(25)想い

 診断の結果、内田はやはり風邪をひいていた。熱が九度近くあり、抗生物質と熱冷ましなどを貰って、家へと直行した。服を着替えさせた後で、内田の部屋を見舞った。


「申し訳ございません。私のせいで博貴にご迷惑をおかけしてしまって」


 入るなり、内田が熱っぽい声で言う。とりあえず机の椅子をとり、そこに腰掛けさせていただくことにした。


「ああ、別に気にすることないさ。それより、普通の風邪でよかったな。それも丁度、テストの最終日だったし」

「ええ。お陰様で、博貴に教えていただいた数学が無駄にならずに済みました」


 内田は私の方を向いてはいない。ただ、穏やかなその声を聴くだけで、少しは安心できる。


「それにしても、博貴は本当に御節介おせっかいが好きですね。頼みもしておりませんのに、私を病院まで連れて行ってくださるなんて」

「当たり前だろ。まあ、母からの血だな。でもまあ、こうしてゆっくりできるんだから、私にもよかったもんさ」

「全く、いつもと同じ調子なんですね」


 溜息ためいきを吐く。黒い雲が低く垂れこめており、屋根に雨が滴ってゆく。


「博貴、一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「ああ、って何か断って聞くようなことなんてあるか」

「ええ。知恵の塔での、ことです。知恵の塔で戦った相手はどなたでしたか」


 内田が、静かに寝返りを打つ。天井を見つめるような格好だ。それでもやはり、内田は私の方を見てはいない。


「影ではっきりと見えなかったが、長髪の女の子だった。多分、髪を大きなリボンでまとめてあったと思うんだが」

「そうですか。では、二条里はその人が」


 内田が声を詰まらせる。薄暗い部屋の中で、内田の少し紅潮した顔が映える。


「博貴、あの知恵の塔の技令で召喚された相手は、博貴にとって一番、大きな存在になる人です。敵か味方かは分かりませんが、お気を付けください」

「それは確かに、話があったな。まあ、内田じゃなかったから、ある意味では助かったんだが。そういや、内田は誰だったんだ」

「私の場合も影でしたが、おそらく」


 内田が、こちらを向く。


「博貴だったのではないかと思います」


 一瞬、鼓動が聞こえた。誰のものかは分からない。ただ、目の前にいる彼女は目をうるませながらこちらを見ている。それだけは、歴然たる事実であった。


「知恵の塔の難しさは知っていましたが、あの時は本当に異様でした。五大技令を含む様々な技令を操る敵を相手した話など、聞いたことありませんでしたから」

「愚問だと思うんだが、勝ったんだよな」

「いえ。勝ったのではなく、勝たせていただいたというのが正直なところです。私が手にした力を制御できるようになった途端、その影は光の中に消えてゆきました。本来は勝つことが条件だったのですが、消えた以上、それが勝利として認められただけです。本来、影に意志はありませんが、最後に私に向かって微笑んでいました」


 話を聞きながら、少しだけ、影の気持ちが分かるような気がした。確かに、私もあの場所で挑戦者を迎える立場であれば、その『成長』を見届けた時点で、自爆するに違いない。少なくとも、あの場所が試験である以上、私にはそれ以上の意味はないのである。


「思えば、直接戦った後も、博貴は穏やかに微笑むだけでしたね」

「ま、怒ったところで仕方ないし、そもそも、戦うのは好きじゃないからな。仲良くできたら、それが一番だろ」

「ええ、それが博貴でしたね」


 夕方の鐘の音が、街を包む。静かに揺れる時が美しく、そして、たまらなく切なかった。


「そういや、腹減ってないか。何でも好きなものを作ってやるよ」


 私の問いかけに、内田は少しだけ目を泳がせると、静かに言った。


「今はまだ、大丈夫です。それよりも、もう暫く、一緒にいていただけませんか。我儘わがままとは存じておりますが、この夕だけは」


 内田が、私を見詰める。


「貴方と、一緒にいたい」




 夕食後、内田が眠れるように睡眠技令をかけた後で、一人、部屋のベッドに寝転がった。


「博貴だったのではないかと思います」


 先程から、内田の言葉が耳について離れない。どう考えても、私の中では自分が大きな存在であるというイメージはない。よく言われるが、英雄という言葉は私の頭の中には全く存在しない。むしろ、平凡に生きて病院のベッドの上で磔のまま死ぬのだろうというイメージしかない。その中で、


「英雄の技令」


と言われても、いまいち、ピンと来ないのである。

 窓の外に目をやると、長らく続いた雨はやっと降り止んだようであり、それでも、月も星もないところを見ると、雲がまだ夜空に君臨しているのだろう。やはり、少しだけ肌寒い。

 それにしても、である。最早急転する展開には慣れてしまったのか、状況を従容と受け入れつつある自分が恐ろしい。まあ、実際には惰性に流されているだけのような気がしないでもないが。ただ、未だ見たことのないレデトール星人の刺客に襲われるかもしれないという情報を耳にしても、驚きはしても、その次に考えたことは勝てるかどうかだった。存在しないとされるものを、否定することがなくなった。この変化は明らかに大きい。

 正直なところ、非現実が現実感になってしまっている。まあ、今までの生活を考えれば、家族以外の異性とこうして何気なく話していること自体が非現実ではある。ただ、そのような冗談で済む話ではなく、今の非現実は現実の『裏』としての非現実である。これが現実になった以上、天と地が引っくり返ろうと、何も違和感はないだろう。

 少し、頭をく。

 明日は内田の様子を見ながら図書室で仕事をしようなどという現実に目を向ける。

 その時、冷たい空気が脳裏を過った。

 一瞬で、微睡の中から覚醒し、ベッドより飛び起きる。頭より先に身体が反応し、ベッドの下に隠してある靴を取り出す。幸いなことに、病気の内田は技令のおかげで目を覚まさないであろう。窓を開け、空き家となっている隣の家のひさしに乗る。あとは、駆けるだけ。技令の感じられた方向は中学校。闇夜に紛れ、濡れたアスファルトに舞った。

 いつもの登校では少しきつい階段も上り坂も、この瞬間だけは何も感じない。それだけに、集中して駆け上がる。何かが起きる前でなければならない。その思いだけを胸に、二分ほどで中学校の校門を飛び越えた。

 刹那せつな、校庭が紫の霧に覆われた。

「くそっ、祭壇技令か」

 身体に重圧がかかる。明らかに、規模が大きい。それだけに威力が弱いのか、すぐに技力が空になるようなことはなかったが、それでも、少しずつ、技力が抜かれてゆくのが分かる。


「まさか、一人で来るとは思いませんでした」


 時計台の方より声がする。その方をにらみつけると、少女の影。技令の霧によって色彩が種々に変化しているため、明瞭めいりょうに見ることができない。


「光よ、暗き闇夜のしるべとなれ。三光」


 光属性の技令で闇夜を照らしあげる。その時、私の頭上に氷塊ひょうかいが襲いかかろうとしていた。


「不死鳥の饗宴きょうえん

 炎の技令で、砕く。無数の氷が粉雪の如く舞い降り、その中心で、少女は不敵に笑っていた。


「あら、祭壇技令の中で二つも同時に技令を放つことができるなんて。さすがの技令素養ですね」

「な、川澄若菜か」

「ええ。この場所で、二条里君と内田さんが来るのを待っていました。内田さんはいらっしゃらなかったようですが」


 冷ややかな目が大地に注がれる。そうこうしている間にも、私の方は技令を吸われ、精神がおかされてゆく。


「目的はなんだ」

「もちろん、貴方方を倒すためです。今のうちに倒さなければ、貴方は必ず私にとっての癌になる」


 言うなり、川澄の詠唱えいしょうに合わせて複数の冷気が放たれる。かわしている余裕などない。イメージをそのまま言葉にする。


「円陣」


 吹雪を光の壁がさえぎる。しかし、祭壇の影響だけはかわしようがない。体にかかる負荷は大きくなるばかり。それでも、跳躍ちょうやくし、距離を詰める。


「清き風よ、わが身を包み、天空へと導け。清風」


 川澄と同じ、屋上という地平に立つ。思えば、技令士と直接に対決するのは、内田以来、初めてである。少しだけ、足が震える。それでも、目だけは前を見据える。


「いつまでも、天上から人を見ていられると思うなよ」

「くっ。ですが、ここに来たとはいっても、貴方の技力は相当に消耗している。貴方に勝ち目はありません」


 事実は確かに、重くし掛かる。それでも、私は司書の剣を抜いた。


「技令を貫くとされる司書の剣ですか。ですが、こちらも武器であれば負けません」


 小文字のワイを髣髴ほうふつとさせる川澄の杖は、その三叉さんさの部分に紫の球がめられている。そこからは、おびただしい技力が放たれており、それだけで、結界を形成していた。


「三界の杖。この世とあの世を一つ、祭壇技令にまとめ上げる杖です」


 川澄が杖を振るう。それだけで、足下に技令陣が形成され、祭壇が放たれる。


「私には、祭壇の形成に場所も時間も必要ありません。必要なものは、標的だけです」


 饒舌じょうぜつの合間に、祭壇を抜ける。既に、眩暈めまいが生じるほど、技力を消耗している。それでも、頭脳だけは頑健がんけんに働いてくれた。


「貴方から、全てを奪い尽くします。全てを奪い尽くして、身体を溶かして、そして、取り返す」

「内田さんも同じ。全てを奪い尽くして、取り返します」


 ふと、漏れた川澄の声。冬の漆黒に一抹の闇。その時、一つだけ気づかされた。


 彼女は優等生なのだ。

 思えば、テストの成績で一年の半ばまで一位を入れ替わっていたのは、山ノ井とこの川澄であった。それが、今では科目ごとでも、争うことはない。特に気にすることはなかったが、それはあくまでも『勝者』の印象でしかない。川澄はもしかすると。


「悔しいのか、負けて」


 瞬間に、技令が爆発する。怒涛どとうごとく川澄から技令が放たれ、次々と私の体をむしばむ。逆鱗げきりんに触れた。幼い、逆鱗げきりんに触れた。川澄の長い黒髪が放出される技令によって逆立さかだつ。紫の光に照らされた白い肌は、わずかに紅潮している。


「貴方なんかに、二条里君なんかに、私の気持ちは」


 猛烈もうれつな冷気が身体を押さえつける。圧倒的な技力が私の心を押さえつける。氷と祭壇という二重の鎖が、私という存在をいましめる。


「貴方達がいなければ、私は揺るがない。それに、技令でも私が一番だった。それを、貴方や内田さんに奪われるわけにはいかないんです。私も努力をしています。それを、易々と抜かれるわけにはいかないんです」


 祭壇の戒めは、私の技力を無限に吸う。魂の一滴までをも奪い尽くすかのように、吸う。躊躇ためらっている暇はない。今はただ、この祭壇との間に作る壁をイメージする。


「貴方を倒せば、次は内田さんです。貴方が倒れたことに気づけば、すぐにでも駆けつける。そこを、貴方から奪った技力で」


 脳裏に、彼女の姿が浮かぶ。少なくとも、戦えるような状況ではない。そうである以上、私は彼女を守らなければならない。

 彼女を受け入れた、彼女の家族の一人として。


「光も、闇も、混沌こんとんなる時の中へ。タイム・シェイカー」


 詠唱えいしょう、ともに、展開。自分の周囲に時間の隔絶された壁を作り、祭壇技令を隔絶する。脳髄のうずいが刺すように痛い。それでも、そのような些細ささいなことよりも、目の前に集中する。


「そんな、二条里君の技令は陽。陣形技令のはず」

「技令素養の違い、らしいな。だが、関係ない」


 二歩、間合いを詰める。


「苦労しているのが、自分だけだと思うな。誰しもが、運命に翻弄ほんろうされながらも、前を向いて生きてるんだ。それを、他人を消すことで逃げるなど、言語道断」

翻弄ほんろうしたのは誰だと言うのですか」

「じゃあ、お前は、翻弄ほんろうする人間をことごとく殺していくつもりか」


 意識を集中させる。前方から、もう一つの技令の気配がゆっくりと近づきつつあるのが感じられる。急がなければならない。


「かの者を生贄いけにえに、全てのものを奪い尽くせ、祭壇」


 川澄の詠唱とともに、さらに祭壇技令が発動する。先程より強力な技令。だが、時間の隔絶された殻の中にある以上、そのような祈念きねんが届くはずもない。踏み込み、一閃の下に斬る。川澄の周囲を覆っていた技令の膜がはじける。


「そんな、一太刀で」

「かの者を取り囲みその動きを封じよ。円陣」


 川澄を光陣で取り囲んだ。緑色の屋上に黄白色の光が静かに広がる。


「詰みだ。これ以上、無為むいに戦いを進めると言うのなら、この光陣を発動する」


 私が告げると、川澄はその場に座り込んだ。息が荒い。元々、五大技令は使用後の技令消費が激しい。それをあれだけ展開したのである。体力も精神も限界に近いのだろう。


「今日のところは、負けを認めます。しかし、一つだけ聞きます。なぜ、二条里君は急に、技力が増幅したのですか」

「さあな。ただ、私はこんな馬鹿馬鹿しい戦いをする気もなければさせる気もなかった。それに、今日は家族として内田を戦わせるわけにはいかなかったからな」

「たった、それだけの理由で」


 川澄が微かに震える。怒りによるものなのか、屈辱くつじょくによるものなのか、はたまた、単に寒さによるものなのか。いずれかは分からないが、わずかなうつむきの後、決然と、私を見据えた。


「覚悟しておいてください。私は貴方をこれからも狙う。必ず、二条里君を台座から引きり下ろす」

「来るなら来るで仕方ないが、私は戦いが嫌いだ。どうせなら、もうちょっと別の形で話ができるといいんだけどな」


 私のこの一言に、川澄の表情が変わる。思い返せば、二か月前、これと同じ表情を見た覚えがある。あの時は彼女の説得に成功したのであるが、今回ばかりはそう上手くもいきそうにない。


「いいでしょう、二条里君からの挑戦状と受け取りました。せいぜい、夜道に気をつけなさい」


 川澄はそう言うと私に背を向け、そのまま校庭へと飛び降りた。冷気を伴った風が後に残る。その後に、私も続いた。

 校門に一つの影が揺れる。


「博貴、ご無事、でしたか」


 内田が息も切れ切れ、司書の剣を杖に私の方へ歩んでくる。時雨が止んだとはいえ、内田は病んでいる。この冷ややかさは身体に堪えるだろう。事実、内田は震えていた。


「技令の、気配がしたので、急いで、駆けつけたの、です、が、何が、あったのですか」

「馬鹿野郎。そんなことを気にしてる場合か。立ってるのがやっとじゃないか。熱が九度近くあって、何してんだ」

「しかし、博貴だけでは」


 内田の足元は明らかに覚束おぼつかない。それもそうである。睡眠技令から体を叩き起こし、高熱の体を引き摺って来たのである。もう、限界に近いことは明らかであった。視線も、どこかつややかであった。


「とりあえず、これを羽織はおっとけ」


 寝間着姿の内田に上着を被せる。正直、これを脱ぐと半袖一枚になるのだが、そのようなことを気にしている段ではない。あとは、内田に背を向けて蹲るだけである。


「内田、おぶされ。もう、歩くのも限界だろ」

「博貴、そのような必要は」

「いいからおぶされ。体力の七割以上を消耗しているのは分かってるんだ。もう、立ってるのも限界なんだろ」


 拒否する内田だが、その声はか細い。弱い。その衰弱した内田は何だかんだで静かに、私に体を預けてくれた。驚くほど軽い。いつもは大きい彼女の存在が、とても小さく感じられた。


「申し訳ございません、博貴。このような形で、ご迷惑をおかけして。重たいでしょう」

「そんなことないぞ。むしろ、ちゃんと飯を食ってるのか心配になるほど軽いぞ。って、まあ、私が作ってるからその心配はないがな」


 階段を下りながら夜空を仰ぐ。斑目に広がる雲が薄気味悪く微笑ほほえんでいる。ただ、それ以上に気にかかったのは、悲しくも、内田の息であった。元々から女子に抵抗がないにもかかわらず、この『惨状』である。


「では、あの川澄さんに勝負を挑まれたのですね」

「ああ。何とか勝ちはしたんだが、祭壇技令で中々に厳しい戦いだったな。って、内田は知ってたのか、川澄が技令士だってことに」

「ええ。隠していても分かります。ただ、祭壇技令は先程お話しいただいた、三界の杖の影響によるものでしょう。次に戦われる場合には、その技力を奪うようにしてください」


 内田は平然と言うが、そのような方法を知っているのであれば、教えてほしいものである。ただ、そのような突込みができるような状況にないのが今の内田である。彼女の全身が、吐息といきが熱い。


「博貴、西の方を、ご覧ください」

「ん、何かあったか」


 内田の言葉に西の方を向くと、そこには、雲のわずかな合間から上弦の月が穏やかに光をたたえていた。


「ああ、半月か。時雨明けの夜空も綺麗なもんだな」

「ええ。今日は、色々と、ありましたが、博貴のおかげで、幸せでした」

「風邪ひいて幸せはないだろ」

「いえ。こうして誰かに甘えることができたのは久しぶりですから」


 心臓が強く脈打つ。色々とあてられた感じだ。月がより鮮明に光を放つ。色せた風景がいろどりりの街に転じた感じだ。


「ま、まあ、甘えたかったら、甘えればいいじゃないか。内田の周りは優しい人間が多いからな」

「ええ。また、博貴に甘えさせていただくかもしれません」


 初冬の張りつめようとしながらも、どこか緩んだ空気が私と内田の周りに漂う。そうした中で、二人、家に着いた。

 終夜、私は目がえて眠ることができなかった。あけぼの微睡まどろみの中、私は知恵の塔で戦った少女の夢を見た。

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