい?」

「え? ……そう」


 きょとんと目を丸くしながらも、ソフィアは頷いた。シンの言葉を疑っている様子は無い。駄目押しとばかりにシンは言葉を続けた。


「でも、ソフィアはまだお腹空いてないかな。平気?」

「いえ、あたしも少しなら食べられるから」


 小さく首を横に振り、ソフィアは応えた。その様子にシンは満足そうに笑って彼女の手をとった。


「?!」

「良かった! 実は、朝早かったから、お腹ぺこぺこになってたんだよね!」


 握られた手にぎょっとして、慌てて手を引こうとするも、お構い無しにシンはソフィアの手を握り締めたまま、外套のポケットに自分の手と一緒に引き入れる。


「さ、行こ!」


 満面の笑みを浮かべたまま、シンが促す。「子どもじゃないんだけど」と文句を言いながらも、こうして彼の側にいると、周囲の視線が何となく和らいだ気がして、結局ソフィアはシンの手を振り払う事が出来ないまま、連れ立って歩き始めた。



* * * * * * * * * * * * * * *



「うわぁ、すごい行列のお店だね!」


 中央大通りのパンケーキの店は、昼時という事もあってかなりの列が出来ていた。シンなどは「すごいな~壮観だねぇ」などと暢気な声を上げているが、ソフィアは顔から血の気が引いた。この行列では、お目当てのものを買うまでに途方も無い時間が掛かりそうな気がした。


「あの、あたし並ぶから。シンはその辺りに座ってて。噴水の向こうにベンチがあるから」


 借りを返す相手に、晴れているとはいえ冬空の下に並ばせるわけには行かない、と慌てて促す。しかし、シンは笑顔のまま首を横に振った。


「こういうのは並ぶのも楽しいんじゃない! わくわくするし。ね? 一緒に並ぼう」


 そのまま、ソフィアの手を引いて列の最後尾に並ぶ。


「ソフィアは何が好き? 色々種類があるみたいだよ」


 空いている方の手で、シンは店の看板を指した。相変わらず“今、オークルで大人気のパンケーキ、クナートに初上陸!”と派手な看板が掛かっているが、その下に、縦長のメニューの板が新たに掛かっていた。恐らく、行列に並んでいる人に先に注文の品を決めてもらうことで、少しでも回転率を上げようと考えたのだろうが、ただ並んでいるよりは客にとっても良いかもしれない。

 メニューには、生地が2択(プレーン生地かチーズ味)、トッピングが多様にあり、客が好みで組み合わせする事で様々な味を楽しめる様だった。トッピングは木苺、山査子さんざし、橙、猿梨サルナシなど、色々な果実のコンフィチュールや干した物、ミルクを煮詰めたペースト、カスタードクリーム、様々な木の実(そのまま乾燥させたものと、蜂蜜漬けのもの)、魚のオイル漬け、削ったチーズ、クリーム状のチーズなどなど、半分以上ソフィアが想像すら出来ないもので、全部食べた事が無いものばかりだった。


「…………プレーン。トッピングはいらない」

「えー、せっかくだから色々入れたら良いのに。僕は、そうだなぁ……うーん、チーズが美味しそうだなぁ。あ、チーズに木苺か橙のコンフィチュールも良いかも」

「…………」


 つらつらと楽しげに語る彼を見て、ソフィアは「シンってたまに女子みたいだわ」と思いながらも、何とか口にせずに飲み込み、違う事を口にする。


「そういえば、あの看板……」

「ん?」

って……この町の近くなの?」

「ああ、あの看板に書かれてる文字だね」


 ソフィアの指す方を見やってから、彼女に視線を戻してシンは小首を傾げた。


「オークルはこの町とは全然近くないよ。この大陸の西にある商業大国だね」

「……?」

「うーん、そうだなぁ、ヴルズィアで言う、商業都市エランダと似た様な感じ」

「……ああ」


 商業都市エランダという単語に、ソフィアはイメージが出来たのか頷いた。エランダは2人が元いた世界、ヴルズィアの大陸のほぼ中央に位置する商業都市で、東西南北に大きな街道が走っており、物流の拠点にもなっている町だ。


あの国オークルで人気というなら、すごく美味しいだろうなぁ」

「そうなの? “自称”じゃないと良いけど」

「でも、この町には港もあるし、オークルから来る人もいるだろうからね! 下手な事は書かないと思うよ」


 にこにこと笑顔で答えてから、シンは辺りを見回した。


「それにしても、すごい行列だねぇ」

「……あの、やっぱりあたしが並ぶ……」


 表情を硬くしたソフィアがおずおずと切り出そうとした時、人の波が崩れた。人々に押されるようにソフィアの小さな身体が傾き、そのままシンの大きな腕にすっぽりと収まる。あっという間の出来事に、ソフィアは目を白黒とさせて身体を硬直させた。


「危ないね。……前の方で、少しいざこざがあったみたいだね」


 ソフィアを腕に抱きとめたまま、シンが前方を眺めて小さく呟いた。遠くから「割り込みだ」「そっちが」といったいさかいの声が聞こえてくる。待ち時間が長い事で苛立つ者もいるようだ。


「一緒にいるよ。こうしてるの楽しいし、1人で待つ方が寂しいもの」


 そっとソフィアの体勢を支えながら戻すと、シンは微笑して彼女の頭をやんわりと撫でた。彼の手が触れたその一瞬だけ、ソフィアの身体が強張る。だが、苦々しい顔をしつつも、彼の手を振り払う事はせずにいた。


「子ども扱いしないで、って何度言ったら分かるのかしらね……まったくもう」


 やや呆れ気味に呟くソフィアに、シンは笑みを深めた。



 その後、沈黙を挟みながらも他愛の無い事を話している間に少しずつ先へ進み、漸く列の先頭まで辿り着いた。並び始めてから1時間近く経ってからの事だ。


 疲労が溜まる中、吐き気や眩暈をこらえつつ、表には出さないように細心の注意を払いながら乗り越えた(?)上での注文。思わず胸に込み上げる熱い何かを感じたが、それが何か分からなかったためソフィアは気にしない事にした。


 注文は、シンはチーズの生地にサッパリとしたクリームチーズと木苺のコンフィチュール、ソフィアは何でも良かったのだが、シンが頑なにトッピングを要請した為、プレーンの生地にカスタードクリームとナッツの蜂蜜漬けを選んで料金を支払った。露店は基本的に先払いだ。


「いらっしゃい! はい、ありがとねー! っと、可愛いお嬢ちゃんはお兄ちゃんに聖夜祭の贈り物かな?!」


 この露店は注文を受けたその場で、客が選んだ生地に、客が選んだトッピングを混ぜて、焼き上げる、というスタイルだ。シンとソフィアの分のパンケーキの生地を手際よく焼きながら、店主らしき男性は顔をほころばせた。違う、と言いかけたところ、店主は更に言葉を続けた。


「偉いなぁ~! そんな偉いお嬢ちゃんには、おじさんトッピングオマケしちゃう!」


 言いながら、プレーン生地にカスタードとナッツの蜂蜜漬けを加えて焼き上げたパンケーキに、ミルクを煮詰めたペーストを止める間もなくもさり、と乗せた。


「はい、まいどぉー!」


 いい笑顔で店主が焼き上げたパンケーキを2つに折りたたんで油紙に包み、シンとソフィアにそれぞれ差し出す。礼を言って受取ると、ソフィアはシンを目で促して先導した。



 中央広場には鐘楼と噴水の他に、何本か大きなもみの木がある。そのうちの1本に隠れるようにベンチがあるのを、ソフィアはエルテナ神殿の仕事で何度か大通りを通っている時に発見していた。見つけ難い場所にある為、幸運な事に今日も誰も座っていなかった。――否、この様な寒空の中では、わざわざベンチに座るより、温かい建物の中で過ごす人が多いだけかもしれないが。

 ともかく、ソフィアその“特等席”にシンを案内した。


「……ここ。風があまり当たらないし、少しの間なら十分かなって」

「うん。穴場だね!」


 嬉しそうにシンは破顔一笑して早速座る。それを待ってから、ソフィアも少し間を空けて隣に座る。が、座ってから、さり気なくシンが風上に座っている事に気付き、交代するべく腰を浮かせた。

 ところが、


「よしっ じゃあ、出来立てのうちに食べよう!」


 にこにこと嬉しそうに笑いながら、絶妙なタイミングで言って来た為、何も言えずにすごすごと座り直すしかなかった。ソフィアがきちんと座ったことを確認すると、シンは軽く智慧神ティラーダに祈りを捧げる。それから嬉しそうに弾む声を上げた。


「いっただっきまーす!」

「……あ、い、いただき、ます」


 ソフィアの言葉を待ってる風だった為、慌てて続ける。すると、まずシンが大きな口でパンケーキにかぶりついた。その瞬間、ぱぁ、と顔を輝かせる。


「……っ すっごくおいしい!」


 大袈裟な、と突っ込みたくなるほど、シンは碧色の瞳をまんまるにしてキラキラと輝かせ、すぐに続けてパンケーキを頬張った。


「んー! ふわふわしてて、チーズ生地の塩気と、木苺の酸味と甘味がちょうどいい! ねぇソフィアもたべてごらん! おいしいよっ」

「あ、え、ええ……」


 もぐもぐと頬張りながら興奮気味に勧めてくるシンに、若干引きながらもソフィアは頷いた。それから、恐る恐るパンケーキを口に運んだ。ソフィアとしては大きな口を開けたつもりだが、いかんせん彼女の口はとても小さく、最初の一口は生地の端っこを少し齧った程度で、トッピングには全く届かなかった。



 ――だが、今まで食べた事もなかった“パンケーキ”は、彼女に衝撃を与えた。



(――――っなに、これ……)


 パンケーキの生地はふわふわと柔らかく、口の中で簡単に消えて行ったが、舌の上に甘い余韻が残っている。何と言い表したら言いか分からず、ビックリして固まったまま、ソフィアはしげしげと手にあるパンケーキを眺めた。

 寒い外気の中で、パンケーキから甘い香りと共に白い湯気が立つ。



(……これも、食べ物? なの?)


 一口目で驚愕して硬直しているソフィアを、シンは気づかれない様にそっと見詰めて嬉しそうに微笑んだ。


「ソフィアはどう?」

「えっ」


 急に話し掛けたからか、ぴょこん、と小さく飛び上がるように驚いて顔を上げる。


「あ、ええ。えー……と、甘くて、でも、甘すぎなくて、ええと……柔らかいわ」


 たどたどしく説明するソフィアに、シンは柔和な表情を崩さずに「うん」と頷いた。それから、


「すごく美味しいね」


 と目を細めてソフィアを見詰めながら、優しく、そしてどこか甘やかな声音で言った。


(……“おいしい”……)



 シンの言葉を心の中で反芻しながら、もう一度手元にあるパンケーキに目を落とす。それを持つ両手も、温かさが伝わってくる。鼻腔をくすぐる甘い香り。躊躇いがちに、ぱくりともう一口。



(――――おいしい)


 温かさと優しい甘さ。冬空の下のベンチにも関わらず、風を遮る様に寄り添ってくれるシン。何もかもがソフィアには触れた事の無いものばかりだ。

 じんわりと身体の中心が温かくなる。が、その温かさが全身に広がる前に急速に冷え始める。――慣れないささやかな幸福感よりも馴染みのある不安感が勝るのだ。

 油断をしたら、気を許したら駄目だ。こんな穏やかな日々は続くはずが無い。結局元の世界ヴルズィアにいても、今の世界テイルラットでも、ソフィアはソフィアで変わらない。“不幸”などとは思わないが、それでもソフィアは自分が“よくない事”を呼び寄せる何かを持っている気がしていた。

 こんなに、温かくて、こんなに、“おいしいもの”を食べて、その反動でいつか、隣にいるこのお人好しの半妖精ハーフエルフを自分のトラブルに巻き込んでしまうのでしまわないだろうか。そんな事を考えて、ソフィアは思わず小さく身震いをした。――常に付きまとう不安のせいで、自分がいつも悪い方向に物事を考えてしまっているとは自覚している。だが、それでもソフィアにとっては、この様な温かい空気よりも、冷えた絶望の方が余程近しいものだった。


 そこまで考えてから、ソフィアは躊躇いがちに身じろぎし、今更ながらベンチに座ったまま少しずつシンから距離を取ろうとした。が、相変わらず計った様に絶妙なタイミングで彼が声を掛けて来た。


「ソフィア、良いお店知ってるねぇ 教えてくれてありがとう!」

「……どういたしまして。おい、しかったみたいで良かったわ」

「うん! 美味しかったよ! あ、ソフィアの食べてる、ナッツのも美味しそうだね」


 嬉しそうに笑うシンに、どう反応したらいいか分からず、ソフィアは戸惑いを隠すようにむすっとした表情を浮かべながら頷いた。


「――そう。なら、今度また来て頼むと良いわ」

「うん! 今度は僕がご馳走するよ」


 さも当然、とばかりにシンは笑顔で思い掛けない事を言った。思わず柳眉をひそめてソフィアはシンを見上げる。


「ちょっと……言っとくけど、あたしは行かないわよ。今度は他の人と行きなさいよ」

「えー、いいじゃない。一緒に行こうよ」

「あたしはもう金輪際、あなたと出かけるのはごめんだわ。せっかくチャラにした借りをまた作りたくもないもの」

「貸し借りなんて気にしないで良いよ。僕がしたいだけなんだから」


 言いながら、シンはベンチから立ち上がり、「うーん」と大きく伸びをした。



(どうして?)


 なぜシンがそこまで己に構うのか、ソフィアは困惑して俯く。正直、こんな風に彼にあれこれしてもらう理由が見付からない。自分は可愛げも無く、コミュニケーション能力も低く、冒険者としても技術は無く、更に身体も弱い上、余命もないと言われている。そんな自分と、どうして「一緒にいたい」などと言うのか、ソフィアには全く理解が出来なかった。

 俯いたままパンケーキをじっと見詰める。柔らかな生地の上に、ミルクペーストがトロリと掛かっており、甘く優しい香りがする。そっと息を吐いた。



(ああ、でもきっと)


 シンは、ソフィアが知る限り“善人”だ。少なくとも、ソフィアの様に“面倒臭い”者に進んで関わろうとする時点で、相当だ。彼が笑顔で厚意を向けても、素直に受け取ることが出来ないのに、それでも彼の笑顔は失われない。差し出す手を下げる事もない。



(同郷……だから、―――ううん、あたしだけじゃなくて、……多分、この世界に、この町に、馴染めない人を、シンは放っておけないのかもしれない)


 ソフィアだけではなく、きっとネアやシアン、アトリや、いつかどこかで会った妖精エルフの女性や、孤児院の女性も。シンは誰かが困っていたり、所在無さ気にしているのを放ってはおけないのだろう。それは“神官だから”というよりも、シン個人がそういう性質たちに思えた。

 もしかしたら、彼自身が町に馴染めず、苦労をしたのかもしれない。だからこそ、手を差し伸べたくなるのかもしれない。



(同じヴルズィア出身……で、年も上で、その分長く苦労しているはずなのに……あたしみたいな相手にまで、気を遣いすぎなのよ)


 でも、それではいつか、シン自身が疲れて擦り切れてしまう。


(――そんなの駄目。シンみたいな人はちゃんと幸せにならなきゃ、おかしいわ。なのに、シンはいつも自分の事を後回しにしている気がするから……困ったものね)


 思わず深く息を吐くと、いつの間にかソフィアの正面に立っていたシンが身を屈ませて彼女の顔を覗き込む。


「ソーフィア?」

「!」


 反射的にびく、と小さく身を竦ませ、次いで顔を上げる。思った以上にシンの顔が近くにあり、ソフィアは思わず身体を後ろに傾けた。


「な、なに?」

「パンケーキ、お腹いっぱいなら包んで持って帰ると良いよ。包み紙でくるめば、カバンに入れても大丈夫だし」

「ああ……そ、そうね」


 知らぬ間に考え込んでいた事に気付き、慌てて手にあるパンケーキを包み紙でくるむ。そのまま財布代わりのベルトポーチに詰め込んだ。


「ぼーっとしていて、悪かったわね。じゃあ、あたしはこれで………………?」


 シンを放置して思案していた事を詫びてから、別れの挨拶を言いかけると、ソフィアの眼前に大きな手の平が差し出された。目をしばたたかせてから、シンの顔を見、更にもう一度手の平を見る。


「?」

「もう。ほら、手を出してごらん」

「え? ……手? あたしの??」


 思い掛けないシンの行動に、ソフィアは間抜けな声を上げた。だが、シンは気にせずに微笑んだまま頷きつつ、差し出していた手を更に彼女の手に近づける。意図が分からず、ソフィアはしばし硬直し、それから、徐々にむっとした表情を浮かべた。


「……言っとくけどあたし、手を借りなくても、ベンチから立ち上がることくらい出来るわよ?」

「そんなの分かってるよ」


 子ども扱いされたのだと勘違いして不貞腐れる彼女を見て、シンはクスッと笑った。そのまま待ちくたびれたのか、やや強引に、だが壊れ物を扱うかの様に柔らかく、彼女の小さな手を取った。


「まだ時間、いい?」

「え?」

「大丈夫なら、……もう少し、ソフィアと一緒にいたい」


 言い終わるやいなや、ぐ、とシンに握られた手が引かれ、されるがままにソフィアはよろめきながら立ち上がった。シンの表情ははにかんでいるようにも見えるが、どことなくいつもと違う雰囲気を感じる。それにますますソフィアは動揺した。



 どこかから吟遊詩人の竪琴の音色が聞こえるが、人々の喧騒は不思議とソフィアの耳には入ってこなかった。

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