第7話 遭遇
(――――お金が無い)
(――――というか、仕事もない)
見る人が見たら「ヤバイ」と顔に書いてあるのが見えるかもしれない。そのくらい、ヤバかった。――主に財布の中身が。……いやむしろ、入れ物(財布)も無いのだが。
冒険者として登録したからと言って、ソフィアに戦う様な力はもちろん無いのだ。剣も、弓も、魔法も、なにも。――今更の事だが。
(生きるって……お金が掛かるのね)
小さく息を吐いて、しみじみとソフィアは思った。至極当然の事かもしれないが、それでも
幸いなのかどうかはさておき、元々空腹を感じる事はあまりない。そもそも、感覚が麻痺しているといっても過言ではない。以前の生活では、食事と言ったら主に残飯だったし、それも人目をしのんで夜中にゴミを集めた場所に行っていた為、野良猫との戦いに勝たなくてはありつけなかった。
とはいえ、食事を取らないと身体が動かないのも分かっている。だから、食事は1日1食、宿の1階にある酒場兼食堂でパンを買って食べた。……――そうしてツケが地味に蓄積される。
(ツケ……そう、ツケ! それが嫌なのよ!)
抱えた膝に顔を埋める。
(これじゃあ、ツケが増える一方よ。返す当ても無いのに借り続けるなんて、泥棒と一緒じゃない? 詐欺じゃない? 犯罪じみてるわ)
顔をぐりぐりと膝頭に押しつけつつ、うー、と押し殺した声を上げる。
(どうしたらいいの……ううん、まず、今ある
はっとして顔を挙げ、指折り宿代諸々を計算し始める。
(個室が1日銀貨5枚、パンが1つ銅貨1枚……今4日目だから、銀貨20枚と、銅貨3枚……――――――銀貨20枚?!)
ぎょっと顔を強張らせる。
(ま、待って待って! 銀貨……銀貨?!)
そのまま、さーっと顔が青ざめる。
(ま……まずい。非常にまずい。まずいというかヤバイわ)
よろよろと立ち上がる。
(は、早く働かなくちゃ!!)
ぎゅ、と唇を噛んで、悶々とした気持ちを振り払うように何度か小さく頭を横に振ると、ソフィアは手早く生成りのワンピースに着替えて部屋を後にした。
階下の酒場には掲示板があり、通常は宿泊者向けの周知事項や町の広告が貼られている。そしてそこに冒険者宛の依頼も貼り付けられるのが常だった。
まだ日が昇り始める時間帯という事もあって、酒場には殆ど人がいない。いたとしても、酔いつぶれて机に突っ伏している男が数人、そして彼らに全く意識を向けることなく、淡々と店内を清掃している店員が数名程度だ。
そっと足音を立てないように、掲示板へと歩み寄る。
ずっと貼られっぱなしと思われる、宿泊者向けのルールが記載された日に焼けた羊皮紙が数枚、エルテナ神殿で近々行われるという収穫祭の告知、郊外で商隊が妖魔に襲われたため注意を促すもの、“そろそろ雪が降る季節の為、森へ入るのは控えるように”といった自警団の通知文……どれも、仕事に繋がりそうなものはない。
やや肩を落として踵を返そうとしてから、はたとして改めて自警団の通知文に目を留める。
「……森」
ポツリと声を漏らしてから、ソフィアは思考を
前いた世界と、今いるこの世界で、自生する植物が同じか、似通ったものであれば……食べられる植物や、木の実、上手く行けば果実が手に入るのではないだろうか?
幸い、ソフィアには食べられる植物の知識はある。身体を張って確認済だ。
もし、食用のそれらが手に入れば、自分の食事を賄えるのはもちろん、店に買取をお願いする事も出来るかもしれない。出来ないかもしれないが、確認してみなければ分からない。
――背に腹は変えられない。
ぐっと口を一文字に引き結び、ソフィアは決意した。
* * * * * * * * * * * * * * *
港町クナートの南区にある
日が少しずつ高くなってはいるが、それでも十分肌寒かった。
「くしゅっ」
思わずくしゃみが出る。次いで、小さく身震いする。
森は、入り口付近はある程度、木々の枝が打たれて明るかったが、数十分ほど進むと鬱蒼と草木が茂っていた。
(……――幽霊でも出てきそうな雰囲気ね……)
ふと、そんな言葉が浮かび、青ざめて慌てて首を横に振る。正直言って、幽霊やお化けの類は苦手だ。加えて薄暗いのも暗いのも勘弁してほしい。とはいえ、暗さが苦手なのは、壁の隙間からの光しかなかったあの小屋を思い出すからで、恐怖というよりは嫌悪の方が強い。
はぁ、と小さく吐いた息が白く広がって消えた。
(とにかく食べ物を探さなきゃ)
辺りを見回すが、一年草はほぼ枯れて葉の形が分からなくなっており、森に多く見られる木々にも果実や木の実は見えなかった。
それでも、せめて
(キノコ……キノコか)
渋い顔をしてその場にしゃがみ込む。キノコには、正直あまりいい思い出が無い。幼い頃、空腹に耐えかねて食したことが何度かある。その大体が「アタリ」だった。長引く腹痛や下痢、嘔吐で、かなり体力も精神も消耗した記憶がある。
だが、せっかく見つけた食料に近いものだ。そっと手を伸ばして傘の裏を見る。放射状に形成されるひだは、非常に密で多数の分岐があった。
(……………毒っぽい。雰囲気が、だけど)
手を離し、恨めしげにじっとキノコを見る。不意に、ひゅう、と冷たい風が吹き、それが一層身に沁みる。寒い。
「っくしゅ」
身震いし、しゃがみ込んだまま両手で両腕を擦ろうとするが、手先がかじかんでいて上手く動かない。案外、こちらの世界の方が、前いた世界よりも寒さが厳しいのかもしれない。
それとも、若干季節にずれがある……? ふと思い至り、そういう事があってもおかしくない、と納得する。何だかんだ言って、まだこの世界、テイルラットはソフィアにとって馴染みの無い世界だった。
しゃがみ込んだまま、じっと怪しげなキノコを見つめて思案する。
――その時、
「おや? こんにちは」
「!!?」
場違いな明るい声が、唐突に背後から掛かった。
驚きのあまり、びくっと大きく身体が跳ね、その拍子に危うく前方のキノコに顔面から突っ込みそうになった。何とか辛うじて堪えてから、後ろを振り返って身構える。
そこには、先ほどの声を思わせる、柔和な表情を湛えた人物が立っていた。右肩には、薪にすると思わしき木の枝の束をいくつかと、大きなカバンを背負っており、左肩には大きな
「あ、ごめんね。ビックリさせちゃったね」
にこにこと無邪気に笑う、中性的な容姿の男性。僅かに毛先だけクセのあるこげ茶色の髪。やや垂れ目の緑碧玉の色の瞳。全体的に人好きのする雰囲気をかもし出している。
だがソフィアは、かけられた言葉にむっとして、反射的につっけんどんな態度に出てしまった。
「ビックリなんて、してないわ」
口に出してから、嫌な言い方だったかもしれないと思ったが、思いの外、彼はホッとした様に更に表情を和らげた。
「そっか、良かった」
(……――どこかで、会った……かしら)
困惑したようにソフィアは彼から目を逸らす。そういえば、さきほど声を掛けられた際も、何だか前に同じ様な事があった気がする。
女性の様な雰囲気だが、男性という事も知っている。
(……知っている?)
なぜ、と困惑しながらもソフィアはゆるゆると立ち上がる。その様子に、訝しげに彼はほんの少し眉を寄せる。
「ミードちゃん?」
(この人、どこかで……会った?)
警戒しつつ、後ずさる。
会った事があるのかもしれないが、思考に靄がかかった様で思い出せない。先ほどから何か言っているが、ソフィアの知らない人の名前だ。
表情を強張らせ、威嚇するように精一杯視線を強めているソフィアに対し、彼は手を伸ばしかけてすぐにやめた。その代わり、口の中で言葉を反芻する。
「……ミードちゃん……? ――“ミード”? …………ミード……
そして、口元に手を当てて少し考え込む。
「……ああ、なるほど」
何か納得した様子で呟いて、くすっと笑みを浮かべる。
「もし本当に“ミード”ちゃん、という名前だとしたら……ご両親、どちらかが随分とお酒好きって事かな……」
「はぁ……?」
「ああ、ごめん。少し、面白くて」
「……いや、……意味が分からない」
困惑した様に更に後ずさると、彼は「待って」と制した。
「その先は、少し段差があるから危ないよ。――何もしないから、逃げないで」
柔らかなその声に、ソフィアは渋々足を止める。するとそれを見て、彼は相好を崩した。
「ありがとう」
「……あたしが言うならともかく、あなたがあたしにお礼を言う理由は無いと思うけど」
「でも、僕の言葉を信用してくれたでしょ?」
ふふ、と碧の瞳が柔らかく細められる。
(何この人……調子が狂うわ)
苦い顔をして、ソフィアは彼を見た。
「前に一度、
「―――そうだったかしら」
「うん」
「もしかして、会う女性みんなにそう言ってるんじゃないの」
「ひどいなぁ、そんな適当な事言わないよ」
言いながらも、シンは面白そうに目を細めた後、背をかがめてソフィアの顔を覗き込む。
「ちゃんと会ったよ。宿の店員に聞いてもらっても構わない」
微笑んではいるが、その碧の双眸は揺らがずにソフィアを見つめる。その瞳に、確かに
(でも、全然覚えてない……ううん、何だか、知ってる……ような、気はする……んだけど、)
気まずくなって、目を逸らして森の奥に視線を移す。
そんなソフィアの様子を見て、彼はほんの僅かに笑みを消して思案顔になる。しかし、ソフィアが気付く間もなく、すぐにふんわりとした微笑を浮かべた。
「僕はシェルナン・ヴォルフォード。みんなはシンって呼んでる。クナートにある孤児院で住み込みの手伝いをしているんだよ」
「そ、そう……」
「君の名前を聞いてもいい?」
「……? え?」
なんで、と続ける前に、シンの言葉が続く。
「ミードちゃん、じゃないよね?」
「ミード……? いいえ、」
否定しかけて、あれ、と言葉を切って首を捻る。
なんだか今、何かが脳裏を掠めた。―――だが。思い出せない。
「……人違い、よ……」
絞り出した声は、なんとも頼りないものだった。
だがシンは気にした風もなく、にっこりと笑って頷く。
「うん、だから。名前、教えて?」
「な、なまえ、って言われても……」
困惑した様に視線を彷徨わせる。こんな時、普通どうしたら良いのか。彼は名乗っているのだから、名乗り返すべきなのか?
視線を自分の
(……なまえ……ソフィア、と名乗っていいものか、分からないし。……どうせ、きっと、ここで少し話をしたら、あとはもう二度と会わないはずだし。……じゃあ、
ハッと目を
これもいつかどこかで、同じ様に思った様な気がする。――でも、いつ、どこでだっただろうか。
「……もう」
うろたえているソフィアに対し、シンは暢気に笑った。
「出来たらちゃんと、本当の名前を教えて欲しいな」
「え」
思わずシンを見上げると、綺麗な碧色の双眸と目が合った。そこからは悪意は全く感じられなかった。だが、下手な嘘をついたら見破るよ、という強い意志も見て取れた。
「―――――ソフィア、よ」
かなり間を置いてから、ぼそりと小さく口にする。己の名前を名乗った事など、いまだかつてない。それは、ソフィアにとっては非常に勇気がいる行為だった。
「ソフィアちゃんかぁ!」
心底嬉しそうに、シンがぱっと顔を輝かせて繰り返す。――が、彼の台詞にソフィアはぞわっと鳥肌を立て、噛み付くように抗議した。
「“ちゃん”は止めてよ! あたし、子どもじゃないわ?!」
「えー、僕、女の子にはちゃん付けが基本なんだけどなぁー」
「そんなの知らないし! あたしには合わないし! 生理的に無理だし! 止めて! 止めてくれないなら名前呼ばないで! 呼ばないのを止めないなら、呼ばれても返事なんかしないんだからっ!」
ぞわぞわと立つ鳥肌を沈めようと、両手で身体を擦りながら全力で拒否すると、渋々といった体でシンは頷いた。
「分かった。……――――じゃあ、ソフィア」
言ってから、何やら驚いたようにシンが目を丸くする。それから、彼は少し頬を染めてはにかんだ。
「呼び捨てって、何だか新鮮で照れちゃうな」
「は……はぁ?」
思わず目が点になって、聞き返す。この人、確か結構年がいっていたはずじゃ……と思い、再び「あれ?」と首を傾げる。やはり、ソフィアの記憶のどこかに、彼の情報はあるのかもしれない。だが、自分が望んで
会話が途切れ、この場から早く立ち去りたいソフィアは、それをどう告げたら良いか言葉を探して俯く。
そんなソフィアに、シンは小首を傾げる。
「ところで、ソフィアは何をしてるの?」
「見れば分かるでしょ」
何となく後ろめたさから、ソフィアの返答は固い。
「ん~」
シンは少し考えるそぶりをした後、あっ、と顔を輝かせた。
「キノコ狩り!?」
「違うわよ!」
思わず突っ込む。
「えー、違うの? でもさっき、キノコを見ていたでしょ? ……あ、因みにそのキノコは食べちゃ駄目だよ。毒キノコだから」
「………」
採らなくて良かった、と内心で安堵する。
「じゃあ、なんだろう。うーん」
懲りずにシンが考え始める。
「単に、秋の森の散策よ」
早く会話を終わらせたくて、ソフィアは語気を強めて言い切り、踵を返す。彼と話をしていると調子が狂うし、何より曖昧な記憶が頭の中でざわついて、落ち着かない。すぐにでもこの場を立ち去りたかった。
だが、彼の方はというと、全く意に介さない様子でにこにことソフィアに話し掛ける。
「秋……そうだね、もう少ししたら雪が降るかもしれないものね。――あ、僕もそれで、孤児院で使う為の薪を拾いに来たんだよ。雪が降ったら、なかなか乾いた木は手に入らないからね」
なんと、あろうことか、そのままソフィアについて来る。これには焦って、振り返って抗議する。
「ねぇ、なんでついてくるの?」
「せっかく会ったんだし、一人で薪を拾うのは寂しかったんだもの。駄目かい?」
「いや、その考え、おかしいでしょ?!」
「え、おかしいかなぁ?」
心外だ、とばかりにシンは肩を竦める。
(え、おか……しいでしょ? 違うの? 普通なの? どうなの?)
困惑して思わず顔を顰める。その様子を見て、シンは口元に手を当てて小さく「ああ、理由がいるかな」と呟いた。もちろん、ソフィアには聞こえない様に。
「? なに?」
「あ、うん。……薪拾いで話し相手が欲しいっていうのは本当だけど、今の季節の森は、動物にとっても食料を集める時期でもあるからね。一人で行動するのは危ないからさ。冬眠前の熊が出る事もあるし」
にっこり、といかにも善意、といった笑顔を浮かべてシンは答えた。
「えっ」
思わずキョロキョロと辺りを見回してから、はっとしてシンを見る。彼は相変わらず微笑を浮かべており、それが却って表情を見えなくしていた。からかわれた、と感じて、きゅっと唇を噛む。
「っいるわけないじゃない! 町の近くでしょ、ここ!」
「いや、本当に……」
シンが言い掛けたその時――ソフィアの背後の茂みが、大きな音を立てて
「……!!!」
茂みから黒い何か大きな影が飛び出すのが見える。染み付いた習性で悲鳴を飲み込んだソフィアは、固く目を閉じてその場に立ち
「ソフィア!!」
鋭い声が上がった。
続けて何か重たい荷物が地面に落ちる音、更に地面を蹴る音と共に、背後から通り過ぎる風。鈍い殴打音、何かの咆哮――それらが嵐のように一瞬でソフィアの周囲で起こったが、身体が凍りついたようにその場から動けない。――どうしよう、本当に熊が出たのかもしれない、どうしよう、と、頭の中ではそんな言葉ばかりが繰り返され、手足の震えが止まらない。
だがその恐怖は“熊に対するもの”でも、“己が獣に襲われるかもしれない”という事に対してでも無く、――自分などと立ち話をしていたシンが、命の危険に晒されるかもしれない、という事に対しての方が強かった。
むしろ、ソフィアは自分自身がどうなっても何も問題はないと考えている。親しい友人もいなければ、知人もいない。いつどうなっても
だが、シンは違う。彼はここの世界、この町に馴染んでいるし、様々な人からも必要ともされている。孤児院にとっても大切な
せめて自分を囮にして、何とか
――――その時。
ひどく優しく、温かい手がソフィアの小さな手を包み込んだ。
ハッとして、つい瞼を開くと、目の前に微笑むシンの顔があった。
「大丈夫。……大丈夫だよ」
呆然とソフィアはシンを見上げた。それから、ゆっくりと彼の背後に視線を動かし、ギクリと身体を硬直させる。茂みの奥に、黒い獣が横たわっていた。熊……――にしては、何だか大きい気がした。動揺で小さな声が零れた。
「あ……」
「大丈夫。もう、起き上がっては来ない。町に戻ったら、自警団に報告するから問題ないよ」
「……」
本当に強いんだ、と思わずシンを見上げると、全くそんな風に見えない容貌の彼は、やはり表情の見えない微笑を浮かべてソフィアを見つめ返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます