第8話 酒場の喧騒

 港町クナートの南方にある森で偶然シンと出会い、更に偶然、妖魔モンスターらしき獣に襲われたソフィアだったが、彼はソフィアの予想をはるかに超えた凄腕の戦士で、正に「あっという間」にその魔物モンスターを倒してしまった。

 そして、今は何故かよく分からない内にシンに送られる形で町へ向かっていた。既に日が傾き始めているが、当初の目的である食料は全く手に入れていない。本末転倒だ。その事に気付き、絶望した表情で歩みを止めると、前を歩いていたシンが振り返って小首を傾げた。


「どうかした?」

「いえ、なにも」


 反射的に即答する。お金がないとか、食料がないとか、ツケがたまっているとか、お金がないとか、お金がないとか、言えるわけが無い。ぎゅっと唇を噛んで黙っていると、なにやら思案してからシンは口を開いた。


「さっきの妖魔モンスターだけど」

「え?」


 唐突に話題を切り出してこられたため、つい油断した声を上げてしまう。それに気付いたのかどうかは定かではないが、シンは満足げに笑って続けた。


「自警団に報告して、討伐が認定されれば、ちゃんと報酬が出るよ」

「あ、ああ……そう」


 でも、倒したのはシンだ。ソフィアは何もしていない。

 シンの意図がサッパリ分からず首をひねるソフィアに、彼は微笑んで言葉を続けた。


「2人で分けようね、報酬」

「……え?」


 僅かに柳眉を顰めて、低く聞き返す。


「施しなんて結構よ。あたしは何もしてないんだから、報酬はあなた1人でもらって」

「え、ちゃんと手伝ってくれたじゃない」

「ど・こ・が・よ!?」

おとり

「……―――っはぁああああっ?」

「僕1人だったら、あの妖魔モンスターは出てこなかったよ。ソフィアがいたから襲ってきたんだし、むしろソフィアしか狙ってなかったし」


 あはは、と朗らかに笑いながらシンはあっけらかんと説明する。しかし、笑いながら言う内容でない気がする。……少なくともソフィアにとっては。握り締めた拳をふるふると揮わせながら、ソフィアは上目遣いにシンを睨んだ。


「っな、な、な……なんなのよそれはっ」

妖魔モンスターって、ある程度力量を見て襲ってくるからねぇ」


 全く意に介さず肩を竦めてシンは微笑んだ。その様相をむすっとした顔で見やり、ソフィアは内心で愚痴をこぼした。


(それって、暗に「僕は強いから襲われません」って言ってる訳よね? まぁ実際強いんだろうけどっ)



「ふふ、そんな顔しないで。丁度良かったよ。これで冬支度で森に入った町の人を襲う妖魔モンスターへの牽制にもなったし、僕達は報酬をもらえるし。ね?」


 悪びれもせず、シンは優しく笑って言葉を続けた。


「銀貨10枚くらいは出ると思うから、半分こしよう。報酬をもらったら届けに行くから、泊まっている宿を教えてもらえ」

「え、いやよ」


 最後まで言わせず、被せるように固い声でソフィアは拒否した。そう反応されるとは思っても見なかったのか、驚いてシンは目を丸くする。


「え、どうして?」

女性レディが泊まっている場所をそうそう教えると思う?」

「うん」

「教えないわよ!!」

「えー」


 誰が教えるのよ、誰が、とぶつぶつ口の中で文句を呟きつつ、ジロッとシンを睨むが、彼は気にした様子も無く「じゃあどうしようか」などとのんびりと聞いてくる。


「……適当に……そうね、春告鳥フォルタナの翼亭の店員にでも預けておいて。たまにあそこに顔を出すから」



(……嘘は言ってないわよ、嘘は)


 何となく後ろめたくて、心の中で思わず言い訳をする。だが、


「うーん、そっかぁ。じゃあ、そうするね!」


 全く深入りするつもりが無い様子で、シンはあっさりと引き下がり、逆にソフィアはやや拍子抜けしてしまった。


 結局そのまま町の中央広場でシンと別れたソフィアは、日が傾く時刻に春告鳥フォルタナの翼亭へと戻ったのだった。



* * * * * * * * * * * * * * *



 ―――


(―――――あれ……?)



 薄っすらと瞼を開いたが視界が暗い為、夜目が利かないソフィアは自分がどこにいるのか、すぐには分からなかった。ゆっくりと暗闇に目が慣れてくると、春告鳥フォルタナの翼亭で取っている部屋の中……――の、床の上、という事が分かった。



(なんで……あたし、)


 倒れているんだろう、と顔を動かして周囲を確認しようとするが、上手く動かない。誰かに押さえられている訳ではない。―――泥の中に半身を埋め込まれた様に、身体がいう事を聞かない。身体全体が鉛の様に重く、頭どころか指先1本動かす事すらままならないのだ。


(え……あれ……?)


 なぜ、と、ぼやけた意識で思考しようとするが、全く持ってまとまらない。どうしたいのか、なにを確認したいのか、まず、どうすべきなのか。

 動揺を鎮めようと息を吸うと、咽喉がひゅ、と小さく鳴った。そこで初めて、自分の口の中がからからに乾いている事に気付いた。


「……、………」


 なんで、と言おうとしたのだが上手く声が出なかった。一瞬パニックになりかけてから、はたと気付く。


(……あ、これ、)


 こちらの世界に来る前――あの村で過ごした頃に何度か……――いや、冬の時期に頻繁に経験した事のある感覚を思い出し、はぁ、と息を吐く。途端にソフィアの顔の表面に熱い空気を感じた。自分の吐き出した息に普段と違う熱がある。つまり、体温が高い―――熱が出ているのだ。



(まいったわね……)


 と思いつつも、実際はさほど深刻に考えてはいなかった。先ほど“頻繁に”と述べた通り、熱を出すのはソフィアにとって、冬の時期は日常茶飯事なのだ。その為、彼女は完全に慣れていた。すぐに落ち着きを取り戻すと、自分の状態を冷静に分析する。この様子であれば、過去の経験から考えて、恐らくそう時間が掛からない間に悪化するだろう。

 だが今なら、目覚めてすぐに動くのが難しいだけで、時間を掛けてゆっくりであれば身体を動かす事も可能だろう。



 予想通り、しばらく経てばゆるゆると上体を起こすことが出来た。


 気を取り直して思案する。



(あの人………なんだったかしら、名前)


 脳裏に焦げ茶色のややクセ毛を持つ半妖精ハーフエルフの男性が浮かぶ。柔和な表情だったという印象はあるが、顔の部分はぽっかりと空洞だ。思い出せない。



(――そうだ、シェ……いえ、シュ? ……ともかく、なんか長い名前で、確かシン・・って呼んでくれって言ってたっけ)


 口元にそっと指を添えて小首を傾げたまま眉を顰める。



(何か大事な事を言われた気がするわ……)


 もやの掛かったような意識の中から、何とか記憶を掻きだす。そしてようやくシンとのやり取りを思い出し、思わず「あっ」と小さく声がもれた。



(そうだ、報酬! 報酬を半分もらえる事になってたんじゃない?!)


 慌てて立ち上がろうとしたが、くらりと目が回り、盛大に床に顔面から突っ込みそうになる。寸でのところで両手を床につき、ふーっと息を吐き出す。――やはり、熱い。自らの額に手をやると、身の内から出る熱が掌にじりじりと伝わってきた。



(いつものヤツならまだ十分動けるはずだわ。今のうちに報酬を宿賃に当てるように、お店の人にお願いしておいた方が良さそうね)


 ゆっくりと慎重に立ち上がると、ソフィアは部屋のドアをそっと開けて階下を目指した。



* * * * * * * * * * * * * * *



 階下に近付くにつれて、様々な音が聞こえてきた。食器の音、高い金属が鳴る音――これは恐らく入り口のドアベル、酔っ払いの陽気な歌声、それに負けじと張り上げる注文の声、足音、何を言っているか分からないざわめき。

 思わず、そっと目を伏せておのれのつま先に視線を落として足を止めた。目に見えない壁の様なものが、あの賑やかで楽しげで、暖かそうな世界を覆っていて、その中に入る術をソフィアは持たない。実際、ソフィアは異世界人なのだが、それを抜きにしても自分では到底この世界に入る事は出来ないのだと思い知らされる。

 ともすれば竦みそうになる足を気合で引きずり気配を殺しながら、意を決してソフィアは春告鳥フォルタナの翼亭の酒場に足を踏み入れた。



「おーい、にーさん、エールこっち~!」

「骨付き肉の炙り焼き3つ追加ー!」

葡萄酒ワイン早く頼むぜおい! ずっと待ってんだけど?!」


 とたんに、様々な声が意味を持ってソフィアの耳に飛び込んでくる。あまりの喧騒にやや呆然としてしまったが、気を取り直して一歩踏み出した。

 と、若い男達の大きな声が聞こえてきた。


「この前の商隊の護衛してたらさー、妖魔モンスターが出る出るっつってたのに野生動物しかでなくて拍子抜けっていうかさー」

「あー、マジそれなー」

「楽勝だったけど、なんつーの? 不健全燃焼?」

「ばっか! 不完全だろが!」

「ヤベ、不健全ウケるwww」

「あー、人不足ってヤツ?」

「役だろばーか!」


 少し目を向けると、酒場の中央にいくつかある大テーブルの1つに筋骨隆々な若い男が数人座っている。どうやら依頼をこなして戻ってきたばかりの冒険者のようだ。机の上には酒瓶が林立しており、やや呂律の回っていない会話は十分酒に酔っている事が伺われた。依頼後の打ち上げ、もしくは鬱憤を晴らす為の飲み会らしい。


「っつか、お前ビビッて馬車から離れなかったじゃねーか!」

「うっせーよ!!」

「ぎゃはは!」

「マジかお前ぇ いつになったら慣れんだよー!」

「はははは! ダセぇ!」

「おいふざけんなよてめぇ! オレがいつビビったよ!」

「あぁん?」

「おぉー?」


 唐突に陽気な雰囲気が一転した。ガシャーン!! ガラガラ!! と盛大に瓶の割れる音や机、椅子が倒れる音が響き渡り、思わずソフィアは小さく飛び上がり、そのまま宿から酒場へ繋がる扉をくぐったところで硬直する。顔から血の気がみるみると引いていく気がした。


「っつかてめぇがさんざん妖魔モンスターが出る出る言うから警戒してたんだろぉ!?」

「それがビビってるっていうんだよばーか!」

「馬鹿とは何だ表出ろこのやろ!」

「良い度胸だてめぇヨッシャ来いや!!」


 筋骨隆々な男2人がお互いの胸倉をつかみ合い、且つお互いを引きずって店の外に出ようとしている。店員達は、よくある事なのか特に気に留めておらず、彼らをチラリと見ただけで、割れた瓶の欠片や倒れた机、テーブルを片付けにかかっている。しかし、ソフィアは自分に向けられる悪意や罵声には免疫がある――というより、風や雨の音と同じ自然現象のようなもので気にならないのだが、他人と他人の争いを見たのは実は初めてだった。あまりの迫力に、思考能力が奪われて身を竦ませたまま固まってしまう。

 連れと思われる男も2人の後を追い、いがみ合う男達が胸倉を掴んだまま、どちらともなく店の入り口の扉へ手を伸ばした。


 ところがその時、


「こんばんは~」


 カラン、と店の入り口のドアベルが涼やかに鳴り、のんびりとした柔らかい女性の声が聞こえた。その声は、ソフィアも聞いた事がある。男達の向こう側に修道服が見えた。

 丁度、男達の行く手を阻むように登場した彼女は、それに気づいて慌てた様に声を上げた。


「あっ、ごめんなさい。遮っちゃいましたね」


 どうぞっ、とドアを大きく開けて、胸倉を掴み合ったままぽかんとしている男達に道を譲る。すると、ソフィアからその姿が見えた。やはり想像した通り、エルテナ神殿に仕える女性、アトリだった。

 彼女は笑顔のままほんの僅かに小首を傾げて、男2人に声を掛ける。


「ええと、ロビンさん、リッドさん、外は寒いですよ。そのままで外に出ると、風邪を引いてしまいます。今日は上着はお持ちではないのですか?」


 それから、「あ、もしよろしければわたしの上着を…」などと言いだし、なんと、唐突にごそごそと上着を脱ぎ始めた。これにはロビン、リッドと呼ばれた男達は目に見えてぎょっとし、狼狽した様に「大丈夫です、大丈夫です!」と仲良く同じ様に首を横に振ってそれを制した。「そうですか?」と心配そうに少し眉を下げるが、それ以上は無理強いする事無く「分かりました」と頷き、会釈をすると彼らの脇をすり抜けて店内へ入って来た。


「アトリ様、いらっしゃいませ」


 店員の1人が、通常と変わらない声を掛けたところで、男達の剣呑な雰囲気は一気に緩まり、店内は徐々に通常の喧騒に戻っていった。先ほどいさかいを起こしていた男2人は、バツが悪そうに店員や連れの男に謝罪し、片づけを手伝い始める。

 挨拶をした店員に会釈を返した後、アトリはソフィアに気付き、ぱっと破顔一笑した。


「こんばんは! あなたもいらしていたんですね!」


 固まっていたソフィアは、その一言でようやく体の緊張を少し解いた。


「……ここに泊まっているのよ」

「はい。でも、この時間に酒場にいらっしゃるのは珍しいですね」


 にこにこと嬉しそうにアトリはソフィアへ歩み寄る。


「もう暮らしには慣れましたか?」

「よく分からない」

「そうですか……何か困ったことがありましたら、いつでも仰って下さいね。わたしに出来る事でしたらご協力致します」

「……」


 アトリの言葉に、ソフィアは柳眉をひそめた。その表情に、アトリはきょとん目を丸くした。


「どうかなさいましたか?」

「あのね……困ったことがあったらいつでも言って、なんて、誰彼構わず言うものではないわ。あたしはともかく、真に受ける人もいるはずよ」

「“誰彼”ではないですよ!」


 何故かエッヘン、と胸を逸らして堂々とアトリが応えるが、そうじゃなくてっ、とソフィアは頭に手をやった。熱はまだそんなに高くないのに何だか頭痛がした。このアトリという女性は、警戒心というものがないのだろうか。


「そんな親しい間柄でもないでしょう。それとも、神官ってみんなそうなの?」

「神官が皆さんそうかは分かりませんが……あ!」


 ハッとアトリが小さな目をまん丸にして小さく声を上げ、両手をぐーにしてずずいっとソフィアに顔を寄せる。


「そうです! 大事な事を忘れるところでした!」

「な、なに……?」


 思わず後ずさりつつソフィアはその先を促す。


「お名前教えてください!」

「は……はぁ?」

「名前! いつもお聞きし損ねてしまっていて!」


 さも悔しそうにアトリはくぅ~、と小さくうなる。若干涙目だ。その姿にたじろぎ、ついポロッと言葉が出てしまう。


「……ソ、ソフィア…」

「ソフィアさん! わぁ、可愛らしいお名前ですっ 理知的な雰囲気にもピッタリなお名前ですね!」


 ぱあぁあ! と音がつきそうなほど、顔を輝かせてアトリが反芻する。


「そんな大袈裟な……っていうか、理知的って……」


 どこがよ、と、つい据わった目でじとっと見やるが、アトリは全く気にせず周囲に花を飛ばしつつ「ソフィアさん、ソフィアさんですかー」と繰り返している。


「や、やめて……もういいから」


 思わず根を上げると、アトリはふふっと柔らかく微笑んで話題を変えた。


「ところでソフィアさん。先ほども言いましたが、この時間に酒場にいらっしゃるのは珍しいですね。何かご用がおありですか?」

「この時間……今って結構遅いの?」

「そうですね。もうすぐ日付が変わります」

「……さっきまで転寝うたたねしていたのよ」

「まぁ、そうだったんですね! ちゃんと温かくしていましたか? お腹出してませんでした? 冷やすとお腹が痛くなっちゃいますよ?」

「ちょっ」


 このアトリという女性は、どうもソフィアを子ども扱いし過ぎるきらいがある。それがどうにもむず痒くて反応に困る。思わず赤面して両手で自分の腹を覆いつつジロッと睨むが、あまり効果が無い様子でアトリは笑って続けた。


転寝うたたねされたのであれば、咽喉が渇いたでしょう。お水飲まれますか? それとも果実水の方が良いでしょうか……あ、すみません」


 ソフィアが止める間もなく、アトリは店員に果実水を2つ注文した。


「ちょっと……そんなお金ないから」

「わたしも就寝前のお散歩がてら、こちらに寄って果実水を頂くつもりだったんです。1人で飲むのは味気ないので、お付き合いくださいませんか?」


 棘のあるソフィアの言葉を、ふんわりと柔らかな笑みを浮かべて包み込む。毒気を抜かれてしまい、ソフィアは思わず不貞腐れたように唇を尖らせた。



 アトリが注文した果実水を持って店員がやって来た。シンが報酬をもって来る前に、先に店側に伝えて少しでもツケを減らしたいソフィアは躊躇いがちに「あの、」と小さく切り出す。


「はい、なんでしょうか。ソフィア様」


 黒髪青い瞳の20代半ばほどの店員は、硬質な表情ながら実直そうな男性だった。ソフィアの声に素早く反応してトレイを片手に持ったまま居住まいを正し、聞く姿勢をとる。冒険者の宿の酒場というよりは、どこぞの屋敷の執事といってもおかしくない様相だ。


「あ、ええと……」


 口ごもり、言葉を探すように視線を彷徨わせる。勢いで会話する事は出来ても、改まってする話は苦手だ。こんな時、コミュニケーション能力が低い事を痛感する。

 男性店員は急かすことなく、もちろん嫌そうな顔をするでもなく、静かに佇んでいる。チラリと横にいるアトリを見ると、柔らかく微笑みを返してきた。触れられてはいないが、そっと背を撫でられた様に錯覚する。少し力みが取れて、再びソフィアは口を開く。


「冒険者のシン、という人が、今度ここのお店にあたし宛のお金を預けに来る……ので、そのお金……あたしの宿代に充てて……もら、える? ……えますか?」


 ややかんだが、伝えたい事が言えて、どっと肩の力が抜ける。これで少しは借金ツケが減る。


「シェルナン・ヴォルフォード様からソフィア様宛に、確かにお金をお預かりしています。では、こちらを宿代の支払いへ充てさせて頂きますね」

「え、あ、はい……」

「畏まりました。残金を確認されたい場合は店長マスターか私ども店員へお申し付け下さいませ。では」

「えっ」

「はい?」

「ま、待って……!」


 そのまま会話が終わりそうだったが、猛烈な違和感に慌てて声を上げる。


「お金を預かってるの? もう?」

「はい。昨日」

「えっ……だって、今日夕方帰ってきたばかりなのに、報酬ってそんなに早く出るもの? いえ、そんなに早く……っていうか、昨日? 昨日ってじゃあ未来の報酬を……え?」


 呆然と、言葉の後半は独り言の様に呟く。すると店員が、表情は相変わらずだが片方の眉だけピクリと動かす。


「ソフィア様。何やら誤解があるご様子ですが、ソフィア様が当宿にお戻りになられたのは3日前の夕刻です」

「は……ええっ?」

「お声をお掛けしましたから、間違いございません。宿泊日数を確認して頂いても構いません」


 す、とカウンター上にあった宿帳を差し出され、ソフィアは絶句する。

 これが真実であれば、ソフィアは部屋に戻った後すぐに意識を失い、3日も経ってしまっているという事になる。あまりの事に差し出されるがままに受け取った宿帳を開く事も出来ず呆然としていると、店員は宿帳をソフィアの手からそっと取り戻し、パラパラとページをめくる。それから、ソフィアの宿泊状況のページを開き、ソフィアへ改めて差し出した。


「こちらがソフィア様の宿泊状況です。宿代や食事代など、どのお客様も明細を記帳しております」

「……! あ、え、ええ……そうなの」

「はい。ソフィア様がお戻りになられたのは3日前で間違いありません」


 男性店員は頷くと、宿帳を閉じてカウンターに戻す。それから綺麗に一礼すると去って行った。それを目で追ってから、ソフィアはぐったりと俯いた。


「ソフィアさん、大丈夫ですか?」


 傍らから心配そうな柔らかな声が掛かる。店員の発言に衝撃を受けて失念していたが、そういえばアトリがいたのだった。


「あ、ええ……いえ、ちょっと……思い掛けない事が起こって」



(……まぁ、大丈夫じゃないかもしれないけど、何とかするしかないわよね……)


 己の顔色が悪い事は承知しているが、平静を装いつつ返す。


「何もしないで無駄に時間を取ってしまったわ。早く仕事を見つけないとならないわね」


 小さく独り言つ。するとアトリは目を丸くしてから「あのっ」と声を発した。


「ソフィアさん、お仕事を探されてるのですか?」

「え?」

「あ、その、実はですねっ エルテナ神殿で人手を募っていまして!」

「えっ?」


 思い掛けない言葉に、思わずアトリへ目を向けると、彼女は目を輝かせて続けた。


「2週間後に、エルテナ神殿で今年の豊穣祭があるんですっ 今、その準備をしているのですが……作物の収穫や、当日にお出しする料理の材料の買い付けなど、手が足りない状況が続いていまして……もし、ソフィアさんのご予定が入っていない様でしたら、お手伝いに来て頂けませんか? もちろん、報酬は……えーと、その、そんなに高くはありませんが、でもきちんと出ますし! 当日残った農作物などもお渡しできます。いかがでしょうか?」


 やや興奮気味に弾んだ声で言うアトリ。お願いしますっと、両手を合わせて祈るようなポーズまでとってくる。予想外の事に固まっていたソフィアだが、ハッとして慌てて言葉を返した。


「力仕事はあまり役に立てないかもしれないけど、それでもいい?」

「もちろんです!」

「それなら……お、お願い、するわ」

「わぁっ 嬉しいですー!」


 きゃーっ、と諸手を挙げると、彼女は嬉しそうに続けた。


「ではでは、明日からお願いしてもいいでしょうか?」

「あたしは問題ないわ」

「ありがとうございますっ では、朝4時にエルテナ神殿裏の畑へいらして下さい。」

「よ……4時?」

「はい。明日は甘藷さつまいもの収穫予定なので、出来るだけ日が昇る前に収穫を始めたいんです!」

「わ……分かったわ」


 こっくりと頷くと、至極嬉しそうにアトリも頷き返す。



 それから、注文した果実水で――やや強引にアトリが勧めて――乾杯をし、その日は幕を閉じた。



 そして翌日から、ソフィアのエルテナ神殿手伝いの仕事が開始したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る