第9話 エルテナ神殿での仕事

 ――豊穣神エルテナは、その名の通り自然の恵みを守護する女神である。


 伝承によると大地は彼女のかいな、木々はその指先、流れる川は彼女の血脈と言われている。主に農業に携わる者が信仰しているが、4大神の他の神々――至高神、戦神、智慧神と違って信仰する者に対する敷居が低い事から、農家の者以外の人々にも広く信仰されている。その為、町の人々の冠婚葬祭もエルテナ神殿で執り行われる事が多い。

 また、豊穣、恵みという点からか、はたまた4大神唯一の女神という事からか、子を授かりたい夫婦も多く訪れ熱心に祈りを捧げるという。


 そのエルテナ神殿の裏手には、神殿の管理する広大な農地が広がっている。この時期は主にビーツやラディッシュ、根セロリなどの根菜、芋類が多く、葉物はあまり数がないのだという。今回の収穫祭は今年豊作の甘藷さつまいもがメインなのだ、とアトリが説明してくれた。



 アトリから収穫祭の手伝いの仕事を引き受けた翌日から、連日朝4時に仕事開始の日が続いている。彼女が言うには、甘藷さつまいもは朝収穫した方が甘味が強く感じるそうで、せっかくならより美味しい作物を、と、こだわって早朝に収穫しているのだそうだ。ソフィアが手伝っているのは、エルテナ神殿の敷地の一角にある、アトリが個人で管理する畑だった。ここで、神殿管理の畑で育てる前に土に作物が合うかなどを確認するために、実験的に作物を育成するのだという。

 今回は収穫祭まで日が無い為、最初の数日で収穫方法を教わり、覚え次第ソフィアだけで収穫をしてもらいたいとの事だった。


 エルテナ神殿での仕事は、たまに会う神殿の人へ挨拶――といっても会釈程度――をするだけで、あまり人と関わらなくて良い為、人付き合いの苦手なソフィアにとってはかなり良い職場環境だった。何より、仕事終わりには虫食いしている野菜や、調理し難い小さな野菜などをアトリが分けてくれた為、食費も浮かせる事が出来るのが非常にありがたかった。

 仕事は早朝からだが、ソフィアはもともと熟睡する事が無く朝も早く目覚める。その為、遅刻などする事は無く…それどころか、30分前――3時半には仕事場の畑へ到着してしまい、アトリが来るまでは手持ち無沙汰となってしまう事も多かった。そんな時は、無断で畑に入るわけにもいかなかった為――入ったとしても仕事をきちんと覚えてない――アトリが来るまでは道沿いの雑草を抜いたり用具の汚れを掃除したりして時間を潰して過ごした。

 畑は南の森へと続く町道とも接しており、早朝であっても稀に仕事帰りと思われる商人達が通り掛り挨拶を受ける事もあったが、遠くからなので会話する事も無く、こちらもお互いが気付いた時に会釈するのみで済んだ。



* * * * * * * * * * * * * * *



 そんな日々を5日ほど過ごしたある日の早朝。


 その日、いつも通りエルテナ神殿の畑の前でアトリを待っていたが、何故か約束の時間が過ぎてもアトリが姿を現さなかった。


 朝日が顔を覗かせる程度の時間帯で、空気はキンと冷え切っている。寒さに身震いして指先に息を吐きかけると、感じる熱に小さく眉を顰めた。アトリから仕事を請けた日から体調が思わしく無いのだが、それでも騙し騙しこうして仕事を続けていた。何かをして気を紛らわせないと、ツケで生活しているという事を思い出し、後ろめたくなる。それに、ともすれば身体の不調に意識が行ってしまい、いつもより強く感じてしまう。――息を吐き出すと、小さくかぶりを振ってその場にしゃがみ込み、目に付く雑草を抜き始めた。



 ――――そうして大分時間が過ぎたが、やはりアトリは来ない。山盛りになった抜いた雑草を見てから、ゆっくりと立ち上がりスカートの皺を手で払って伸ばす。



(……遅いわね……まさか、急に仕事が休みになった、とかじゃないわよね? 昨日アトリが「また明日ね」って言ってたし、もし休みになったなら、少なくとも知らせがあるはずだし……)


 辺りを見回すと日が低い位置に出ており、道沿いに立つ木々が地面に影を伸ばしている。ソフィアがここに来るのはいつも日が登る前だったので、やはり大分時間が経っているようだ。



(どうしよう)


 チラ、と神殿の方を見る。行って、今日の仕事があるべきか確認した方が良いのだろうか。だが、生まれてこの方神殿の中になど入った事が無い。この仕事についている今現在も。迷い視線を彷徨わせていると、遠くからソフィアを呼ぶ声がした。慌てて声の方を見やると、エルテナ神殿の侍祭じさいであるマチルダ・バーレイが早足でやって来るのが見えた。


 彼女はソフィアの元へやって来ると、胸元に手を当てて息を整えつつ申し訳無さそうに詫びの言葉を述べた。


「ごめんなさいね、ソフィア。随分待たせたでしょう。今日の仕事は休みで構いません」

「え?」


 思わずソフィアは目を丸くする。アトリではなく侍祭じさいが来た事にも驚いたが、それ以上に今日の仕事が無いという事の方が衝撃だった。


「ちょ、ちょっと待って、下さい。急に休みって言われても……あの、あの人……アトリ、はどうしたの?」


 しどろもどろになりつつも確認すると、侍祭じさいは困ったように眉を下げた。


「それが、今日は寝込んでましてね」

「えっ 寝込んで……って、なんでっ? 風邪……とか?!」


 自分の体調不良がうつったのではないか、とギクリと顔を強張らせる。あまりアトリに近付かないように気をつけてはいたのだが、うつしてしまっていてもおかしくない。だが、侍祭じさいは小さく首を横に振り呆れたようにため息をついた。


「そんな大層なものではありません。……“知恵熱”みたいなものです。イベントごとの前は、たまにこうなるんですよ。――まったく、子どもみたいでしょう?」

「でも、知恵……、って事は、熱があるのよね……?」

「病気ではありませんよ。寝ていればすぐに治ります。思えば昨年もそうでしたし、生誕祭や聖夜祭などの他のイベントでも同じです」


 にべもなく侍祭じさいは応えた。彼女の様子から、本当にイベントごとの前にアトリが寝込むのはよくある事のようだ。まだ罪悪感はあるが、納得は出来た。


「今日は特に冷え込んでいますからね。貴女も風邪をひかないように、帰って温かくして休みなさい。では、わたくしは雑務がありますからこれで」


 ご苦労様でしたね、と侍祭じさいが踵を返す。その様子を見て、ソフィアは思わず口を開いた。


「あ……、あのっ」

「? 何です?」


 少し離れたところで侍祭じさいが振り返る。その視線に緊張し顔を強張らせつつも、ソフィアは言葉を続けた。


「この畑なら、大体の仕事は……覚えたし、少しだけやっていっても、問題……ありま、せんか」


 差し出がましい気は十分にしたが、せっかく来たのだし、賃金や食事が1日分無くなるのは困る。せめて半日分、いやそこまでは行かなくても、少しでも欲しい。それに、何より丸1日作業を休んでしまうと収穫のスケジュールが狂ってしまう。今日収穫予定の作物は、昨日帰り際にアトリから聞いているため把握している。

 ソフィアの申し出が予想外だったのか、侍祭じさいは少し驚いたように目をみはり、次いできびすを返してソフィアの元へと戻ってきた。


「教わった範囲であれば構いませんよ。収穫した作物を置く倉庫の場所は分かりますか?」

「ええ、何度も1人で行ってる」


 表情を和らげて侍祭じさいは頷いた。


「分かりました。そうして頂けるとこちらも助かります。帰る時は念のため、神殿の誰かに声を掛けて下さい」

「分かったわ」



 侍祭じさいが去った後、寒さを堪えて両袖を腕まくりし畑へと足を踏み入れると、畝を崩さないように気をつけながら、予定の野菜を黙々と収穫し始めた。採った野菜を大きなつる籠へ丁寧に並べ、いっぱいになったら倉庫へ持って行き保存用の木箱へ移す。その繰り返しだ。


 いつの間にか夢中で作業をしていると、不意に町道の方角から声が掛かった。


「せいがでるね! 今日って1人?」


 訝しげに顔を上げると、商人風の男性が2人、町道との境の柵に寄り掛かりながら、にこにこと笑顔を浮かべてソフィアに手を振っている。知り合いだったか思い出そうとしても、全く記憶にない。無意識に警戒を強めたソフィアだったが、相手の男2人は彼女が“恥らっている”とかなりポジティブな勘違いをしたらしい。


「急に声を掛けてごめんごめん! いや~、いつもの一緒の神官さん、今日はいないみたいだったからさ~」


 ひょろりと背の高い男がへらへらと笑う。


「今日、寒いじゃん? オレら、この後は暇だからさ、君が仕事終わったら、温かい飲み物でも一緒に飲みに行かない? オレ達がおごってやるよ!」


 連れのやや背の低い小太りの男は、頬を紅潮させてやや早口にまくし立てた。



(突然、なに……?)


 思い切り警戒を深めて、彼らを観察する。悪意があるようには見えないが、見ず知らずの相手に唐突に飲み物をおごるという事が理解できない。



(あ、でもこの町には、そういう人いるわね……)


 ソフィアの脳裏に、ここ数日一緒に過ごしたはしばみ色の髪をした修道服の女性が、次いで焦げ茶色の髪をした半妖精ハーフエルフの青年が浮かぶ。案外、挨拶の様な気軽な感じで振舞ったりするのだろうか、こちらの世界は。だとしたら、どう断るべきか。相手は男2人。出来たら気を悪くさせないで断りたいが、いかんせんコミュニケーション能力は持ち合わせていなかった。


 黙っているソフィアを見て、男達は更に良いほうに解釈した。


「あ、もしかして緊張させちゃった?」

「オレら、悪いヤツじゃないから、大丈夫だって! 怖くないって! なぁ?」

「なぁ?」


 彼らはお互いを見て頷きあい、そしてソフィアの方へクルッと顔を向けた。


「じゃ、それでオッケーって事で!」

「オレら、ここで待ってるから、気にしないで仕事続けていいよ!」


 さも善意から言ってます、風だが、何だか胡散臭い。そしてやけに押しが強い。慌てて辞退しようと言葉を探すが、思うような言葉が出てこない。焦れば焦るほど、言葉が咽喉につかえてどうにもならない。



(どうしよう……)


 収穫したばかりの作物を手にしたまま、呆然と雑談を始める男達を見ていると、突然明るい声が空気を割って飛び込んできた。


「おはよう! 早いんだね」


 思わず声の方角に顔を向けると、町と森を繋ぐ道の、男達が来た方角とは反対側の柵の向こう側に、焦げ茶色の髪をした青年が微笑んで立っていた。背には大きな背負い袋と棍棒モール、腰にはベルトポーチや皮袋など装備している。どうやら森の方角からやって来た様だ。


「……あなた、……どこかで」


 焦げ茶色の髪は見覚えがある。深い緑碧玉の色をした双眸も。パッと見女性のように見えるが、実は男性で、実は強い、という事もおぼろげながら覚えている。だが、本当にこの人物だったのか、名前が何だったのか、それが思い出せない。内心困惑しつつ小さく眉を顰めると、シンはふわりと笑みを深めた。


「うん。シェルナン・ヴォルフォード。シンって呼んでね」

「えっ」

「シン?!」


 彼の言葉に驚きの声を上げたのは、ソフィアではなく男達2人だった。


「あの、智慧神ティラーダ神官戦士の?!」

智慧神ティラーダに仕えてるくせに、戦闘になると戦神ケルノスの戦士より強いって噂の?!」

「あはは、智慧神ティラーダ神官戦士って言うのは合ってるけど、戦神ケルノスの戦士より強いとか、そんな事はないよ」


 シンは男達の言葉を、肩を竦めて笑って流すと男達とソフィアを交互に見、男達に目線を定めた。


「何か取り込み中だったかな?」

「あっ え……えー……あの、この子、シン……様、のお知り合いで……?」

「“様”なんていらないよ。僕そんな偉くないもの」

「い、いや、だって……神の奇跡だって司祭クラスってオレ聞いた事ありますし……」

「それはちょっと大袈裟だよ。誰かが面白おかしく言ってただけじゃない? 智慧神ティラーダの神官は殆ど学者で、戦士は珍しいからね」

「は、はぁ……そうっすか…?」

「そうそう。ああ、あと、彼女が知り合いかどうかって事だけど、うん、そうだよ。それに“同郷”なんだよね。だから、どちらかというと僕が一方的に気にかけているんだ。―――ところで、彼女に何か?」


 語尾の声が少し低くなったのは気のせいだろうか。チラリとソフィアはシンを見やるが、彼は相変わらず微笑を浮かべている。だが、ソフィアに声を掛けてきた男達2人はみるみる顔色を悪くして「あっ 用事を思い出した!!」と棒読みで叫んだ。


「そう? じゃあ、気をつけて帰ってね」

「はいぃ!!」


 男達は同時に仲良く返事をすると慌てたように早足で我先にと去って行った。あまりに唐突に彼らがいなくなった為、やや呆然と見送っていると、シンが柵を乗り越えてソフィアの傍らまでやって来た。そして、困ったように微笑んで切り出す。


「ソフィア。さっきの」

「え?」

「あれ、ちゃんと断らないと」

「? 何が……?」

「ナンパ。されていたでしょ」

「……? されてないわ」


 訝しげに小首を傾げつつ応えると、シンは「うーん」と頭に片手を当てて唸った。


「されてたんだよ。もう……ちゃんと気付かないと駄目でしょ」

「ただ、仕事が終わったら温かい飲み物をどうかって言われただけだわ」

「うん、それがね……」

「いや、意味が分からない」


 むぅ、と口を尖らせると、シンは更に眉を下げた。


「ああいう手合いは、わざと見える場所で待つんだよ。待たせた事に罪悪感を覚えて断りにくくなる様に」

「?」


 シンの言葉に何か引っかかりを覚えて、ソフィアは眉を顰める。彼のセリフを反芻してから、その違和感の原因に思い当たって口を開いた。


「あなた、もしかして……声を掛けるしばらく前からいたの?」


 ――そうだ。先ほどシンは男達のことを「わざと見える場所で待つ」と言ったが、シンが声を掛けてきたのは男達がソフィアを待つと言って、雑談を始めてからだ。だが、その言葉は男達が「ここで待ってるから」と言った事を受けてのものにしか思えなかった。


「うん、実は」


 ぺろ、と小さく舌を出して、まるでいたずらがバレた少年の様にシンは笑った。


「い、いつから……」

「ええと、ここの侍祭じさい様が来る前かな。」

「……」


 シンの言葉に、ソフィアの目が思わず点になる。そしてその言葉の意味を理解したとたん、盛大に「はぁああぁあああ?!」と声を上げ目をつり上げた。


「な、な、なん…っ だいぶ前じゃないのっ!」

「あはは、いや……仕事帰りで町に向かってたんだけど、早朝にソフィアが1人で立ってるからさ。どうしたのかなって思って見てて……寒そうだし、何かあったのかなって思って声を掛けようと思ったんだけど、そこで侍祭じさい様が来たから」


 思わず脱力して「なら、そこで帰れば良いじゃない」とぼやくと、シンは「頑張ってるなぁ~って思わず見守っちゃった」と笑った。本当にアトリと言い、この人……シンと言い、調子が狂う。まぁ、間違いなく2人とも自分ソフィアを子ども扱いしてるのは分かるが。


「仕事、見付かったんだね。良かった」


 ソフィアを見つめてシンは柔らかく微笑んだ。


「収穫祭が終わるまでの、短期だけどね」

「そっか。じゃあ、それが終わったら孤児院の仕事おいでよ」

「冗談やめてよ」

「えー……あ、ちょっと動かないで」

「?」


 おもむろに、シンはベルトポーチから柔らかそうな布を取り出し、すい、とソフィアの顔に近づけた。思わず反射的にソフィアはビクリと身体を強張らせたが、気にした様子も無くシンは右手にその布を握り、腕を伸ばしてソフィアの左頬にそっと触れた。そしてそのまま優しく拭う。


「――ほっぺに泥がついてた。……うん、綺麗になったよ」


 笑顔を浮かべ、満足そうに頷く。あまりの事に固まっていたソフィアだが、ハッとして慌てて抗議を開始した。


「~~~~~っ信じらんない! こっ 子ども扱いしすぎ!」

「えーそんな事ないよー?」

女性レディの顔に無断で気安く触るなんて、なに考えてるのっ? ばっかじゃないの!?」

「ん~……」


 ソフィアの剣幕に押される事なく、のんびりとシンは考え込み、そして口を開いた。


「だって、せっかくソフィアは可愛いのに、綺麗にしてないともったいないでしょ」

「……」


 おだてて有耶無耶にしようとしている、と感じて、思わずソフィアは苦々しく顔を顰めた。


「ばっかじゃないの。そういうお世辞は、そう言われても・・・・・・・おかしくない・・・・・・と思ってる人にしか通じないわよ」


 パッと見女性のように見えるのに、案外女たらしなのかもしれない、と内心で思いつつ、やや冷えた声で突っ込む。だが、シンはにこにこと笑ったまま肩を竦めた。


「うーん、お世辞じゃないのになぁ」

「はいはい。……そろそろあたし、仕事を続けたいの。もういい?」

「あ、ちょっと待って」


 シンに背を向けて作業を再開しようとしたソフィアを、シンが制する。まだ何かあるのか、とむっとしてシンの方を向くと、彼は背負い袋を地面に下ろし、着ていた外套を脱ぎ始めた。


「ちょ、ちょっと……何してるの」


 慌てて声を掛けると、脱いだ外套を手にシンがソフィアへ向き直る。そしてそのまま、外套でソフィアの小さな身体を包み込んだ。シンが着用すると太もも半ばくらいの長さの外套だったが、ソフィアが羽織るとすっぽりと全身を覆われてしまう程大きかった。


「ちょっと大きいね。……でも、今日は冷えるから。僕はこれから帰って寝るだけだけど、ソフィアはまだ仕事あるんでしょ? 風邪ひかない様にね?」


 予想外の出来事に、困惑したまましばし固まり、慌てて「いらない」と言おうと口を開くと、目の前にいたはずのシンがいない。慌ててキョロキョロと辺りを見回すと、いつの間にかシンは柵の向こう側へ戻っていた。


「じゃあ、またね~ あんまり無理しちゃ駄目だよ~っ」


 にこにこと笑顔でソフィアへ手を振ると、シンはそのまま道を町の方へ歩いて行ってしまった。

呆然と佇んだままシンを見送ると、改めて身体を覆う外套に目を落とす。



(……森の色みたい)


 ソフィアを温かく包み込む外套は、深緑に染められた厚手の布を使用しており、まだシンの温もりが残ってた。ふわり、と日の当たった土のような匂いもするが嫌な匂いではない。そういえば、シンは先ほど「仕事帰り」と言っていたし大荷物だったから、冒険者として何か依頼をこなしてきたのかもしれない。大きなぶかぶかの外套の袖から手を出してそっと生地に触れる。丈夫で良い仕立てのものだ。農作業で汚して良い物ではない。

 結局ソフィアは、シンから(半ば強制的に)借り(させられ)た外套を泥で汚れない場所に畳んで置いて作業を続けた。



(変な人。…孤児院勤めって言ってたから、アレなのかしら……いや、あたし成人してるけど)


 作業をしながらも、ついチラリと外套に目を向ける。



(こっちの人達、アトリや侍祭じさい様はみんな、善良で親切で……アトリなんか、ビックリするぐらいお人好しだけど。……でも、シンって確か、あたしと同じ世界ヴルズィアの出身なのよね)


 作業の手を休まず、おぼろげながら記憶を掘り起こす。



(元からああなのかしら。それとも、この世界の人達と触れ合う事で変わって行ったのかしら……)


 ふと手を止めて思案する。それをたしなめる様に、冷たく鋭い風がひゅう、と吹いた。思わず目を閉じ小さく声を上げ、反射的に手にした作業用の手篭が風に飛ばされないように抱き締める。強い風は一度きりで、それもすぐに止んだ。そっと目を開くと風に舞う落ち葉や澄んだ青空がソフィアの視界に飛び込んできた。



(ああ、そうだわ……風も、水も、大地も……それに、言葉も全部。ヴルズィアとは同じに見えるのに、ここは「違う世界」なのよね……)


 じゃあ、あたしは? と、ソフィアは小さく呟いた。その問いは、誰にも届く事はなかった。

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