第6話 2つのお願い
――――
ようやく辿り着いた神殿の前で、門柱に寄りかかり小さく息を整える。
(半日も迷ったわ……この町、広すぎ。……でもまぁお陰で少しはこの町の道が分かったけど。)
踵が痛い。恐らく生まれて初めて出来た「靴擦れ」だ。
長時間歩く……どころか、「靴を履いて歩く」事すら、初めてなのではなかろうか。小屋の中で過ごしていた時は、凍える季節に足先が辛くて、藁やボロ布を巻いてはいたが……
そう考えると、随分と贅沢をしている気分になる。チラリと視線を落とし、アトリがこの神殿を出る際に用意してくれた
(これも、バザーに出す為のものだったのかしら……)
いずれにせよ、借り物なのだから返さなくてはならない。少し名残惜しい気持ちがあるのは、この
(だからといって、借りっぱなしってわけにもいかないわね)
小さく首を横に振り、あっさりと諦める。元々、
「持っていない」のが当たり前なので、手元におきたいとは思わないのだ。
神殿の門をくぐり、アトリに今夜から冒険者の宿を取る事を告げると、彼女は持っていた
「まだここで過ごされて良いんですよ?!」
あうあう、と口を
「い、いや……そこまで面倒は掛けられないから。」
「面倒などではないですよっ」
「わ、分かった。面倒……じゃなくて、えーと……迷惑を」
「迷惑でもないですー!!」
わぁぁん! と、とうとう泣き出した。ぎょっとしてソフィアは後ずさった。
(え、ええええええっ なんで泣くのっ? あたしのせい??)
滝の様な汗を流しつつ、どうしよう、とそわそわとしていると、
「アトリ! あなた、神殿の廊下に何を広げているのです?!」
濃紺一色の修道服を身に纏った4~50代ほどの年嵩の女性が、早い歩調で2人へ近付いてきた。キビキビとした口調と身のこなしで、細くつり目がちの目を更に吊り上げている様子は、かなり迫力がある。
「あわっ
泣き顔を両手で覆っていたアトリが、ぴょっと飛び上がり、声を掛けてきた女性―――エルテナ神殿の
「も、申し訳有りませんっ すぐに掃除します!」
当然です、と厳しい視線をアトリに向けて言ってから、その女性はソフィアに気付く。
「あら、貴女は……動けるようになったのですね。それでも、あまり調子はよろしくない様子。当てがないのであれば、遠慮せずに神殿に滞在なさいね」
やや表情を和らげてソフィアへ声を掛けると、すぐにアトリをじろりと見やる。
「ホラ、貴女はさっさと仕事なさい!」
「は、はいぃっ ごめんなさい!」
特に長々と苦言を言うつもりは無いらしく、そのまま
「ごめんなさい……動揺してしまって」
「い……いえ、別に……」
こんな時、何と返して良いか分からず、無意味な言葉しかでない。それがどうしようもなく悔しくて、ソフィアは俯いた。
「冒険者の宿……――という事は、
「まだ決めてはいないけど、知っているのはそこだから、ひとまず今日はそこへ泊まるつもり。」
そうですか……と、アトリはそっと睫毛を伏せて、吐息の様に呟いた。
豊穣の女神に仕えているからか、アトリは非常に情が深い女性の様だった。ソフィアへ対しても、心からの心配と労わりの心を持っている事が、誰の目から見ても明らかだ。
当事者であるソフィアも同様だった。少し言葉を探すように目を泳がせてから、躊躇いがちに声を出す。
「――あなたには世話になったわ。……すぐには無理だけど、いずれ、きちんとこの恩は返すから」
ばつが悪そうな、歯痒そうな、もどかしさの篭もった言葉だった。
「恩、ですか…?」
きょとり、と目を丸くしてアトリは小首を傾げる。それから少し思案し、「では」と続けた。
「もしそのように感じてらっしゃるのであれば、わたしのお願いを2つ、聞いていただけませんか?」
「お願い?」
「はい」
にこにこと、既に涙が乾いた瞳を輝かせてアトリは頷く。
「……それ、あたしに出来る事?」
「ええ! もちろん!」
「――――分かったわ。何?」
「ええと、まずは1つめ。
「え?」
意味が分からず、思わず聞き返す。
「個室です。―――大部屋は安いですが、不特定多数の方々と共に眠る事になります。ここ数日、あなたが意識を失っている間ですが、それでも、あまり熟睡出来ていない様子でした。――あなたは、無意識の状況ですら、気を張っているんです」
じっと真摯な灰紫の瞳がソフィアを見つめる。
「これから寒くなります。その前に、少しでも体力をつける為にも、睡眠は大事です。―――いいですね? 宿は“個室”です」
「それって、あなたのお願い?」
「はい、“お願い”です。わたしがそうして欲しいんです」
「……―――2つ目は?」
応えず、次の“お願い”を促す。
「2つ目は、あなたが履いてらっしゃる
「えっ」
思わずソフィアは、足元に目線を落とした。
「その
顔を上げてアトリを見ると、彼女は少しおどけた様に笑って言った。
「今更、
驚いて反論出来ずに固まっていると、更に念を押す様に言葉を続ける。
「これが2つ目の“お願い”です」
「そんなの……」
「ふふ、
詭弁だ、とは分かったが、それ以上にアトリの気持ちが、ソフィアから拒絶の言葉を奪った。
かなり長い間迷ったが、結局ソフィアは、アトリの2つの“お願い”を受け入れたのだった。
* * * * * * * * * * * * * * *
――――その夜、
宿代をツケにする為には冒険者登録が必須だったが、冒険者の宿は部屋を取る際にその申請も行う事が出来た。
とはいえ、シアンが言っていた通り、そうそう冒険者への依頼などは来ない。来たとしても、他の町へ向かう商隊の護衛など、ソフィアの身の丈にあわないものばかりだ。
――――そうこうしている間に、ツケがたまる一方、何も仕事が無いまま、あっという間に3日が経過したのだった……
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