25、希少性への認識

 喫茶店で、がある程度固まったおかげで、僕の精神は夕凪ゆうなぎのように穏やかになった。やるべきことをやったからだ。整理整頓。時々はやらなくてはならない、部屋の掃除のようなもの。気になって仕方がなかったのだが、やってしまえばスッキリする。

 それ以降、僕は真夜中に美紀のアパートに向かうことがしばしばあった。僕たちは同じ町に住んでおり、徒歩で15分ほどの距離だった。以前は、ごくたまに美紀が夜中に歩いて僕のアパートに来ることがあった。だが、夜中に女一人で外を歩くのは危ないと言い聞かせ、それから美紀は控えるようになった。

 だが、今や僕が押しかけている。美紀とこれからも付き合っていくということを喫茶店で決意したので、心のタガが外れ、遠慮もなしに美紀を貪るようになっていた。そして明け方目を覚まし、美紀に別れを告げ、アパートに帰り、着替えて出勤ということが多くなった。


 東京はうんざりするほど予定調和に、だんだん蒸し暑くなってきた。この暑さとしばらく付き合わなけれならない。街の雰囲気は徐々にオープンになり、お祭り気分になっていく。その暑さのせいだとは思わないが、僕もラテンのような気楽さに漂いはじめていた。今や僕は、美紀のことで暗い気分になることもなかった。美紀の恩恵を充分に受けていることを、ありがたいことに自覚できていた。そのおかげで、美紀が離れてしまうことを恐れることもなくなった。


「最近、穏やかになったね」キッチンで美紀が言った。「ずいぶん好き勝手に来るようになったし」

 ソファに座っていた僕は笑い、振り返って美紀のほうを見た。美紀は二つのカップにお湯を注いでいた。頭にタオルを巻き、黒縁の眼鏡をかけてすっかり部屋着姿だったが、デニム地のホットパンツから伸びた脚には、あらためてうっとりした。未だに美紀にときめいている自分に驚いた。

「お前はきれいだ」僕は遠慮せずに言った。

 美紀は声を立てて短く笑った。カップをトレイに載せて持ってきてから、僕の言葉への返礼のように、僕の頬に口づけをした。僕はお互いの眼鏡を通して、豊饒な泉のような美紀の瞳を見つめた。こうして見つめ合っていると、またコトに及びかねないとお互いに感じ、カップを手にしてそのムードをかき消した。僕たちは、放っておくと延々抱き合うことになりそうだった。


 僕にとって、こんなに入れ込む相手は初めてだろう。一時的に深くハマり込むことはあっても、しばらくすれば落ち着いていた。だが美紀に対しては、永遠に熱を上げたままではないかと思った。

 美紀は僕の隣に座り、その愛おしい唇で紅茶を飲んでいた。そのとき、僕に『結婚』という考えが湧いた。これまでも何度かそんなことはあったが、僕はハナから、美紀との結婚はと考えていたので、すぐに頭から消えていた。神の何らかの采配ミスで、僕たちは一時的に付き合っていると決め込んでいた。だが、喫茶店で美紀と付き合っていく決心をしたせいだろう、一生添い遂げるということが徐々に現実味を持ってきた。

 しかし、美紀はまだ若い。これほどうまくいく関係の希少性をわかっていないかもしれない。以前の僕のように、だいたい誰とでもこんなふうな関係を築けると思っているかもしれない。いや、違うんだ。暗い影がほとんど忍び寄らず、むしろそれを追いやって輝きを増していき、安寧のなかに漂える関係は、なんだ。んだ――つまり、僕は、美紀に捨てられたくなかった。

 もしかしたら美紀は、誰とでもこんなあたたかい関係になれるのかもしれない。美紀の性格からすると充分ありうることだ。僕よりも立派な男と、もっといい関係を持てるのかもしれない。僕以上に、美紀の心を満足させる男はいるかもしれない……。

 久しぶりにネガティヴになったが、僕はそこにハマり込まなかった。もう40年も生きてきた。どうすればいいかぐらいわかっている。それが正しいかどうかはわからないけれど、腹は決まっている――僕なりに美紀を愛するしかない。それしかできないし、それでダメならダメなのだ。僕が美紀の求める男ではなかったということだ。もしそうなっても、後悔はない……つもりだ。

 僕は苦くて濃い紅茶をすすり、あらためて美紀を見た。美紀も僕を見た。その顔は喜びに満ちて、希望の輝きがあった。僕たちはまた目で言葉を交わすと、コップを置き、ごく自然にお互いの背中に腕をまわした。

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