第15話

 夜遅くまで針を動かし、ドレスの本縫いを仕上げたラトは、翌日昼までベッドの中にいた。

 目が覚めると昼食の時間を過ぎた頃で、窓から差し込む陽光があまりに温かく面食う。

 慌てて飛び起き、着替えていると、部屋の外から誰かが大声を張っているようだった。

 この屋敷の使用人だろうかと考えたが、その声はずっと続いている。使用人だったなら、少ししたら誰かしら声の大きさに文句を言うだろう。だとすると、声を上げているのは別の人物のようだった。

 ラトは身支度を整え、恐る恐る部屋を出て、よりはっきり聞こえるようになった声の元へ向かう。


 ラトはエルテとは別の部屋であったが、客間を貸し与えられていた。ラトの身分からいったら十分過ぎるほど豪華な部屋で、与えられた当初はなかなか寝ることができなかった。しかし慣れとは恐ろしいもので、今ではすっかり落ち着いて柔らかな寝台に体を預け、熟睡できるまでになっていた。

 足音を忍ばせて、声を辿ると、玄関ホールの方から声がするようだ。

 声は女の金切り声。とても怒った様子で、それでいて不愉快な響き。まるでネズミの断末魔のような声だった。


「あなた何を言っているのか分かっているの!?」


 その声の主は、誰かと喧嘩でもしているのだろうか。

 その割に相手の声が聞こえない。声の主が一人でわめいているように聞こえた。

 丁度モップとバケツを両手に提げたメイドがいたので、ラトは潜めた声で尋ねる。


「おはようございます。何の騒ぎですか?」

「あら、もうお昼を過ぎていますよ」


 朗らかに笑うメイドに、ラトは思わず顔を真っ赤にした。自分にとっては起きたばかりだったから、つい朝の挨拶をしてしまったのだ。

 ひとしきり笑うと、メイドも声を潜めて教えてくれた。


「ミュラー商会の方がいらしているのですよ」

「え、ミュラー商会って確か」


 王国で東方との交易を一手に担う大商会だったはず。なぜここに。

 いや理由なら分かる。マリアンナの花嫁衣装だ。


「ええ、何度もマリアンナ様にドレスを売りつけにやってきている商会ですよ」


 どうやらラトとこの屋敷のメイドでは印象が異なるようだった。

 ラトも何度かミュラー商会が花嫁衣装のドレスを作ろうとしていると耳にしていたが、実際にマリアンナの元に通っていたようだ。

 熱心な営業活動とも言えるが、メイドの口ぶりからすると迷惑な様子だ。

 確かにマリアンナは失彩のエルテだからドレスを頼みたいと言っていた。ミュラー商会の針子に失彩の者がいなかったから、断っていたのだろう。


「あんなに騒いだら、買いたくも無くなりますよ」


 相変わらず耳に痛い金切り声が聞こえてくる。これが営業とはとても思えない。


「ですよね。何でも今日は絶対気に入るからって、濃紺のドレスを持ってきたんですよ。すでに刺繍までされてて。相談も無しに仕立てるなんて、ずうずうしいですよね」


 何でも貴族や商家の服は、依頼人の意向を伺い、相談しつつ仕立てる。貴族や商家がわざわざ針子に依頼する衣服というのは、よそ行きの服や舞踏会や夜会に着ていく服ばかりだから、よほど信頼している針子でないと安心して任せられない。

 出来合いのドレスを持ち込むなんて、まずあり得ない。


 しかしラトはメイドの言った濃紺のドレスというのが引っかかった。

 濃紺のドレスはおかしくないが、濃紺は王国の色。王国の公式行事では好んで纏われる色だった。

 そして何より、あの火事の時に奪われたドレスが濃紺だ。


 嫌な予感が頭を過ぎり、鼓動が途端に騒がしくなる。

 ラトは手短にメイドに礼を告げると、足早に玄関ホールを目指した。


 玄関ホールに近づくにつれ、金切り声は大きく、より耳を貫く。それでも何とか堪えて玄関ホールに辿り着くと、四人の人間が二人ずつに分かれて対峙していた。

 ラトが通ってきた廊下は、玄関ホールの玄関扉傍に通じていて、金切り声を上げているミュラー商会の者たちは玄関ホールの奥で騒いでいる。ラトが目にしたのは、ミュラー商会らしき二人の女の背中と、それと対峙するマリアンナとエルテの姿だった。

 玄関扉に向いて立っているマリアンナとエルテは、当然ラトの登場に気付いていたが、背中を向けているミュラー商会の二人は、気付かなかったようだ。


「だからどうしてこれを買わないの!? この私が縫ったっていうのに!」


 ミュラー商会の女が叫ぶ。

 天井の高い玄関ホールに声が反響して、余韻が残る。

 マリアンナはエルテが失彩だったから、エルテに頼んだのだ。それを知ってか知らずか、ミュラー商会の女には理解できないようだった。


「あなたの技術は素晴らしいと思うわ。でももう私はエルテに依頼しているの。だから今回は残念だったわね」


 マリアンナは冷静に告げる。

 その落ち着いた様子が、感情的になったミュラー商会の者とまるで違っていて、毅然と映る。


「その針子は失彩よ!」


 女はエルテを指さし、まるで切り札だと言わんばかりに声に自信といやらしさが込められていた。

 しかしマリアンナは動じない。


「それがどうしたの?」


 明らかに動揺する背中。


「どうしたって、魔女に呪われているのよ? そんな針子が縫ったドレスなんて不謹慎よ!」

「魔女ね。どんな魔女が彼女を呪ったかは知らないけど、彼女の腕は間違いないわね。だから依頼したのよ」

「何ですって、あなた失彩だと知っていて依頼したの!? なんて忌まわしいの……!」


 マリアンナは一息吐いた。


「失彩はこの国では魔女の呪いだけれど、隣国では違う言い方をしているってご存じ?」

「隣国ですって?」

「ええ。針子は糸と針を通して魂を縫い込む。だからその瞳が色を失うのは、魂が欠けたと言うそうよ」

「魂が欠ける? 不気味なのは変わりないわ。魂の欠けた不完全な人間が、どうして人の幸せを願った刺繍が出来るのよ」

「魂が欠けても、技は失われていないからよ。私はもうエルテに決めたわ。今更言われても変えないわ」


 マリアンナの決意は固い。それを察したらしいミュラー商会の女は、手にしていた濃紺のドレスを床にたたきつけた。

 その艶やかで品のある光沢、そして深みのある色。

 ラトには見覚えがあった。


 ふと、ミュラー商会のずっと黙り込んでいる一人の背中に目が留まる。さっきから金切り声を上げている女の付き人かと考えていたが、どこかで見覚えがあった。

 しかしどこで見ただろう。

 赤色の帽子に髪を詰め込み、同じ色のワンピースを着ている。その帽子とワンピースは同じ布を使われているのか、後ろ姿からも統一感があって収まりがいいと感じた。布も悪くない素材に見えた。

 貴族や裕福な商家では普段着として、ラトのような庶民にはよそ行きの服に使うちょっと良い布だ。


「あなた、王太子妃になるのよ? それなのにそんな不吉なこと! この王国がどうなっても良いって言うの!?」

「まさか。あり得ないわ。私は必ず幸せになるの。ならなければいけないわ。だからこそ、エルテのような腕の確かな針子に花嫁衣装を仕立ててもらうのよ」


 マリアンナは強い意思の宿る瞳でミュラー商会の女を見上げた。

 後ろ姿しか見えないラトにも、その女がとても怒っていて、肩で息をしているのが分かった。


「あなたは不幸になるわ。絶対に」

「エルテにドレスを縫ってもらうから?」

「ええ、そうよ! 魔女の呪いを侮ると痛い目を見るだけでは済まないわ!」

「まるで魔女の呪いを知っているかのようね。魔女も不思議よね。どうして瞳から色を奪うだけで満足なのかしら。どうせなら目を腐らせればいいのに」

「絶望させたいからよ!」


 より一層強く、女は叫んだ。


「やりたくてもやれない。できない事を突き付けて、絶望させる。それが魔女の呪いよ!」

「あなたは呪いだけでなく、魔女にも詳しいのね」

「そんなこと、どうだっていいわ。それにあなたがどう思おうと人々は魔女の呪いを恐れてる。その証拠にそいつの工房は燃やされたのよ!」

「誰に?」

「町の人によ!」

「それは違うわ」


 そこで初めて、マリアンナの横にいたエルテが口を開いた。

 その声に恐れや不安は無い。それにラトは安心した。


「確かに工房は燃やされた。でもあれは事故なのよ。町の人が私や魔女の呪いを恐れて火を放ったわけじゃ無い」

「あなたがそう信じたいだけでしょう?」

「そうかもしれないわね。でも私は町の人を恨んでいないわ。仕方の無いことだもの。私が何より怖いのは、ドレスを奪っておきながら、堂々と私の目の前に来た彼女のことね」

「え?」


 思わずラトは声を漏らした。

 ドレスを奪ったのはエルテの弟子であったカイヤだ。エルテはミュラー商会の女の付き人らしき女を見下ろしている。

 服は違うが、その後ろ姿、確かにラトの記憶にあるカイヤのものとよく似ていた。


「わ、私はそんなこと、していないわ」


 声を聞いて、ラトは確信した。口数の少ない少女だったが、この声は間違いなくカイヤのものだ。

 彼女はドレスを奪って、火の点いた薪を投げつけた後、ミュラー商会に向かったらしい。

 ドレスを奪ったのも、ミュラー商会に近づくためだったのだろうか。


「そんなことしたら、私はとっくに捕まっているでしょう?」


 カイヤの声は震えていた。それが不安からなのか、それとも緊張からなのか、ラトには分からない。


「私はドレスが奪われたと警備兵に言っていないもの。警備兵は知らないでしょうね。良かったじゃない」

「だから違う。違うわ!」

「どっちでもいいわ。これ以上ここで騒ぐなら、衛兵を呼ぶわよ」


 マリアンナが最終通告を突き付けた。貴族の屋敷で騒いだのなら、通りで騒ぐのとわけがちがう。牢屋に何日閉じ込められ、裁判でどんな判決が出されるものか。


「そう、ならいいわ。この国が傾くのを、私はじっくり見させてもらうわ。この時代に生きる者の特権ね!」


 ミュラー商会の女は先ほど床に叩き付けた濃紺のドレスを踏みつけ、忌々しげに靴の底をなすりつけた。

 あんな綺麗な布になんて事をとラトは信じられなかった。

 マリアンナと、それからエルテを睨み付け、女は踵を返し、足音荒く玄関扉に向かって突き進む。それに従うように良い服を着たカイヤも女を追う。玄関ホールの片隅で突っ立っているラトを目に留めると、彼女は親の敵でも見るかのように鋭い視線をぶつけた。

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