第三章 決死

(22)防塁

 平安と敵意とは同居する感情であるらしい。


 あの朝以来、図書室に行くのが少しだけ億劫おっくうになり、それでも、行きたいという感情だけは立派に肥大化していつもと同じように通っていた。会話も行動もいつもと変わらない。ただ、感情だけは変えるなという方が無理である。


「特別なことは何もありません。敵意も何もない存在でしたら、いつものように過ごせばよいのです」


 内田は言う。しかし、私はいつものように振る舞うことはできても、いつものように過ごすことはできなかった。




 そうこうするうちに、十月も終わりを告げ、晩秋の色づきが町の随所で見られるようになった。山ノ井の宣告通りに修学旅行は二月に変更となり、生徒の間からは相当な非難が巻き起こった。私などは中止にならなかっただけましであると思うのであるが、必死に準備を重ねてきた方々には耐えがたいものであったのだろう。それでも、発表から半月以上が過ぎた今では、何事もなかったかのように、再び準備に没頭している。

 衣替えも終わり、校内は黒と褐色の二色で彩られるようになった。ある意味では枯れの境地であるのかもしれない。


「博貴、感傷に浸られるのもよろしいですが、手が止まっていますよ」


 ここのところ、何かと気がかりが多いようで、内田からこのような注意を受けるようになっていた。確かに、カウンターの上には、修理を待ちわびている古い本が横たわっている。


「悪い、内田。ちょっと、考え事をしててな」


 内田が溜息ためいきく。褐色かっしょくの制服が、彼女にもよく馴染なじむようになっていた。身長が私とほとんど変わらない内田がこの制服を身にまとうと、少し、威圧感が生じる。そのせいか、それとも、飽きが来たのかは知らないが、この頃は内田に対する男子の熱狂はやや冷めようとしていた。それでも、内田に対する熱烈な『ファン』も多数いるようであり、内田の休日の予定などをしきりに聞いてくる。


「お前も可哀相かわいそうだよな。内田がいくら可愛くても、親戚しんせきじゃ手を出せねぇもんな」


 以上、よく言われることである。結局、校内では親戚であった内田をある事情で私の親が引き取り、一緒に暮らすようになったということになっている。事実は異なるのであるが、自分の有利になる情報は信じたかったらしく、すんなりと受け入れられた。それに、一緒にいる時間こそ長いものの、内田に対して特別な感情を抱いていないであろうと考えられている私に対する敵意も減っていた。そのためか、逆に内田のことに関して様々な相談を受ける身分となり、図書館改装の準備で忙しい中、貴重な時間を吸い上げられることが多くなった。


「な、俺の言ったとおりだったろ」


 渡会が笑いながら言っていたが、確かに、渡会の言は現実となってしまった。ついでに言えば、これを契機に方々の男子からこの手の相談を受けるようになってしまい、気の休まる暇がなかった。今では、学年の男子の恋愛感情に関しておおよそ掌握しょうあくしてしまっている。我ながら、恐ろしい状況となった。

 そのため、図書室で本の修理をしているときなどが唯一、気の休まる瞬間となってしまい、ほうける時間が長くなってしまっていた。

 少し、深く息を吸ってから行動を始める。手は作業をしているのだが、頭の中には成案となっている本の移動手順を反芻はんすうしている。来週の半ばより二学期の期末試験が行われるが、それが終われば、いよいよ本の移動が開始される。それまでに、おかしな点がないかや開架との不都合がないかなどを洗い出すのである。そのために、頭の中で何度も専門部員を動かし、衝突が起きないかを確認する。


「二条里君、明日から図書室の閉館が始まりますが、問題はなかったですか」


 山ノ井が確認する。山ノ井も私と水上の成案を見て同じ作業を繰り返している。


「問題は先週末の会議で挙げたので最後だったようだから、大丈夫だと思う。ただ、何かあるといけないから、期末試験の間も少し、検討しよう」

「そうですね。では、この件は二条里君に一任しますので、お願いします」

「ああ。山ノ井も委員会の関係があるだろうから、頑張れよ」


 山ノ井が微笑む。山ノ井も別件で少しだけ苦しんでいた。各専門部は代表を出して生徒会の会議に参加する必要があるのだが、その次期代表は山ノ井で行くことになっていた。辻杜先生の一存であるのだが、生徒会との折衝せっしょうを考えれば、適材である。そして、仕事の増える山ノ井は、その前に種々の仕事の引き継ぎを行っており、多忙であった。まあ、見た目が変わらないのが彼のすごいところであるが。

 窓から中をうかが黄葉こうようした木が、少し寂しそうにしている。隣に来ている冬にその目はもう向いていた。

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