16、何でもないこと

 僕は彼女がゆっくり近付いてくるのを見ていた。彼女はどこに座るべきかと見まわしていたが、正面の僕には気付いていないようだった。細身の彼女が歩いても、軟弱な木張りの床がきしむ。彼女は僕に気付いたとき、驚いたような表情になり、しばらくそのままだった。僕はその妙なに耐えかねて、立ち上がりお辞儀をした。彼女は我に返り、笑顔で頭を下げた。初め、僕だと信じられなかったのかもしれない。

 と同時に、僕は40年生きてきたことでそれなりに育まれた〈勘〉で、彼女が僕に好意を抱いていることを悟った。好意と言っても、図書館内で挨拶を交わす同志としてのものではなく、恋愛感情に近いものだ。僕はごくたまに、女性からそういう感情を感じ取ることがある。だがそのうちのいくつかは、残念ながら思い違いだった。年をとるごとに精度は上がっているし、今回はたぶん間違いないはずだ。

 そして僕は、〈不惑〉のなせるわざか、彼女と親しくなって恋人関係になりたいなどと思い、あろうことかすぐさまそのための動きを起こすことにした。今の僕にとって、それは何の問題もないことだった。タバコに手を出すかどうかという大きな葛藤のあとだったので、女性に対して積極的になることへのハードルが、一時的にかなり下がったのかもしれない。さらには晃子とも別れて独り身だし、ストイックな生活を続けてきたことで自信がついていた。それらの条件が整っていたことも要因ではあるだろうけど、何より、僕はすでに彼女を自分のものにできることを確信していた――。

 結果、僕はその日のうちに彼女と寝た。翌日、僕は仕事があり、一緒に僕のアパートを出て別れた。


 話してみると、彼女が大学生だということがわかった。たしかにあれほど頻繁に図書館に来れる若い女性は大学生くらいだ。しかし、大学生ならもっといろいろ遊べばいいだろうと彼女に言った。

「でも、あの図書館で勉強するのが好きなんです。去年気付いたんです。レポートの課題が出て、久しぶりにあの図書館で勉強してたら、小学生のころここでよく勉強してたなあって懐かしくなって、それからはよく来るようになりました。大学にいるより楽しいです」

「もったいないねえ」


 そして彼女は、僕のことを大学院生だと思っていたらしい。僕はすぐさま「とんでもない」と否定し、今40歳なのだと言った。さらに、薄給でオンボロアパートに住んでいることも隠さず言った。僕は小学生の女の子に対するように、〈いい感じのオジサン〉を演じることはしなかった。いっそ幻滅されてもいいというくらいに思っていた。だが彼女はそういったことをあまり気にせず、僕が事実を伝えることに喜びを感じているようだった。それで、僕はさらに彼女に好意を抱いた。


 その日の朝、電車は間隔調整のための停車が、いつも以上に長かった。停車時にアイドリングするため、唐突に静けさが覆う。それが長ければ長いほど、目に見えぬ柔らかな静寂の布が僕たちをふんわりと、しかし石膏のように覆い、寒気すら感じさせる。そんなとき、『いったい俺は、こんなところで何をしているんだろう?』と思う。周りを眺めると、みんな同じようなことを感じているように見える。ギュウギュウ詰めにされ、暗澹あんたんたるムードを共有する大人たち――特に頭が薄くストレスの歴史を重ねてきた男性が、今現在しんどそうに眼鏡を顔の肉にはさんで顔を火照らせているのを見ると、ほとほと憐れになってくる。

 そんなとき、僕は声に出して言いたくなる。『僕ら、いったい何やってるんでしょうね?』と。みんなの苦しみを癒すように。だが、それで笑顔になってくれる人もいれば、怒り狂う人もいるのだろう。惨めな現実を認めたくないときは、僕にもある。だから結局、みんな黙っているのだ。この、諦めと閉塞感の漂う静寂に沈み込んで――。

 僕の頭の中には、打ち消しがたく彼女がいた。暗澹に陥ることすら許されなかった。そして間隔調整のための停車時、僕はその静けさの中に彼女の声を聴き、彼女の感触をありありと思い出した。そんなまどろみの電車から解放されて空気が変わると、少しずつ自分と彼女、お互いの大胆さや突飛さが客観的にわかってきた。こんな年上の自分と一日であんなことになったという事実を反芻するにつれ、彼女がおとなしそうに見えただけに、いささか恐ろしくなった。もしかしたら彼女は、想像以上に可能性もある。晃子のほうがまだ安心感がある。ああ、今は遠き晃子……。一方の彼女はマジメゆえ、より振れ幅が大きそうだ――そう考えて、彼女にあまり積極的になるのはやめておこうと思った。そこにもやはり、いちいち具体的に意識されないほど浸透した、カント先生伝来の冷静さがあった。

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