13、カントは生涯独身でありニュートンも同様だった

 僕は生まれて初めて、『独身で恋人のいない40歳男性』になった。しかも、かなりの薄給。いやあ惨めだ。これまで、晃子がいたおかげで目を背けていることができたが、浮き彫りになって迫ってきた。これは上野の美術館で、バルトゥスの油絵を間近に見たときのような感覚だ。平面的に見えていた絵が、近づくと荒々しいタッチの絵の具の凹凸となり、もはや絵画ではなく生命を持った化け物のような存在に感じられた。そして僕の現実も、思っていたより空恐ろしかった。

 『独身で恋人のいない40歳男性』になったのは初めてだが、それに近い、『独身で恋人のいない38歳男性』にはなっていた。晃子と出会って、『独身で恋人のいない39歳男性』は経験することがなかった。僕は30歳ぐらいのときには薄給にも孤独にも慣れていたし(世間体を気にしなくなったという意味でも)、今の時代、高給や出世を目指したり結婚や恋愛をする義務や必要性はない、むしろ古臭いと思っていた。


 だが僕にも、〈貧しさ〉や〈孤独〉への恐怖心は成長期にしっかり植え付けられ、取っ払ったはずだったが根を残していたようだ。一人だと性的フラストレーションがたまるとか、子どもがいなかったりお金がないと老後の面倒を見てもらえないとか、そういう恐れはあるにせよ、そんなものは実は大した問題ではない。死ぬときは誰でも孤独だし、潔く孤独に死ねばいいのだ。孤独は寂しいことではない。お金がなくともなんとかなる。人類史上、僕以前にそんな人間は無数にいたし、それを苦にしない者もたくさんいただろう。

 だから問題は老後や臨終ではない。終わるときはただ終わる。もちろん贅沢できないが、それはどうでもいいことで、それこそ慣れてしまった。それよりは、時流に合わせてガツガツ働くことが僕にはできなかった。もともと体も十分に強くなかったし、精神も同様だ。僕の場合、無理して働いて収入を増やし、たくさん遊べたことがあったが、まったくハッピーじゃなかった。薄給で、遊べず、孤独でも、自分のペースを保てていることが一番の幸福だった。

 それなのに――僕は、今の状況をリアルに肌に感じ、理解するにつれ、なぜか得体の知れない恐怖を感じた。これもまた〈呪い〉だろう。長く晃子と付き合ったせいで、自分が世間一般の幸せを手に入れていると思い違いしていたのかもしれない。晃子と二人であれば孤独ではないし、一人ではできない遊びもできる。だがそれによって、僕はここ2年で孤独と薄給への耐性を弱めてしまった。そして、世間一般の幸福の概念が僕の中に染み込んできた――晃子による教化、もしくは軟弱化、骨抜き、洗脳……。

 いや、晃子のせいにしてはいけない。僕は女性との付き合い方が下手というか、どちらかと言えば結果として相手を悪い存在にしてしまいがちだった。もちろんステディがいれば性的フラストレーションは解消され、清々しい日々を送れる。しかし一方、自分の存在の根源的な部分を弱めてしまう。それは僕の愚かさと認識の甘さと不器用さと依存性の強さと幼稚さのせいだろう。どうしても女性と付き合うと、僕自身のが乱れてしまう。そこいらのチャラ男やチンピラよりも、ある意味ダメになっている。彼らはもともとがチャラいので、ダメになっても自分のスタンダードからさほど外れていないし、自分の悪い状態に気付かないという〈強み〉がある。僕はそんなにしたたかで器用ではない。恋人と一緒にテラスでケーキを食べているとき、洗濯物を干す恋人の姿を寝ぼけ眼で眺めるとき、僕は癒されつつも、腐りつつあったのだろう。

 女といてもストイックでいられれば良かったのだ! ストイック、ストイック……。もう出家でもしたいくらいだった。いや、そんな面倒まではしたくない。身が持たない。持つなら娑婆しゃばでタフにやれている。この中途半端さが僕の不幸の根源かもしれないが、今は僕のできることを、できる場所(寺ではないだろうし、山岳でもないだろう)でやろう。自分の居場所と、やるべきことを見つけよう。


 ――とりあえず僕は本を漁った。哲学、文学、思想から、カーサブルータスまで……。そしていくつかの指標とすべきものを見つけた。そのひとつに、カント哲学があった。これは雑誌『ペン』の哲学特集で見つけ、共鳴のあまり僕は貫かれ、真っ二つに裂かれたかのような衝撃を受けた。要はとことんストイックなのだ。ストイックと言ってもその語源であるストア派はピンと来なかった。カント先生の哲学が僕の頭を思い切りガツンと撃ちつけたのだった。

 僕はアパートの部屋のしけたソファに沈み込み、悶々と、しかしかなりの興奮を覚えながら『純粋理性批判』を貪った。読み疲れて本を膝の上に置くと、ときどき、〈これでますます、恋人が遠ざかりそうだなぁ……〉と思うことがあった。だが、それでも良かった。今いない次の恋人なんかよりも、カントという18世紀ドイツの老人に夢中だった。

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