17、欲望

 僕らに起きたことの経緯を、もう少し詳しく語ろう。その日、彼女と図書館で会い、そのあと僕が寄った純喫茶『バイロン』に、偶然(なのだろう)彼女も入ってきた。一日に二度も会ったのだ。そして挨拶を交わし、彼女は僕の席の向かいに座った。このあたりは、すでに語ったとおりだ。テーブルを挟んだ向かい側を「どうぞ」と勧めたのは僕だ。

「またお会いしましたね。よくここにいらっしゃるんですか?」彼女は、話のとして僕に訊いた。

「はい。図書館で読み疲れたら、ここに来て気分を変えて、続きを読むんです」

 彼女は笑って席に着いた。それを見て、〈座る〉ことを思い出した。店員が来ると、彼女はメニューを見ずにカフェラテを注文した。

「ここにはよく来るんですか?」

「たまに来ますね。大学が休みのときに、週に1回か2回……。それってじゃなくて、多いほうですかね?」

 僕はそのとき初めて、彼女が大学生なのだと知った。

「社会人だとそんなに来れないから多いほうだと思うけど、大学生だったらいくらでも行きたい店に行けるだろうし、大学生基準なら、まあ〈たまに〉ってことでいいんじゃない」

 彼女は笑顔を見せた。まだまだ僕たちはぎこちなかった。明らかに、彼女はまだ愛想のいい〈作り笑い〉をしていた。彼女が僕と同じテーブルに着くことを嫌がっているようには見えなかったが、緊張しているのだろう。かく言う僕もそうだった。

「そういえば」と、思いつくと同時に口にしていた。「まだ名前を知らなかったですね。僕は杉浦といいます」

「スギウラさん……。私は、深田美紀といいます」

「フカダ、ミキさんですね。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 そんなやり取りをしたあと、お互いに苦笑した。彼女がフルネームを言ってきたので、反射的に僕も妙に堅苦しい言葉を返したのだが、それが何だか滑稽だったからだ。ようやく僕たちは肩の力が抜けた。

 僕は彼女にいろいろと質問した。大学で何を専攻しているのか、どこの出身なのか、普段はどんなふうに過ごしているのか、など。彼女は知られることによって心地良さを覚えているようだった。コミュニケーションに飢え、誰か(この場合、僕)と親しくなることが楽しいような、子ども心がたんまりと残っているのだ。そのようにして打ち解けていくにつれ、『若い子のこういう性質は、人間の繁殖のために備え付けられたものなのだろうな』と思った。これが僕でなくても、こうやって親しくなって、誰かのものになってしまうのだろう。もっと若く、猛々しい男のものにでも……。

 彼女もまた、僕に様々な質問をした。僕は端的に包み隠さず答えた。読んでいる本のことも訊かれ、カントのことも簡単に話した。そのうちまた僕のなかに、彼女を自分のものにしたいという欲望が湧いてきた。彼女が積極的に訊いてくるほど、彼女の好意という魔法の粉を浴びせられたような気になり、僕は彼女を手放すのを惜しんだ。みすみす逃して、他の誰かのものにさせたくはない……。表面上はクールに見せつつも、内面は理性と欲望がせめぎ合っていた。そしてあるポイントで、僕は欲望に従ってみることに決めた。失うものは何もないだろうし、そもそも喫茶店で顔を合わせたときに、モノにすると決めたはずだろ――そう自分を諭した。


 喫茶店では少し目立ってしまうほど会話が盛り上がり、僕も彼女も話し足りなかったので、僕は彼女を近くの居酒屋に誘った。赤ちょうちんが軒先にともる、個人経営店だ。彼女は『居酒屋に入る』と思うだけで、大人びたことができる喜びを感じているようだった。店内を覗くと、カウンターのはじのほうしか空いていなかった。だが、そのおかげで僕たちは隣りあい、体が近づいた。

 1杯目は二人ともビールにしたが、彼女は中ジョッキの半分を飲むと、急に艶めかしくなった。ハッキリ言って、もう準備は完了していた。だがそうなると、僕に罪悪感が湧いてきた。若い女の子を酔わせてその気にさせた自分を、〈とんでもなくゲスなオッサン〉だと思った。だが彼女も僕も、もう後戻りできそうになかった。

 彼女は、僕の真似をして注文した2杯目の水割りウィスキーで、もうだいぶ酔ってしまった。酒はあまり強くないのに、粋がったようだ。1時間ほどで居酒屋を出て、彼女の住所を訊き、タクシーで送ろうとした。だが、彼女はイヤだと言った。

「別のお店でもう少し飲みましょうよ」彼女は僕の肩に腕を載せていたが、それでも覚束ない足取りだった。

「いや、美紀ちゃん、もう飲めないでしょ」

「飲めますよ」そう言った彼女の眼は、ほとんど閉じている。

「もう店に入っても寝るだけだと思うよ」

「じゃあ杉浦さんちで、私が寝ちゃうまで飲みましょうよ」

「それはなあ……」

「大丈夫ですよ。お互い今は彼氏も彼女もいないから誰にも怒られないし、何かあっても、もう大人なんだし――」そう言って彼女は愉快そうに口角を上げた。冗談なのか本気なのかわからない。

 僕の欲望にとっては好都合な状況となったが、こんな感じで彼女を〈モノ〉にしていいのか、理性の残党が悩んだ。それはカントさんのいう『道徳』的に、というより、もしかしたら彼女はアバズレで、誰とでも寝る女で、そんな女と一度でも寝ると、こちらの人生が振り回されかねないという、利己的な懸念のためだった。今や彼女のは、だいぶ疑わしいものとなっており、むしろ僕のほうが遊ばれているような気がした。『あたしさぁ、20も上の、40のオッサンと寝たんだ……』なんて、友達に言いふらすんじゃないだろうか。

 心配や不安はあったが、肩の中の彼女の顔をあらためて見ると、悪意はなく素直そうだった。彼女はただ、今が楽しいのだろう。そして何より、彼女は魅力的だった。気が付くと、彼女の魔性を帯びた体温に、僕は全身を包まれていた。

「じゃあ、行こうか」

「やったぁ!」彼女は顔を上げ、右手を突き出して言った。その能天気な仕草に僕も気が晴れ、まるで男友達を連れていくような気分で、彼女を支えながらアパートに向かった。

 そのあとのことは、ただの男女の営みにすぎない。翌日、大学生の彼女に予定はなくとも、僕には仕事があった。朝、未だ快楽の海に漂っている彼女に「また会おう。連絡するよ」と言って、半ば強引に身支度させ、一緒にアパートを出た。彼女は少し物足りないようすだったが、僕はそんなことで会社を休むわけにはいかない。別れ際、もう一度「また会おう」と言うと、彼女は笑顔を見せ、地下鉄の駅に入る僕を手を振って見送った。

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