第26話サヨナラ

線香の匂いが鼻を通過して脳内に侵入して来て雫は目を覚ました。ゴレムと昇に殴られた箇所が痛んで腕は筋肉痛だ。夢を見た。アノ人が母さんを頼んだと雫に頭を下げていた。初めて置いていかれる恐ろしさを感じた。待って、父さん、まだ行かないで、まだ話したい事があるんだ。もっともっと父さんが好きな音楽や食べ物を知りたいんだ。本当に母さんを愛していたのか。父さん待ってくれよ、僕を置いて行かないでよ。本当は父さんに愛される息子になりたかったんだ。雫は、夢の中で泣きじゃくった。父さんは、お前には幼い頃に死んだ兄さんがいたんだと告白した。これからも兄さんがお前を守ってくれる。兄さん?兄さんって誰だよ?待ってくれよ父さん。父さんは背を向けて高い高い白い階段を上がって行ってしまった。その先に眩しい光があって父さんは一度だけ振り返ると笑ってサヨナラと言った。


葬式は、しめやかに幕を閉じた。父の死体は焼かれて骨の屑と化した。煙と共に父の魂は空へと消えてしまった。もう、父が新聞を閉じる音が聞けない。親戚の叔父や叔母に「お母さんを頼んだよ。」と言われたがまるで実感も責任もない。何が頼むだよと狂は悪態をついた。誰かに会いたくなって美沙子にメールしたが二、三日しても返信はなかった。フラれたなと狂はベッドの上で漫画を読みながら言った。


「狂、お前、僕の兄さんなんだろ?」と雫は父の言葉を借りて聞いた。「ふ、兄さんかなんて問題じゃないだろ、俺様はお前が作り出したもう一つの人格さ。」「もう、僕は大丈夫だから消えてくれないか。」雫は苦虫を噛んだような顔をして言った。「お前は、俺様がいないと何も出来ない弱虫だろ、俺様がいれば何も問題はないだろ。」


窓の外に降る雨の粒が窓に張り付く、そして粒が大きくなって流れて落ちる。その粒を見つめながら雫は悲しい顔をして狂を見た。


「分かったよ、消えるよ、達者で暮らせよ。」と言って漫画を放り投げて狂の姿が消えかかった。そして優しげに笑って「母さんを頼んだぞ。」と言って消えた。


狂の姿が消えてから雫は「ああ。」と答えた。


午前中に降り切った雨は午後には上がって雲の切れ間から太陽が光を放って顔をちょこっと出した。母は、父の位牌が置いてある畳の部屋の机の上で寝てしまっていた。雫は、小さくなったような気がする母の背中を優しくさすって母さんと小さく呟いた。


雫は、狂のいなくなった世界に一歩踏み出すように父の位牌に手を合わせてサヨナラと心の中で呟いた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

砂漠のグラウンド 転ぶ @Ken123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ