第10話 熱
澄んだ青空の下、港町クナートの人々が心待ちにしていた大きな
この祭りの期間、町の人々は老若男女、更に信仰する神をも問わずエルテナ神殿へ訪れ、その年の作物の収穫を祝い、エルテナ神へ感謝の祈りを捧げるのだ。また、慣例で奉仕活動も行われる為、
そんな中、シンとシアンも今日はエルテナ神殿に足を運んでいた。シアンは小奇麗な女性2人が“さも当然”といった
右側に陣取っていた小柄の女性が小鳥が
「ねぇ、シアン。私甘いのが食べたいっ」
「太るぜ」
全く嬉しくなさそうに、むしろ呆れたようにシアンはボソッと返す。その言葉に、女性は頬を赤くして口を尖らせる、耳の下で切り揃えた金の髪を綺麗に
それを黙って見ていた、シアンの反対側に陣取っていた落ち着いた雰囲気の女性が今度は口を開く。
「それなら、私は
「ああ、それなら、」
「あっ 私も私もっ」
答えるシアンの声に、慌てて金の髪の小柄な女性が体ごとシアンとその女性との間に割り込む。「あんっ」と小さな不満の声を上げて、やや年上と思われる茶色い髪の落ち着いた女性が数歩よろけた。
「んなに行きたいなら、2人で行けよ……」
うんざり顔でシアンがぼやく。パッと見、女性2人を両脇に
その様子を見ていたシンは、楽しそうにくすくすと笑みを漏らした。気付いたシアンが目を三角にする。
「シンさん! 見てないで助けてくださいよ!」
「えー、何だかんだ言って、シアン楽しそうじゃない?」
「いやいやいや、誤解ですって……」
「ふふ」
「って、
「
あからさまに視線と話題を逸らして、シンは目を細めて辺りを見回した。
ごった返す人ごみの中でも、もしソフィアがこの場にいるのであれば、何となく自分なら彼女を見つけることが出来そうな気がしていた。――全く持って根拠の無い自信だったが。
しばらく4人で露店をぶらぶらとし、シアンはせがまれて――そして断るのに疲れて――女性2人に小物をいくつか買い与えたりしたが、一向にソフィアは見付からなかった。
「うーん……甘かったかな」
思わず小さくこぼすが、その声は誰の耳にも届かずに雑踏に消えていく。その時。
「まぁ、こんにちは、シンさん」
通り過ぎようとした神官服の女性が振り返って彼らに声を掛けた。その顔はシンもシアンも良く知っていた。
「ああ、アトリちゃん、こんにちは。今日はすごく盛況だね。お疲れ様」
微笑んでシンは
「シンさんは、今日はシアンさん達とお出掛けですか?」
やや太目の素朴な眉を下げた笑顔で、アトリは彼らの顔を順に見た。シアンを挟んで牽制しあっていた女性2人もその笑顔に毒気を抜かれ、我に返ったのか恥ずかしそうに俯いた。シアンはというと「やー、アトリのお陰でやっと静かになったぜ!」などと軽口を叩いていたが。
シンはアトリの言葉ににこにこと微笑みを浮かべたまま大きく頷いた。
「うん、せっかくの収穫祭だもの。お邪魔しに来ちゃった!」
「嬉しいです! 楽しんで行って下さいね!」
ぽんっと両手の平を胸の前で合わせて破顔一笑するアトリに、さり気なく「そういえば」とシンは言葉を続ける。
「ソフィアは今日は来ていないの?」
「まぁ、シンさんはソフィアさんとお知り合いなんですか!」
「うん」
未だにソフィアの名前を“
「
「ああ、そうだったんですね……わたしもお願いできたらと思っていたのですが」
少しだけ顔を曇らせて言葉を切る。その様子にシンは胸騒ぎを覚えて眉を顰めた。――時間にして30秒ほど迷ったアトリだったが、次の言葉を待っているシンの様子に根負けして再び口を開いた。
「
「“伝言”? ――
理由より先に、伝言を伝えてきた相手を問われて、アトリはやや面食らいながら小さく
「え? その……わたしが受けたわけではないので分かりません」
「そっか……ごめん、それで?」
「はい。ずっと頑張ってくれていたので心配になりまして、昨日ソフィアさんの宿を訪ねたところ……」
そこでシンは吃驚したように軽く目を
「どうかなさいましたか?」
「! あ、いや、大丈夫。それで、宿でどうしたの?」
慌てて素早く微笑んで誤魔化しつつ、内心でシンは「僕には教えてくれなかったのにな、泊まっている宿」などと幼稚な文句を呟いた。しかし、それを微塵も表に出さず、アトリに先を促した。年の功かはさておき、アトリはシンの心の内を察する事なく素直にその笑顔に促されるままに続けた。
だが、彼女の次の一言は、シンに大きな衝撃を与えた。
「それが、ソフィアさんが部屋で倒れてまして……」
「えっ」
小さく声を漏らしたまま絶句する。しかし、そこは
「倒れていたって、どういう事?」
シン自身は気をつけていたつもりだが、どうしてもいつもより語気が強くなってしまう。
脳裏に思い浮かぶ
「はい……あの……熱を出していまして」
「熱? まさか、流行り病じゃないよね?」
「恐らく
「そっか……」
“
「今は、どうしてるの?」
極力平静を装いつつ、微笑を浮かべてシンはアトリに彼女の様子を尋ねた。
「わたしが行った時は意識があって、まだ動けるから平気だと、畑に出ようとしていましたが、全力で止めさせて頂きました!」
ぎゅ、と握り拳を作ってアトリは高らかに声を上げる。何となく得意げだ。だが、すぐにしおしおと眉を下げた。
「その後は、熱のせいもあって意識が朦朧としてしまったので、一度神殿に戻って
言いながら、そっと視線を遠くへやる。その先に恐らく、ソフィアの休む宿があるのだろう。
「今日も夕方、少し手が空いたらもう一度見に行くつもりなんですけど……あの、シンさん」
「うん?」
「お帰りの際に、もしお時間が少しありましたら……ソフィアさんの様子を見てくださいませんか?」
「え? 僕?」
「はい。シンさんは
「お友達……なのかなぁ」
「え?」
シンの反応に、アトリは目を丸くする。
「何度か偶然会った事はあるんだけど、泊まってる宿も知らないし……いつもあんまり僕の事、覚えてないみたいだったし」
ソフィアと会うたび、彼女はシンをまるで初対面の様な目で見る。いや、それでも先日は、どこかで会ったかも、という様な戸惑いはあったようだが。――それでも、その程度の間柄だ。
「ソフィアは少し人見知り……なのかな。警戒心が強いところがあるから、僕が行ってもあまり良い顔をしないかもしれないなって思って」
「う……だ、ダメ……でしょうか」
「うーん」
正直シンも心配は心配だったが、何度か見かけた彼女の様子からすると、素直に自分に看病させてくれるようには到底思えなかった。シアンはさっさと女性2人と露店巡りを再開しており、意見を求める事もできない。――とはいえ、シアンはソフィアと会った事などあまりないだろうから、一般的な―――
「あの、シンさん」
「ん、なんだい?」
不意に、アトリが真剣な顔で躊躇いがちに声を掛けて来た。小首を傾げて彼女を見ると、灰紫のつぶらな瞳と目が合った。
「ソフィアさんは……警戒心が強い、というか……
「
「はい。体調が悪いなら甘えてくれればこちらも助かるのですが。――ソフィアさんは甘えないのではないんです。
「……」
「だから、あの子の態度は――決してシンさんだから、とか、わたしだから、とか、そういう事ではないのではないでしょうか。――ソフィアさんにとって今までは、周りに存在するもの全てが気を許せるようなものではなかったんじゃないかって、わたしには、そう思えて」
寂寥を帯びた声でそっとアトリは呟く。
「それに、お会いしたばかりの頃、ソフィアさんはご自身の年齢を“数えていた”と仰っていました」
「――
「はい。――当然の様に。でも、それって、つまり――ソフィアさんの身近には、ソフィアさんに年齢を教えてくれる人も、勿論、祝う人も……いない環境にいた、という事ですよね。だって、自分で数えるなんて、」
言いながらアトリは視線を己のつま先に落とした。そして、彼女の言葉にシンも僅かに眉を寄せる。――
シンの表情の変化に気付かず、俯いたままアトリは続けた。
「それに、わたしがソフィアさんに
初めて靴を履いたみたいな、と言いかけてアトリは声を震わせて言葉を飲み込んだ。咽喉にじわりと苦いものが広がった気がして、ぎゅう、と胸元の襟を両手で握り締める。その様子を黙ってみていたシンは優しく微笑むと、手を伸ばしてそっとアトリの頭を撫でた。
「アトリちゃんの気持ちは分かったよ。――ソフィアを心配なのは、僕も同じ」
「シンさん……」
「大丈夫。これからソフィアの様子を見てくるよ。アトリちゃんが来るまで看病もしておくから、安心して?」
「! ありがとう、ございますっ!」
潤んだ瞳で、アトリは声を震わせて礼を述べた。その後、アトリからソフィアの泊まる宿が、“
* * * * * * * * * * * * * * *
「ソフィア、いる?」
穏やかなテノールの声がドアの外から響き、ソフィアはベッドの上で意識を浮上させた。その声がソフィアの耳から入り脳に届き、言葉の内容と声の主を理解するまでにやや時間が掛かった。
そして理解してから、理解した事を後悔した。いつの間に自分の部屋をシンが知ったのか、なぜ訪ねて来たのか、分からない事だらけだ。だからこそ、
(聞き間違い、空耳、幻聴、)
呪文の様に脳内で自分を誤魔化す為の単語を唱え、無理矢理聞こえなかった振りをしようとベッドの中でぎゅっと目を閉じた。
だが、シンは諦めずに、再度ノックする。
「ソフィア? ……もしかして、寝てる?」
――思わずイラッとしてソフィアは胸中で毒づく。
(「寝てるかも」って思うなら、普通帰るでしょ?! もーっ 早く帰りなさいよ!)
ベッドに体を横たえたまま、ソフィアは渋面を浮かべた。
元々ソフィアは寝つきが非常に悪く眠りも浅い。その上、現在は熱が高くて意識の浮き沈みを繰り返していた為、これだけ音を立てられたらもし寝ていても起きただろう。
ふと、ノックの音が止んだ。ようやく帰る気になったのか、と思った矢先、シンは爆弾発言を投下した。
「えっと、寝てたらごめんね? 入るよ」
(はぁああああああああああああ!!!!?)
ドアのノブが動く。反射的にソフィアは、シンを制する声を上げようとして、
「―――っゴホ! ゲホッ ゲホゲホッ!」
―――盛大に失敗して咳き込んでしまった。
しまった、と思ったが既に時遅し。扉の外の気配が息を飲むのが分かった。こうなっては、居留守も寝たフリも通用しない。
「入るよ」
先ほどのセリフと同じだが、声音は全く異なり、それは呼びかけというよりは有無を言わせない宣言だった。次いでドアが開き、先ほどまでは聞こえなかった階下のざわめきが耳に流れ込んできた。抗議の意をこめて睨んでやろう、と重い身体を
「ソフィア……!」
青ざめた声がした。
正直、シンはいつも朗らかで余裕があったので、こんな声を出すとは意外だった。どんな顔をしているのか、少々興味を覚えるが、身体は相変わらず泥の様に重たく動かない。
と、気遣わしげにそっと、ソフィアの額に大きな掌が被さった。思わず反射的にビクリと身を竦ませる。だが、その手の主もソフィアに触れた瞬間、衝撃を受けたように小さく震えた。のろのろと視線を動かすと目の端にシンがいた。顔の高さからすると、ベッドサイドに
(……なんて顔をしてるのよ……)
彼は、少なくとも今まで見た事がないような顔をしていた。それは、怒っているような、でも泣き出しそうな表情で、見ていると居た堪れない気持ちになるものだった。
困惑して思わず身を引こうとすると、させてなるものか、とばかりにソフィアの額に置く
「動かないで」
今までのシンでは想像がつかないような、押し殺したような低い声に、思わずソフィアはベッド中で身を
(え、どうして、……怒ってる?)
「怒ってるんじゃないよ」
「!」
まるでソフィアの心を読んだかのように、タイミングよくシンが答える。
「ただ……なんだろう。寂しいというか、ちょっと悔しいのかな」
そっとソフィアの額に置いた掌の力を緩めてから、シンは彼女の額に汗で張り付いてる前髪を優しく手で梳いた。
「少なくとも、君は僕にとって、ヴルズィアから遠く離れたテイルラットで出会えた数少ない同郷の仲間だ。アトリちゃんだけじゃなくて、もう少し僕も頼ってくれてもいいのになって」
歯痒さの滲む声でシンは小さく呟く。だが、それに応える言葉をソフィアは持たなかった。同郷と言われてもピンと来ないし、頼れといわれても、頼り方など知らないし、そもそも、そんなに親しい間柄ではなかったはずだ。――少なくとも、ソフィアはその認識だ。
困惑した表情を浮かべるソフィアの顔を見て、シンは少し困ったように微笑を浮かべた。
「……ごめん、これは僕の我侭だよね。でも僕は、皆を守るような度量はないけど、せめて手の届く範囲、言葉を交わした人達くらいは守りたい。それが僕が僕であるための
言いながら、ソフィアの額から手を離し、
「……」
「ん、なに?」
「……っコホッ……」
「ああ、ちょっと待って」
物を置く程度の小さな1本足の丸テーブルの上に、宿が用意した水差しがある。シンはそこへ行くとコップに半分ほど水を注ぎ、ソフィアの元へ戻ってきた。
「熱が高いからね。すぐに咽喉も乾燥すると思う。ちゃんと枕元に飲み水を用意しておかなくちゃ駄目だよ」
妙に詳しい。神官だからだろうか? いや、孤児院の子どもの世話や、案外彼自身もよく
「身体を起こさないと、水を飲めないでしょ。――それとも、違う方法で飲ませてあげようか?」
その表情はにっこりと笑っているが、どことなく逆らえない空気を感じる。
――違う方法って何だろう、と一瞬思ったが、怖くなって深く考えるのをやめた。素直にシンに頭を起こしてもらいながら、グラスに唇を寄せる。
「慌てて飲んじゃ駄目だよ。少しずつ、ゆっくり口に含んでから飲み込んで」
先ほどと打って変わって今度は優しい声音でシンが囁く。言われた通りに僅かに水を口に含むと、じんわりと口中全体に染み渡った。自分で思っていた以上に喉が渇いていた事に気付き、一気に飲みたくなる。だが、
時間をかけて、コップ半分の水を3分の1ほど飲んだところで、ソフィアは小さく息を吐いた。声を出そうとすると生じた、空気が咽喉に
「世話を、かけたわね」
ばつが悪そうな顔で俯くと、シンはソフィアを抱き起こしたままで、もう片手でコップを枕元の台に置きながら柔らかく微笑んで首を横に振った。
「こういうのってお互い様だから。いつかソフィアが、困っている人を見かけたら助けてあげて」
「いや、助け……られる気がしないんだけど。」
「今は出来る事が少なくても、これからどんどん増やしていけば良いんだから」
「はぁ……」
相変わらず反応に困ることを言う人だ、とソフィアは微妙な顔をする。その様子を見てシンはクスッと笑った。
「それよりまずは、体調を整えないと」
「ああ……寒い時期は、いつもだから、平気よ」
「でも、辛いでしょ?」
「問題ないわ」
「あるでしょ」
食い下がるシンに、戸惑ったようにソフィアは目を向ける。
「ないわ。――まぁ、今日は大人しくしてるから、あなたはそろそろ……」
言いかけて、何かに気付いた様にソフィアの水色の瞳が大きく見開かれた。
「え、なに? どうしたの?」
その様子に驚いてシンがソフィアに手を伸ばすが、その手は素早くソフィアによって振り払われた。思わずシンは弾かれた自分の手とソフィアを交互に見る。
「ソフィア?」
「帰って!」
初めて聞くような、固く強い声音でソフィアが短く言い放つ。続けて、強い拒絶の言葉を発する。
「そうよ……なんで? なんであなたがここに来たの?」
「何でって……ああ、アトリちゃんに頼まれたんだよ。収穫祭が終わる時間までソフィアを診てるって約束して……」
「はぁ?! 安請け合いも程々にしなさいよ!」
「安請け合いって…」
困惑した様にシンがソフィアの顔を覗き込もうとすると、どこにそんな力が残っていたのか、と驚くほど強くソフィアの両手がシンを押し返した。
「どうしたも、こうしたも、ない! あたしから離れて……っ 出てってよ!」
ソフィアのあまりの強固な態度に、シンは閉口した。――弱っている姿を他人に見せたくないのは分かる。元の世界で迫害を強く受けていたとしたら尚更、仕方が無いのかもしれない。だが、ここで意地を張っていても、彼女自身にとって良くないだろうに……そんな事を考えて、やや呆れたようにシンは内心でため息を吐いた。
さて、
「あなた、自分の仕事が何だか、分かってるの?」
「え?」
思わず間抜けな声を出して聞き返してしまった。その声が聞こえたのかどうかは分からないが、彼女は相変わらず固い声で更に問うた。
「あなたの仕事」
「?? え? 孤児院の手伝いだよ?」
言葉の意味を図りかねてきょとんとソフィアを見つめると、彼女は強く非難の色を込めて見つめ返してきた。
「何度も聞いたから知ってるし、何よりそれはあなた自身が一番良く分かってるでしょ。……あたしは、
一旦言葉を切って、
「孤児院って――小さい子どもがたくさんいるんでしょ?」
「……」
「子どもって……あたしみたいな大人より、抵抗力、ないんでしょ」
「……」
「万が一、あなたがあたしの病気を孤児院に持ち帰って小さな子どもが罹ったりしたら、どうするの……!」
「……」
言い返す事が出来ない。――呆然とシンはソフィアの話す言葉を聞き続けた。
「……アトリに頼まれて来てくれた事、には感謝するわ。あの人心配性で泣き虫だもの。あなたがあたしを見に行くって言ってくれなかったら、仕事に手がつかなくてまた
でも、と彼女は続ける。
「あなたはあなたの大切な人たちを守りたいんでしょう? だったら、あなたの
真っ直ぐにシンを見る、澄んだ水色の瞳。――彼女が放った拒絶の言葉は、シンが思うような“幼稚な意地”でも“虚勢”でも、決してなかったのだ。
「……とにかく、今あなたがとるべき行動は一つ。早急にこの部屋から出て、念入りに手洗いうがいをして、孤児院に戻ったら中に入る前に上着を脱いでそのまま自室へ行って着替えてから仕事をしなさい。分かったわね?」
一息に言ってから、ソフィアは大きく息を吐いた。かなり疲れたが、言いたい事は言ってやった、という満足感がソフィアにはあった。逆に、シンはぽかんとしたまま、
「……聞こえなかったの?」
むっとしてソフィアは動こうとしないシンに抗議する。すると、ゆっくりとシンは首を横に振り、聞こえているという意思を示した。
「じゃあ、さっさと……」
「どうして」
「え?」
思い掛けない、シンの弱く震えた声に、思わずソフィアは目を
「どうして、そんなに……」
シンは、途方にくれたような、涙を堪えるような表情をしていた。――何故、
(言い過ぎたかしら……)
だが、もしそうなったらシンはせっかく手にしていた安定した職場を失う事になりかねない。何だかんだでシンにはソフィアなりに色々恩らしきものも感じているので、それを仇で返す事などしたくはなかった。シンがその危険に気付けないのであれば、ソフィアが気付いて指摘するしかない。そう、無理矢理自分の中で結論付けて罪悪感を少しでも軽くしようと努力した。
それでも気まずさは無くならず、ソフィアは視線を彷徨わせた。その時、シンがゆっくりと口を開いた。
「ソフィア、大丈夫だよ」
「え?」
唐突に言われた言葉の意味が理解できず、ソフィアはシンを見た。すると、シンは満面に嬉しそうな笑みを浮かべてもう一度「大丈夫」と繰り返した。――その表情が、今まで見ていた彼の微笑とは明らかに異なる色を持っていて、ソフィアは驚いて目を
「大丈夫、って……」
何が、と続ける事が出来ず、困惑したまま思わず声を詰まらせる。すると、穏やかに笑みを深めてシンは答えた。
「僕、身体は丈夫なんだ。体力が普通の人よりだいぶあるからね。若い頃から今まで、病といったものに
それに、とシンは続けつつ、ソフィアの手にそっと自分の手を重ねた。反射的に弾かれたように己の手を引っ込めようとしたソフィアだったが、逆にぎゅっと手を握り込まれてしまい困惑する。その表情を見て、シンは目を細めて嬉しそうに笑った。
「前、エルテナ神殿の畑で、男の人達が言ってたでしょ。僕が、神の奇跡が司祭クラスだって。あれも本当。だから、もし万が一病に罹ったとしても自分で治せるから大丈夫」
「えっ」
「ソフィアも、治そうか?」
「い、いや、やめて。聞いた事があるわ。神の奇跡で病を治すのって、ものすごい高額だって」
青ざめてソフィアは即答で辞退した。「ソフィアからお金なんか取らないよ」とシンは笑うが、断固として拒否する。
「そういうのは、あたしにじゃなくて、本当に必要な時にとっておきなさいよ」
「――分かった。今のソフィアなら、神の奇跡を使うよりゆっくり休息をとりながら治療した方がいいだろうからね。でも、必要になったらソフィアが何と言っても使うからね」
しれっと笑顔で言い切ったシンに、ソフィアは思わず顔を顰めた。続けて文句を言おうと口を開いたが、その唇にシンの指が伸び、そっと触れた。思わずソフィアは息を飲んで硬直した。黙り込んだソフィアに、シンはふわりと微笑んだ。
「もうおしゃべりはお仕舞い。――アトリちゃんが来るまでは僕がいるから、ソフィアは休んでなよ」
シンのもう片方の手は、相変わらずソフィアの手を握ったままだった。力は篭もってはおらず、そっと重ねるような握り方だったが、それでもソフィアに振りほどけるようなものではなかった。だが、戸惑いはあっても嫌悪感はない。それがソフィアにとっては小さな驚きだった。
大きなシンの掌は意外と骨ばってひんやりと感じたが、しばらくするとソフィアの熱が伝わったのか、馴染んで境界が分からなくなった。
当初は傍に人がいて休めるものか、と思ったものだが、高熱による疲労が想像以上に大きかったのか、直に意識を失うように眠りについたのだった。
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