第2話

(2)



 ケーキを食べ終えた娘は隣の部屋で寝ている。僕はその寝顔を見つめてから、そっと指輪を取り出した。

 銀色に輝く指輪の輪郭がどこか儚げに見える。

 僕は寝入る娘を見ながら、あの事件の日の事を思い返した。


 それは六月の梅雨に入った頃だった。

 娘が通う幼稚園での定例のお遊戯会。小さな可愛い園児たちがそれぞれのアニメのヒーローや昔話の主人公たちになって綺羅星のように着飾り、演技を小さな壇上でしている。それを囲む様に多くの保護者が我が子達の姿を写真やビデオに撮っていた。


 幼稚園の先生達は遊戯会の進行もさることながら昼に行われる保護者とのお食事会の準備に忙しいようで誰もゆっくりとしておらず、それぞれの持ち場を行ったり来たりしている。


 こうしたことはどこにでもあるごく普通のささやかな幸せな情景だった。

 それが突如として惨劇の場面へと変わった。


 一人の若い女性の先生が年配の先生の一人に話しかけている声がビデオを回している僕に聞こえた。

「立花先生…優君が…夏目君が居ないんです」

 問いかけられた年配の立花先生が若い先生に振り返る。

「藤田さん、居ない?本当?」

「ええ。いないんです。次の演目があるんですが、見当たらないんです」

 藤田と言われた若い先生が答える。その眼差しが不安げに揺れている。

「本当に、どこに行ったのかしら。私も探すわ」

「すいません」

 そう言ってから姿を僕の目から消した。

 ちょうど娘が壇上から降りたところだった。

 一瞬だけ僕は出て行く二人の先生の姿を見た。だから僕はその瞬間を鮮明に覚えている。

 僕はビデオをしまった。

 やがて数分が過ぎただろうか。園児たちの遊戯が段々熱を帯びて行き、保護者の笑い声が頂点を迎えつつあった。 


 その時、突然、悲鳴が幼稚園中に響いた。


 そのあまりにも悲痛な声にそこに居る人は一瞬我を忘れた。

 ――何事が起きたのか?

 それを図れない人々の戸惑いとはこれほどの静寂と沈黙を一瞬に引き起こすのか。

 二人の狂乱者が僕らの目の前に現れるまで静寂と沈黙が続いた。僕等の面前に現れた二人の狂態、それはまるでシェークスピアの悲劇を演じる崇高な魂の演者のようだった。

 多くの人々が突如現れた二人の狂態者に寄りかかり、僕も妻もなだれ込む様に寄りかかった。


 ――何ごとが起きたのか!!。


 年老いた女性は胸を押さえ、息ができない。かろうじて年若い女性は顔を白くさせながら、指を指した。


 ――どうした?どうしたというのだ!!

 群衆の叫びが震える指先から答えを探り出す。


 ――指先の向こうに何があると言うのか?


 保護者の誰か若い男がその場から走り出した。

 それに続くようにまた誰かが走り出す。それにつられて多くの人が走り出した。

 幼稚園の正面玄関へ行く廊下だ。ここからそこは丸見えだ。それが少しの所で角が折れている。その角先に通路がある。そこは普段使われていない裏口へ行く道だ。

 立ったまま走り出した男が叫ぶ。

「何も?無いぞ!!」

 その男の怒声に倒れそうになりながら若い女性が小さく呟いた。

 僕はそれに耳を寄せた。 

 息も絶え絶えに呟いた。 

「…道具、……道具部屋……」

 僕はそれを聞くや走り出し、群衆を掻き分けて男の立っている場所へ行き、見渡した。

 見れば部屋の仕切りの中で『道具部屋』という木札があった。裏口へ向かう廊下へと急ぎ進み、僕は部屋の引き戸を開けた。

 その瞬間、僕は声が無かった。

 いや後からついてきた誰もが声が無かった。

 その情景を今でも僕は思い出すと身震いする。


 そこには跳び箱の上段が外されて、縊死している少年の着飾った姿があったからだ。

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