31、永遠に試行錯誤なのだろうという諦めに似た悟り

「そう、夜中に一人で温泉に入ったんだ」

「怖くなかった?」

「怖い?」

「真夜中に一人でなんて」

 僕は美紀の顔を見て笑った。「俺は女の子じゃない」


 中上と鬼怒川温泉に行き、翌日の夕方、中上は僕をアパートの前で下ろしてくれた。帰宅した僕は、美紀にLINEを入れた。すると美紀は、アパートに行っていいか、と訊いてきた。僕は帰ってきたばかりなので少し迷った。だが特に断る理由もないし、軽い罪悪感もあったので、かまわないと返事した。

 美紀はドアを開けるなり僕の首に腕をまわしてキスをしてきた。急ではあったが、ゆっくりとした動きだった。僕は無抵抗で、そのままシャワーも浴びずに行為に及んだ。美紀は欲に飢えてガツガツしているということもなく、ごく自然だった。だが、妙に手ごたえがあった。美紀の内側から溢れるエネルギーを感じた。

 僕は初め、うまくできるとは思えなかったのだが、なぜか普段よりやりやすかった。温泉で体が癒され、体力が回復したのかもしれない。美紀の様子がいつもと違っていたせいかもしれない。そんな諸々の理由のせいだろう、僕たちはお互いに二度達した。そんなことは久しぶりだった。僕も美紀もかなりの満足を得て、特に美紀はしばらくのあいだ顔がほころんだままだった。


「鬼怒川の渓谷もきれいだった」僕は天井にその光景を映して話した。水流の音まで聞こえてきた。「秋になったら紅葉がきれいだろうけど、夏のあの青々しさも良かった」

「ふ~ん」美紀は僕の肩に鼻をつけて言った。

 ふと、僕は美紀をうらやましがらせてばかりで、美紀の想いを考えていなかったと気付いた。何か美紀が喜ぶことを言おうと思った。

「今度、旅行に行こう。二人で遠くに行ったことないもんな」

 そう言って、僕は美紀を見た。美紀は目を閉じたまま笑みを見せた。たぶん、僕が気を遣ってそう言ったことがバレているのだ。美紀はそんな僕の、憐れみからくる気遣いを感じると悲しむ――たぶん、悲しんでいるのだ。憐れみよりも、本心が欲しいのだろう。僕はあくまで本心であることを伝えようとして言った。

「温泉でも、どこでもいい。一緒にさあ!」

 美紀は目を開けて僕を見た。だが、その目はまだどこか悲し気だった。

「行こうよ。伊豆とか……四国でも沖縄でも。お前はどこがいい?」

「……どこでもいい」

 美紀はそう言って、僕の腹の上に腕をまわし、また僕の肩に顔をうずめた。表情は髪に隠れてよく見えなかった。


 僕は美紀を喜ばすことができたのだろうか? 美紀の考えていることがまったくわからないことが、ときどきある。今回もそうだ。もしかしたら、最悪の場合、美紀は怒りに震えているかもしれない。だが、これまで美紀は僕にそういう態度を見せなかった。そんな女は、これまでいなかった。

 僕は、、ということに慣れていないので、美紀がネガティヴィティをため込んでいるのではないか、と疑っていた。それが爆発するよりは、にしてもらったほうがいい。だが、そんなことをわざわざ言うのもおかしな感じがしたし、もし美紀が努めて不機嫌さを出さないようにしているのであれば、言うだけ失礼で、悲しませることになるかもしれない――難しいところだ。

 僕にできることは…………とりあえず、僕も美紀の体に腕をまわすことだった。それ以上でもそれ以下でも、美紀への愛情はうまく伝わらないだろうし、誤解され怒りを買う可能性もあった。だが、腕をまわすことが正解だという確信はない。もしかしたら、もっと強引な〈それ以上〉が正解なのかもしれないし、ひたすらじっとして腕をまわさないでいる(美紀に腕をまわされた状態でいる)〈それ以下〉が正解かもしれない。考えても答えは出ない……。

 だいたい、こんなことを悶々もんもんと考えているより、目の前の美紀のことをしっかり見て、そのうえで考えるべきなのだ! 僕は美紀を見た。乱れた髪のなかに鼻と口が見えた。口は微かに開いており、唇にはつやがあった。そういえば――と僕は思った。美紀は珍しく、リップクリームを塗っていた。普段ノーメイクの美紀なので、リップクリームを塗ったというだけでも驚いたのだが、口を塞がれて何も言えず、リップクリームの甘い味を味わっただけで、そのままそのことには触れていなかった。

 僕は人差し指を美紀の唇に当てた。「きれいだね」と言って、唇にキスした。すると美紀は、まるで生命を取り戻した蛇のようになった。神々しいくらいに美しいが、僕は精魂尽き果て、干からびる思いだった。

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