第10話 熱

 澄んだ青空の下、港町クナートの人々が心待ちにしていた大きな行事イベントの一つである豊穣神エルテナ神殿主催の収穫祭が幕を開けた。


 この祭りの期間、町の人々は老若男女、更に信仰する神をも問わずエルテナ神殿へ訪れ、その年の作物の収穫を祝い、エルテナ神へ感謝の祈りを捧げるのだ。また、慣例で奉仕活動も行われる為、貧民区スラムからも多くの人々が神殿の門戸を叩く為、神殿の中は様々な人であふれ返り、エルテナ神殿に仕える者は息を着く間もないほど忙しく、すべからく走り回っていた。



 そんな中、シンとシアンも今日はエルテナ神殿に足を運んでいた。シアンは小奇麗な女性2人が“さも当然”といったていで右左それぞれの腕に両手を絡ませ陣取っている。

 右側に陣取っていた小柄の女性が小鳥がさえずる様な高く甘い声でねだる。


「ねぇ、シアン。私甘いのが食べたいっ」

「太るぜ」


 全く嬉しくなさそうに、むしろ呆れたようにシアンはボソッと返す。その言葉に、女性は頬を赤くして口を尖らせる、耳の下で切り揃えた金の髪を綺麗になびかせながら首を横に「イヤイヤ」と振った。

 それを黙って見ていた、シアンの反対側に陣取っていた落ち着いた雰囲気の女性が今度は口を開く。


「それなら、私は露店バザーを見てみたいですわ」

「ああ、それなら、」

「あっ 私も私もっ」


 答えるシアンの声に、慌てて金の髪の小柄な女性が体ごとシアンとその女性との間に割り込む。「あんっ」と小さな不満の声を上げて、やや年上と思われる茶色い髪の落ち着いた女性が数歩よろけた。


「んなに行きたいなら、2人で行けよ……」


 うんざり顔でシアンがぼやく。パッと見、女性2人を両脇にはべらせてハーレムか、といった様に見える――実際その様な嫉妬の目でシアンを見、舌打ちしてすれ違う男性が数人いた――が、どうやら話している内容からするとあまり……というか、殆ど色気を感じない。


 その様子を見ていたシンは、楽しそうにくすくすと笑みを漏らした。気付いたシアンが目を三角にする。


「シンさん! 見てないで助けてくださいよ!」

「えー、何だかんだ言って、シアン楽しそうじゃない?」

「いやいやいや、誤解ですって……」

「ふふ」

「って、揶揄からかってます?!」

揶揄からかってないよ。仲良くていいなぁとは思うけど。……さて、ソフィアは収穫祭でもお手伝いしてるかなぁ」


 あからさまに視線と話題を逸らして、シンは目を細めて辺りを見回した。


 ごった返す人ごみの中でも、もしソフィアがこの場にいるのであれば、何となく自分なら彼女を見つけることが出来そうな気がしていた。――全く持って根拠の無い自信だったが。



 しばらく4人で露店をぶらぶらとし、シアンはせがまれて――そして断るのに疲れて――女性2人に小物をいくつか買い与えたりしたが、一向にソフィアは見付からなかった。


「うーん……甘かったかな」


 思わず小さくこぼすが、その声は誰の耳にも届かずに雑踏に消えていく。その時。


「まぁ、こんにちは、シンさん」


 通り過ぎようとした神官服の女性が振り返って彼らに声を掛けた。その顔はシンもシアンも良く知っていた。


「ああ、アトリちゃん、こんにちは。今日はすごく盛況だね。お疲れ様」


 微笑んでシンは彼女アトリの労をねぎらう。その言葉にアトリは両手をぶんぶんと顔の前で振り「そんなそんなっ わたしなどまだまだ、全然ですよ!」と恐縮する。アトリ自身は神殿の下働きを自負しており日々畑仕事や神殿の床磨きに精を出している。だが、シンは智慧ティラーダ神殿で「あの女性アトリ豊穣エルテナ神殿司祭の秘蔵っ子だ」などと誰かが言っていたのを聞いた事がある。それがどういう意味なのかは正確には分からないが、もしかしたら神の奇跡を行使できる力を持っているのかもしれない。


「シンさんは、今日はシアンさん達とお出掛けですか?」


 やや太目の素朴な眉を下げた笑顔で、アトリは彼らの顔を順に見た。シアンを挟んで牽制しあっていた女性2人もその笑顔に毒気を抜かれ、我に返ったのか恥ずかしそうに俯いた。シアンはというと「やー、アトリのお陰でやっと静かになったぜ!」などと軽口を叩いていたが。

 シンはアトリの言葉ににこにこと微笑みを浮かべたまま大きく頷いた。


「うん、せっかくの収穫祭だもの。お邪魔しに来ちゃった!」

「嬉しいです! 楽しんで行って下さいね!」


 ぽんっと両手の平を胸の前で合わせて破顔一笑するアトリに、さり気なく「そういえば」とシンは言葉を続ける。


「ソフィアは今日は来ていないの?」

「まぁ、シンさんはソフィアさんとお知り合いなんですか!」

「うん」


 未だにソフィアの名前を“蜂蜜酒ミード”だと思っているシアンは「ソフィアって誰だ?」と首を捻っているが、気にせずシンはアトリに尋ねた。


神殿ここで収穫祭の準備の手伝いをしてるって聞いてたから……てっきり、今日も手伝いをしてるのかなって思ってたんだけど」

「ああ、そうだったんですね……わたしもお願いできたらと思っていたのですが」


 少しだけ顔を曇らせて言葉を切る。その様子にシンは胸騒ぎを覚えて眉を顰めた。――時間にして30秒ほど迷ったアトリだったが、次の言葉を待っているシンの様子に根負けして再び口を開いた。


一昨日おととい、神殿に休むと伝言がありまして」

「“伝言”? ――が?」


 理由より先に、伝言を伝えてきた相手を問われて、アトリはやや面食らいながら小さくかぶりを振った。


「え? その……わたしが受けたわけではないので分かりません」

「そっか……ごめん、それで?」

「はい。ずっと頑張ってくれていたので心配になりまして、昨日ソフィアさんの宿を訪ねたところ……」


 そこでシンは吃驚したように軽く目をみはった。その反応に思わずアトリは言葉を切る。


「どうかなさいましたか?」

「! あ、いや、大丈夫。それで、宿でどうしたの?」


 慌てて素早く微笑んで誤魔化しつつ、内心でシンは「僕には教えてくれなかったのにな、泊まっている宿」などと幼稚な文句を呟いた。しかし、それを微塵も表に出さず、アトリに先を促した。年の功かはさておき、アトリはシンの心の内を察する事なく素直にその笑顔に促されるままに続けた。

 だが、彼女の次の一言は、シンに大きな衝撃を与えた。


「それが、ソフィアさんが部屋で倒れてまして……」

「えっ」


 小さく声を漏らしたまま絶句する。しかし、そこは凄腕ベテラン冒険者たる者、すぐに頭を切り替えて詳細を求めた。


「倒れていたって、どういう事?」


 シン自身は気をつけていたつもりだが、どうしてもいつもより語気が強くなってしまう。

 脳裏に思い浮かぶ彼女ソフィアの姿は、自称年齢と同じ年嵩の少年少女達と比べて極端に小さく細い身体をしている。シン自身も智慧神ティラーダに仕える神官であり、貧民区スラムで飢えた子ども達を幾度も見かけているが、印象としてはそれに近い。その彼女が、倒れた。最悪の結末が脳裏をぎり、背筋に冷たい汗が滲んだ。


「はい……あの……熱を出していまして」

「熱? まさか、流行り病じゃないよね?」

「恐らく感冒かぜではないかと」

「そっか……」


 “豊穣エルテナ神殿司祭の秘蔵っ子”と噂のアトリが言うのであれば、恐らくほぼ間違いなくそうなのだろう。はぁ、と大きな息の塊を吐き出すと、離れて見ていたシアンが「シンさんちょっと大袈裟じゃね?」と苦笑した。その言葉に、微苦笑を浮かべて「そんな事ないよ」と返す。――ただの感冒かぜでも、抵抗力の低い子どもや老人では亡くなる事もあるのだ。シンが見た限り、ソフィアは身体が弱い。――それもかなり。免疫力も抵抗力も軽く見ただけで低いと分かる。


「今は、どうしてるの?」


 極力平静を装いつつ、微笑を浮かべてシンはアトリに彼女の様子を尋ねた。


「わたしが行った時は意識があって、まだ動けるから平気だと、畑に出ようとしていましたが、全力で止めさせて頂きました!」


 ぎゅ、と握り拳を作ってアトリは高らかに声を上げる。何となく得意げだ。だが、すぐにしおしおと眉を下げた。


「その後は、熱のせいもあって意識が朦朧としてしまったので、一度神殿に戻って薬湯やくとうを作って戻って……何とか飲ませてあげられたので、後は宿の方に様子見をお願いしてきました」


 言いながら、そっと視線を遠くへやる。その先に恐らく、ソフィアの休む宿があるのだろう。


「今日も夕方、少し手が空いたらもう一度見に行くつもりなんですけど……あの、シンさん」

「うん?」

「お帰りの際に、もしお時間が少しありましたら……ソフィアさんの様子を見てくださいませんか?」

「え? 僕?」

「はい。シンさんは智慧神ティラーダ様の神官様ですし……ソフィアさんともお友達なんですよね?」

「お友達……なのかなぁ」

「え?」


 シンの反応に、アトリは目を丸くする。


「何度か偶然会った事はあるんだけど、泊まってる宿も知らないし……いつもあんまり僕の事、覚えてないみたいだったし」


 ソフィアと会うたび、彼女はシンをまるで初対面の様な目で見る。いや、それでも先日は、どこかで会ったかも、という様な戸惑いはあったようだが。――それでも、その程度の間柄だ。


「ソフィアは少し人見知り……なのかな。警戒心が強いところがあるから、僕が行ってもあまり良い顔をしないかもしれないなって思って」

「う……だ、ダメ……でしょうか」

「うーん」


 正直シンも心配は心配だったが、何度か見かけた彼女の様子からすると、素直に自分に看病させてくれるようには到底思えなかった。シアンはさっさと女性2人と露店巡りを再開しており、意見を求める事もできない。――とはいえ、シアンはソフィアと会った事などあまりないだろうから、一般的な―――意見くらいしか出てこないかもしれない。それでは役に立たない。ならいなくていいか、と気を取り直すも、どう返答すべきか迷ってしまう。


「あの、シンさん」

「ん、なんだい?」


 不意に、アトリが真剣な顔で躊躇いがちに声を掛けて来た。小首を傾げて彼女を見ると、灰紫のつぶらな瞳と目が合った。


「ソフィアさんは……警戒心が強い、というか……それ・・が普・・、なんだと思います。何だかその……見ていて、そう思えて」

普通・・?」

「はい。体調が悪いなら甘えてくれればこちらも助かるのですが。――ソフィアさんは甘えないのではないんです。甘え・・ると・・いう・・事自・・体を・・知ら・・ない・・んです。…きっと」

「……」

「だから、あの子の態度は――決してシンさんだから、とか、わたしだから、とか、そういう事ではないのではないでしょうか。――ソフィアさんにとって今までは、周りに存在するもの全てが気を許せるようなものではなかったんじゃないかって、わたしには、そう思えて」


 寂寥を帯びた声でそっとアトリは呟く。


「それに、お会いしたばかりの頃、ソフィアさんはご自身の年齢を“数えていた”と仰っていました」

「――数え・・?」

「はい。――当然の様に。でも、それって、つまり――ソフィアさんの身近には、ソフィアさんに年齢を教えてくれる人も、勿論、祝う人も……いない環境にいた、という事ですよね。だって、自分で数えるなんて、」


 言いながらアトリは視線を己のつま先に落とした。そして、彼女の言葉にシンも僅かに眉を寄せる。――半妖精ハーフエルフを忌避するあの世界ヴルズィアであれば、あってもおかしくない話しだ。

 シンの表情の変化に気付かず、俯いたままアトリは続けた。


「それに、わたしがソフィアさんに長靴ブーツを差し上げた時。……ちゃんとサイズが合っているにも関わらず、歩きなれない様子で、――神殿に戻ってきた時には両足の踵にひどい靴ずれを起こしていたようでした。……まるで、」


 初めて靴を履いたみたいな、と言いかけてアトリは声を震わせて言葉を飲み込んだ。咽喉にじわりと苦いものが広がった気がして、ぎゅう、と胸元の襟を両手で握り締める。その様子を黙ってみていたシンは優しく微笑むと、手を伸ばしてそっとアトリの頭を撫でた。


「アトリちゃんの気持ちは分かったよ。――ソフィアを心配なのは、僕も同じ」

「シンさん……」

「大丈夫。これからソフィアの様子を見てくるよ。アトリちゃんが来るまで看病もしておくから、安心して?」

「! ありがとう、ございますっ!」


 潤んだ瞳で、アトリは声を震わせて礼を述べた。その後、アトリからソフィアの泊まる宿が、“春告鳥フォルタナの翼亭”であると教わった。――実はシンは、ソフィアが報酬の受け渡し場所に指定してきた時から、彼女がそこに泊まってるのではないかと薄々疑っていた。やっぱりなぁ、と小声で零すと、そのまますぐにシアン達に別れを告げ、収穫祭で未だ賑わうエルテナ神殿を後にした。



* * * * * * * * * * * * * * *



「ソフィア、いる?」


 穏やかなテノールの声がドアの外から響き、ソフィアはベッドの上で意識を浮上させた。その声がソフィアの耳から入り脳に届き、言葉の内容と声の主を理解するまでにやや時間が掛かった。

 そして理解してから、理解した事を後悔した。いつの間に自分の部屋をシンが知ったのか、なぜ訪ねて来たのか、分からない事だらけだ。だからこそ、



(聞き間違い、空耳、幻聴、)


 呪文の様に脳内で自分を誤魔化す為の単語を唱え、無理矢理聞こえなかった振りをしようとベッドの中でぎゅっと目を閉じた。


 だが、シンは諦めずに、再度ノックする。


「ソフィア? ……もしかして、寝てる?」


 ――思わずイラッとしてソフィアは胸中で毒づく。


(「寝てるかも」って思うなら、普通帰るでしょ?! もーっ 早く帰りなさいよ!)


 ベッドに体を横たえたまま、ソフィアは渋面を浮かべた。


 元々ソフィアは寝つきが非常に悪く眠りも浅い。その上、現在は熱が高くて意識の浮き沈みを繰り返していた為、これだけ音を立てられたらもし寝ていても起きただろう。



 ふと、ノックの音が止んだ。ようやく帰る気になったのか、と思った矢先、シンは爆弾発言を投下した。


「えっと、寝てたらごめんね? 入るよ」



(はぁああああああああああああ!!!!?)


 ドアのノブが動く。反射的にソフィアは、シンを制する声を上げようとして、


「―――っゴホ! ゲホッ ゲホゲホッ!」


 ―――盛大に失敗して咳き込んでしまった。

 しまった、と思ったが既に時遅し。扉の外の気配が息を飲むのが分かった。こうなっては、居留守も寝たフリも通用しない。



「入るよ」


 先ほどのセリフと同じだが、声音は全く異なり、それは呼びかけというよりは有無を言わせない宣言だった。次いでドアが開き、先ほどまでは聞こえなかった階下のざわめきが耳に流れ込んできた。抗議の意をこめて睨んでやろう、と重い身体を身動みじろぎさせると、


「ソフィア……!」


 青ざめた声がした。


 正直、シンはいつも朗らかで余裕があったので、こんな声を出すとは意外だった。どんな顔をしているのか、少々興味を覚えるが、身体は相変わらず泥の様に重たく動かない。

 と、気遣わしげにそっと、ソフィアの額に大きな掌が被さった。思わず反射的にビクリと身を竦ませる。だが、その手の主もソフィアに触れた瞬間、衝撃を受けたように小さく震えた。のろのろと視線を動かすと目の端にシンがいた。顔の高さからすると、ベッドサイドにひざまづいているのだろう。そのシンの顔を見て、ソフィアは眉をしかめた。


(……なんて顔をしてるのよ……)


 彼は、少なくとも今まで見た事がないような顔をしていた。それは、怒っているような、でも泣き出しそうな表情で、見ていると居た堪れない気持ちになるものだった。

 困惑して思わず身を引こうとすると、させてなるものか、とばかりにソフィアの額に置くシンの掌に力が篭もる。必然的にソフィアはベッドに押さえ込まれる形になった。


「動かないで」


 今までのシンでは想像がつかないような、押し殺したような低い声に、思わずソフィアはベッド中で身をすくませた。



(え、どうして、……怒ってる?)


「怒ってるんじゃないよ」

「!」


 まるでソフィアの心を読んだかのように、タイミングよくシンが答える。


「ただ……なんだろう。寂しいというか、ちょっと悔しいのかな」


 そっとソフィアの額に置いた掌の力を緩めてから、シンは彼女の額に汗で張り付いてる前髪を優しく手で梳いた。


「少なくとも、君は僕にとって、ヴルズィアから遠く離れたテイルラットで出会えた数少ない同郷の仲間だ。アトリちゃんだけじゃなくて、もう少し僕も頼ってくれてもいいのになって」


 歯痒さの滲む声でシンは小さく呟く。だが、それに応える言葉をソフィアは持たなかった。同郷と言われてもピンと来ないし、頼れといわれても、頼り方など知らないし、そもそも、そんなに親しい間柄ではなかったはずだ。――少なくとも、ソフィアはその認識だ。

 困惑した表情を浮かべるソフィアの顔を見て、シンは少し困ったように微笑を浮かべた。


「……ごめん、これは僕の我侭だよね。でも僕は、皆を守るような度量はないけど、せめて手の届く範囲、言葉を交わした人達くらいは守りたい。それが僕が僕であるための矜持きょうじだから」


 言いながら、ソフィアの額から手を離し、彼女ソフィアの身体を包むように掛け布団をかけた。それから首元を温めるようにブランケットを襟元へ重ねる。


「……」

「ん、なに?」

「……っコホッ……」

「ああ、ちょっと待って」


 物を置く程度の小さな1本足の丸テーブルの上に、宿が用意した水差しがある。シンはそこへ行くとコップに半分ほど水を注ぎ、ソフィアの元へ戻ってきた。


「熱が高いからね。すぐに咽喉も乾燥すると思う。ちゃんと枕元に飲み水を用意しておかなくちゃ駄目だよ」


 妙に詳しい。神官だからだろうか? いや、孤児院の子どもの世話や、案外彼自身もよく感冒かぜに掛かるのかもしれない。そんな事をぼんやりと考えていると、不意に頭の下にシンの手が差し込まれた。思わずぎょっとしてから、身をよじって逃げようとする。


「身体を起こさないと、水を飲めないでしょ。――それとも、違う方法で飲ませてあげようか?」


 その表情はにっこりと笑っているが、どことなく逆らえない空気を感じる。

 ――違う方法って何だろう、と一瞬思ったが、怖くなって深く考えるのをやめた。素直にシンに頭を起こしてもらいながら、グラスに唇を寄せる。


「慌てて飲んじゃ駄目だよ。少しずつ、ゆっくり口に含んでから飲み込んで」


 先ほどと打って変わって今度は優しい声音でシンが囁く。言われた通りに僅かに水を口に含むと、じんわりと口中全体に染み渡った。自分で思っていた以上に喉が渇いていた事に気付き、一気に飲みたくなる。だが、むせる事は容易に想像が出来たため、堪えながら少しずつ飲み込んだ。

 時間をかけて、コップ半分の水を3分の1ほど飲んだところで、ソフィアは小さく息を吐いた。声を出そうとすると生じた、空気が咽喉にからまるような不快感はだいぶ治まったようだ。息を整えてから、最初にソフィアは侘びの言葉を口にした。


「世話を、かけたわね」


 ばつが悪そうな顔で俯くと、シンはソフィアを抱き起こしたままで、もう片手でコップを枕元の台に置きながら柔らかく微笑んで首を横に振った。


「こういうのってお互い様だから。いつかソフィアが、困っている人を見かけたら助けてあげて」

「いや、助け……られる気がしないんだけど。」

「今は出来る事が少なくても、これからどんどん増やしていけば良いんだから」

「はぁ……」


 相変わらず反応に困ることを言う人だ、とソフィアは微妙な顔をする。その様子を見てシンはクスッと笑った。


「それよりまずは、体調を整えないと」

「ああ……寒い時期は、いつもだから、平気よ」

「でも、辛いでしょ?」

「問題ないわ」

「あるでしょ」


 食い下がるシンに、戸惑ったようにソフィアは目を向ける。


「ないわ。――まぁ、今日は大人しくしてるから、あなたはそろそろ……」


 言いかけて、何かに気付いた様にソフィアの水色の瞳が大きく見開かれた。


「え、なに? どうしたの?」


 その様子に驚いてシンがソフィアに手を伸ばすが、その手は素早くソフィアによって振り払われた。思わずシンは弾かれた自分の手とソフィアを交互に見る。


「ソフィア?」

「帰って!」


 初めて聞くような、固く強い声音でソフィアが短く言い放つ。続けて、強い拒絶の言葉を発する。


「そうよ……なんで? なんであなたがここに来たの?」

「何でって……ああ、アトリちゃんに頼まれたんだよ。収穫祭が終わる時間までソフィアを診てるって約束して……」

「はぁ?! 安請け合いも程々にしなさいよ!」

「安請け合いって…」


 困惑した様にシンがソフィアの顔を覗き込もうとすると、どこにそんな力が残っていたのか、と驚くほど強くソフィアの両手がシンを押し返した。


「どうしたも、こうしたも、ない! あたしから離れて……っ 出てってよ!」


 ソフィアのあまりの強固な態度に、シンは閉口した。――弱っている姿を他人に見せたくないのは分かる。元の世界で迫害を強く受けていたとしたら尚更、仕方が無いのかもしれない。だが、ここで意地を張っていても、彼女自身にとって良くないだろうに……そんな事を考えて、やや呆れたようにシンは内心でため息を吐いた。

 さて、駄々・・をこねる彼女をどう説得すべきか……そう思った矢先、ソフィアは彼の予想外の事を口にした。


「あなた、自分の仕事が何だか、分かってるの?」

「え?」


 思わず間抜けな声を出して聞き返してしまった。その声が聞こえたのかどうかは分からないが、彼女は相変わらず固い声で更に問うた。


「あなたの仕事」

「?? え? 孤児院の手伝いだよ?」


 言葉の意味を図りかねてきょとんとソフィアを見つめると、彼女は強く非難の色を込めて見つめ返してきた。


「何度も聞いたから知ってるし、何よりそれはあなた自身が一番良く分かってるでしょ。……あたしは、職種・・の事を聞いたんじゃない。――あなたの仕事がどんな仕事なのか、――それを分かっていて来たのか、って聞いたの。」


 一旦言葉を切って、彼女ソフィアは苦しそうに小さく息を吐いた。反射的にシンはソフィアへ手を伸ばすが、彼女は力を振り絞ってその手を避ける。


「孤児院って――小さい子どもがたくさんいるんでしょ?」

「……」

「子どもって……あたしみたいな大人より、抵抗力、ないんでしょ」

「……」

「万が一、あなたがあたしの病気を孤児院に持ち帰って小さな子どもが罹ったりしたら、どうするの……!」

「……」


 言い返す事が出来ない。――呆然とシンはソフィアの話す言葉を聞き続けた。


「……アトリに頼まれて来てくれた事、には感謝するわ。あの人心配性で泣き虫だもの。あなたがあたしを見に行くって言ってくれなかったら、仕事に手がつかなくてまた侍祭じさい様に叱られるでしょうからね」


 でも、と彼女は続ける。


「あなたはあなたの大切な人たちを守りたいんでしょう? だったら、あなたの矜持きょうじの為にも、あなたは本当であれば、アトリのお願いを断るべきだったのよ」


 真っ直ぐにシンを見る、澄んだ水色の瞳。――彼女が放った拒絶の言葉は、シンが思うような“幼稚な意地”でも“虚勢”でも、決してなかったのだ。


「……とにかく、今あなたがとるべき行動は一つ。早急にこの部屋から出て、念入りに手洗いうがいをして、孤児院に戻ったら中に入る前に上着を脱いでそのまま自室へ行って着替えてから仕事をしなさい。分かったわね?」


 一息に言ってから、ソフィアは大きく息を吐いた。かなり疲れたが、言いたい事は言ってやった、という満足感がソフィアにはあった。逆に、シンはぽかんとしたまま、身動みじろぎもせずにソフィアを見つめていた。


「……聞こえなかったの?」


 むっとしてソフィアは動こうとしないシンに抗議する。すると、ゆっくりとシンは首を横に振り、聞こえているという意思を示した。


「じゃあ、さっさと……」

「どうして」

「え?」


 思い掛けない、シンの弱く震えた声に、思わずソフィアは目をみはってベッドの傍らにひざまづいたままのシンをまじまじと見つめた。


「どうして、そんなに……」


 シンは、途方にくれたような、涙を堪えるような表情をしていた。――何故、シンがそんな顔をしているのか理由が分からず、困惑した面持ちでソフィアはかける言葉を探しつつ視線を彷徨さまよわせる。



(言い過ぎたかしら……)


 だが、もしそうなったらシンはせっかく手にしていた安定した職場を失う事になりかねない。何だかんだでシンにはソフィアなりに色々恩らしきものも感じているので、それを仇で返す事などしたくはなかった。シンがその危険に気付けないのであれば、ソフィアが気付いて指摘するしかない。そう、無理矢理自分の中で結論付けて罪悪感を少しでも軽くしようと努力した。

 それでも気まずさは無くならず、ソフィアは視線を彷徨わせた。その時、シンがゆっくりと口を開いた。


「ソフィア、大丈夫だよ」

「え?」


 唐突に言われた言葉の意味が理解できず、ソフィアはシンを見た。すると、シンは満面に嬉しそうな笑みを浮かべてもう一度「大丈夫」と繰り返した。――その表情が、今まで見ていた彼の微笑とは明らかに異なる色を持っていて、ソフィアは驚いて目をみはった。シンは今、正に、今までのような上辺だけの微笑みではなく、初めて心からの笑顔を見せたのだ。生憎ソフィアにはその変化の詳細は分からなかったが、それでも「今までとは何か違う」という事はハッキリと分かった。


「大丈夫、って……」


 何が、と続ける事が出来ず、困惑したまま思わず声を詰まらせる。すると、穏やかに笑みを深めてシンは答えた。


「僕、身体は丈夫なんだ。体力が普通の人よりだいぶあるからね。若い頃から今まで、病といったものにかかった事ないんだよ。大袈裟じゃなく」


 それに、とシンは続けつつ、ソフィアの手にそっと自分の手を重ねた。反射的に弾かれたように己の手を引っ込めようとしたソフィアだったが、逆にぎゅっと手を握り込まれてしまい困惑する。その表情を見て、シンは目を細めて嬉しそうに笑った。


「前、エルテナ神殿の畑で、男の人達が言ってたでしょ。僕が、神の奇跡が司祭クラスだって。あれも本当。だから、もし万が一病に罹ったとしても自分で治せるから大丈夫」

「えっ」

「ソフィアも、治そうか?」

「い、いや、やめて。聞いた事があるわ。神の奇跡で病を治すのって、ものすごい高額だって」


 青ざめてソフィアは即答で辞退した。「ソフィアからお金なんか取らないよ」とシンは笑うが、断固として拒否する。


「そういうのは、あたしにじゃなくて、本当に必要な時にとっておきなさいよ」

「――分かった。今のソフィアなら、神の奇跡を使うよりゆっくり休息をとりながら治療した方がいいだろうからね。でも、必要になったらソフィアが何と言っても使うからね」


 しれっと笑顔で言い切ったシンに、ソフィアは思わず顔を顰めた。続けて文句を言おうと口を開いたが、その唇にシンの指が伸び、そっと触れた。思わずソフィアは息を飲んで硬直した。黙り込んだソフィアに、シンはふわりと微笑んだ。


「もうおしゃべりはお仕舞い。――アトリちゃんが来るまでは僕がいるから、ソフィアは休んでなよ」


 シンのもう片方の手は、相変わらずソフィアの手を握ったままだった。力は篭もってはおらず、そっと重ねるような握り方だったが、それでもソフィアに振りほどけるようなものではなかった。だが、戸惑いはあっても嫌悪感はない。それがソフィアにとっては小さな驚きだった。


 大きなシンの掌は意外と骨ばってひんやりと感じたが、しばらくするとソフィアの熱が伝わったのか、馴染んで境界が分からなくなった。



 当初は傍に人がいて休めるものか、と思ったものだが、高熱による疲労が想像以上に大きかったのか、直に意識を失うように眠りについたのだった。

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