(18)お上り

 翌朝、五時半起床。早起きして料理をしなければ朝食も昼食もない以上、この時間に起きるのが習慣になっているのだが、悲しいことにその習慣が休日にも出てしまった。しかも、今日は祭りに繰り出すのである。軍資金もそこそこにあった。

 昨晩、内田を連れてくんちに行く旨を母親に話したところ、


「あんた一人ならともかく、水無香ちゃんも一緒なら小遣いばやらんばね」


と、十人の夏目漱石を渡してくれた。日頃、小遣いといえば月千円しかない身からすれば信じることのできないような大枚であり、思わず、手が震えてしまった。それ以上に、日頃は安易に金を出そうとしない倹約家の母が金を出してくれたのは、喜び以上に大きな寂しさと切なさを感じざるを得なかった。

 いつものように味噌汁を作り、玉子焼きをこしらえる。後は、昨日のうちにつけておいた胡瓜の浅漬けを切り出して並べる。七時を回る頃、内田が起きだしてきた。


「おはようございます、博貴」


 朝から一分の隙もない、と言いたいところであるが、少しだけ寝ぼけているのか、スリッパが左右で異なってしまっている。表情はいつもと同じなのであるが、それだけに、おかしい。とはいえ、それを指摘できるだけの勇気を残念ながら持ってはいなかった。


「お母さんは、どうされたのですか」

「もう、仕事に出てる。今日は朝から会議らしくて、五時半のバスで出勤したらしい。起きたときにはもういなかったよ」

「それで、今日は博貴が朝食を作られてるのですね」

「いや、普段から自分で作るんだ。その代わり、母さんは夕食を作ってくれる。姉が飛び出してからはそういうことになってるんだ」


 そうこうしている内に、炊飯器の音が鳴る。白い湯気と共に白米の持つ甘い香りがキッチンの中に立ち込め、穏やかな気分が広がってゆく。


「まあ、料理自体は好きだからいいんだけどな。掃除や洗濯は母さんが休みの日にしてくれるし」


 さすがに、私の部屋の掃除はさせないが、それ以外は母が家中を掃除してしまう。私のやることといえば、料理と風呂の用意ぐらいであろう。


「とりあえずできたから食べよう。今日の味噌汁は赤味噌に絹ごし豆腐と三つ葉を入れてみた。あと、出し巻きと胡瓜の浅漬けなんだが、他に何かいるか。ああ、ほうれん草のお浸しもつく」

「いえ。それだけいただければ十分です。朝から一汁三菜が揃うことはあまりありませんから。博貴も、よく作られましたね」


 内田がむしろ、少し呆れたような口調で言う。だが、今日は弁当を作らずに済んでしまったため、手持ち無沙汰になり、夕食の下ごしらえまでしてしまっている。そのため、今晩はかしわの炊き込みご飯になるのだが、さすがにそれは内田には黙っておいた。

 内田と向かい合って食卓に着く。朝から内田は、背筋を伸ばして優雅に食べる。ただ、スリッパについては最後まで気付かずじまいであった。




 朝十時すぎ、私と内田は二人で市民会館の前に立っていた。昨日、十時半にここで待ち合わせの約束をしたのだが、早めに着いてしまったのである。今日はおのぼりと呼ばれる最終日に当たるため、庭先にわさきまわりをあまり見ることができない。そこで、渡会の提案に従って諏訪神社の付近で戻ってくる御神体を乗せた神輿と奉納踊りを見物しようということになったのだが、その際に都合のよい市民会館で待ち合わせとなったのであった。


「少々、早すぎたようですね」


 内田が、時計に目をやる。少しどころではなく、あと二十分近くあるのだ、まだ気にするような時間ではない。それよりも気にかかったのは、こうして並んで立っていて感じた違和感である。


「そういえば内田さ、身長何センチあるんだ。なんか、普通に高い気がするんだが」

「一六五センチです。博貴より五センチ低いですよ」


 さらりと内田は答えたが、無論、内田に私の身長を教えたことはない。さすがの目算能力ではあるが、この場合、問題はそこではない。一六五センチであれば、女子では十分に高いほうである。むしろ、山ノ井よりも七センチは高い。通りで、内田と山ノ井が並んでいると違和感を感じたはずである。

 その時、風に落ち葉が舞った。


「内田、なんか、変な感じがするんだが」

「ええ。技令の力を感じます。博貴も分かりますか」

「技令なのかは経験したことがないから分からないが、違和感というか、見られているというか、冷たい風を受けているというか、なんか、とりあえず、そんな感じがするんだ」

「それが技令の気配というものです。一瞬だけ、弱い力ですが、明らかにありました」


 走る緊迫の中で、意識を集中させる。ただ、殺気のようなものはない。単純に、技令が存在していたというだけであった。


「博貴、また夜にでも来る必要がありそうですね」

「マジか。でも、確かに図書館の方から感じられたことしか分からないなら、必要なんだろうな」

「えっ、博貴は方向が分かったのですか」

「ああ。内田も分かったんだろ」

「いえ、私は感じただけにすぎません。やはり、博貴は司書になってから、特に、知恵の塔を越えられてからは、技令の力が飛躍的に増しているようですね」


 内田が私のほうを見据える。そこには、冷徹な分析を行う意思が籠められていた。


「元々、素養は博貴の方があったのです。驚くことではありませんよ。ですが、それでしたら、早く知識を得ていってください」


 内田は負けず嫌いである。しかし、今、私を見る目はどこか優しい。恐らく、覚悟していたのだろう。司書になってしまえば、私が彼女を抜いてしまうであろうことを。無論、私には全く実感がない。ただ、内田の言葉と目が、それを雄弁に物語っていた。


「ですが、私も負けはしません。まだ、大きな差ではありませんから」

「実感はないんだよな。技令が使える相手なんか分からないし、相手の技力も分からない」

「ええ、それが経験の差です。それまで半月でお株を奪われてしまうようでしたら、私の立場がありませんから」


 そう言うと、内田はまた時計に目をやった。


「もうすぐ、時間ですね」


 まだ、待ち合わせの時間までは十五分ある。彼女の目はいつになく、穏やかであった。




 それから十分ほどして山ノ井が到着し、その後に渡会と水上が続いた。いつもであれば、時間にルーズな渡会であったが、くんちで居ても立ってもいられず、早めに到着したそうである。


 電車を横目に、五人で固まって歩く。山ノ井と内田が前を行き、水上が眠そうに歩くのを、私と渡会とで後ろから眺めている。秋だというのに、今日は少し汗ばむような陽気だ。


「そういや二条里、今、内田と暮らしてんだろ」


 そんな中で放たれた、渡会の不意打ちに思わず私は動揺してしまった。


「ま、何か事情があったんだろうけどよ、お前もつくづく敵を作りやすい人生を送ってんな。とりあえず、実は親戚だったとか何だとか考えてた方がいいぜ。俺は二条里に『その気』がねぇこと知ってっからいいけどよ、知らねぇ奴も多いからよ、勘違いされたら終わりだぜ」


 渡会の忠告が痛いほど身に沁みる。私も決して望んだことではないのだ。それを従容しょうようとして受け入れ続けてしまった結果が、ある意味ではこの状況なのである。


「でもよ、これから二条里は完全に相談役になるぜ。これからは、そっちの方の覚悟をしとけよ」


 渡会が、よく分からない事を言う。笑いながら言っている以上、冗談なのかもしれないが、どうにもきちんとした理由があるような感じがする。

 それにしても、と思う。なぜ周りはこれ程までに性に執着するのであろうかと思う。女の子も、一人の人間でしかない。少なくとも、他に情熱を燃やすべき対象は多いのではないだろうか。武人のように、精神的に堕落するなどとは思わないが、他にも楽しいことは山のようにあるのだ。力の方向を少し変えてもいいのではないだろうか。ある意味では現代病の一つなのかもしれない。


「にしても、二条里が相談役になりゃ、クラス中の情報と弱みが集まるよな」

「まあ、相談されたことを使うほど、私も頭はよくないですよ」

「よく言うぜ。あーあ、俺なら色々と引っ掻き回すんだけどよ」


 残念そうな渡会に比べれば、私の呆れ具合は差ほどではないようである。

 そうこうしている内に、諏訪神社の鳥居の前に辿り着く。鎮西大社がこの三日だけはもぬけの殻となり、その代わりに人がそれを埋め尽くしている。


「内田さん、あれが長崎くんちの舞台となります、諏訪神社です」


 山ノ井の一言を聞きながら、内田は鳥居の向こうを眺めている。表情を作らず、ただ真直ぐに見据えている。傍から見れば無表情なのだろうが、私からすれば内田はそれなりに楽しんでいるように見えた。山ノ井もそれを敏感に感じ取っているのだろう。微笑みを湛えた顔で、様々なことを説明していた。

 しかし、私はそれよりも先ほどからずっと『例の』違和感を感じずにはいられなかった。先ほどよりも、さらに弱い感覚なのであるが、やはり、県立図書館の方から視線のようなものを感じる。表情から察して、内田は特に感じていないようであるが、私には付きまとわれている感覚がこべりついている。

 おのぼりが始まる。神輿も、御神体も、シャギリも、踊りも、何もかもが違和感で支配される。一連の祭りが、私には少しだけハレの場からは遠いように感じられた。




 『おのぼり』を堪能した後、私達は大波止の方へと繰り出した。諏訪神社の方では祭りを楽しんだが、これからは出店を楽しむ番である。むしろ、こちらの方がメインであるという子が多いようで、同じような背格好をした一団があちらこちらで見受けられた。少なくとも、悪趣味を伴った黄色の化け物に身を包んだ女子中学生だか女子高校生だかは、シャギリの音では何も感じないであろう。


「博貴、すごい人出ですね」


 内田が既に目を回しそうになっている。休みとなっている学校があるためか、この時間帯にもかかわらず、とにかく人が多い。歩くのがやっとという現状である。それでも辛うじて進めるのは、少し大柄である渡会を先頭にしているためであり、彼の通った後の空間を潜り抜けているためであった。


「とりあえず、何か食おうぜ」


 渡会の提案に従って、とりあえずははし巻きを五本買う。内田は予想のとおり、見たことも無いのか食べるのに苦戦していたが、それでも、口の周りをほとんど汚さずに食べきっていた。その後は、色々な出店を冷やかしに行った。特に、金魚すくいでは想像のとおり、内田は一匹もすくえず、少しだけ悔しそうに水槽を眺めていた。店のおじさんが金魚を渡そうとすると、


「いえ。この子達はこの中で遊ばせていた方が活き活きとしていますから」


と、受け取ることはなかった。酸素欠乏で口をしきりに開閉している金魚を見て活き活きしているも何もないと思うのであるが、そのようなことはおくびにも出さず、後にした。

 一方、ヨーヨーすくいは内田の面目躍如の種目となった。他の面々が取れない、または、一個が限界であったのに対し、内田は恐るべき集中力を発揮し、十二個という的屋のおじさんが泣いてしまいそうな記録を達成した。この数のヨーヨーをどうするつもりなのかと思っていたところ、内田は近くにいた子供たちにそれを全て配ってしまった。

 夕刻、私達は解散した。朝から立ち続けで疲れてしまっており、水上などはさっさとバスに乗って帰っていってしまった。それでも、私は内田と二人でゆっくりと歩きながら帰途へとつくことにした。港町の秋風は余程寂しいものである。


「それにしても、博貴は意外と不器用なんですね」


 内田の言いたい事も分かる。金魚すくいでは金魚に笑われ、ヨーヨーからは逃げられ、射的では運命の女神から見事に見放された。当たりもしない。かすりもしない。寂しく、マイナス三十度の世界などという冷温車を堪能したほどである。こういう、的屋の遊びというものはどうも昔から苦手であり、仕方のないことでもある。


「悪かったな、不器用で」


 冗談ながらも悪態をつく。しかし、器用な自分を想像するなどどうしてもできないのである。逆に言えば、器用になってしまえば、自分は自分でなくなってしまうような危惧さえあった。


「でも、今日は楽しかったな」

「ええ。皆さんが優しくしてくださったおかげで、楽しいひと時を過ごさせていただきました」


 確かに、他の面々も内田に優しく接してくれた。山ノ井は色々と内田に話題を提供してくれ、長崎の話を教えていた。渡会は色々と配慮してくれて、何気ないところで段差や危険な場所を優しく避けるように誘導していた。水上も、何だかんだで手渡したり、持ってあげたりしてあげていた。


「図書部の面々は何だかんだで優しいからな。過激派だが、そのあたりでバランスが取れてるんだろう」

「ええ。それと、辻杜先生の意志によるのでしょう」


 煌々と揺らめくネオンが、夕闇を侵している。その中で、私達は静かに頷いた。


「さてと、行くか」

「ええ、そうですね」

「県立図書館へ」


 日常は、ここまでである。ここからは『日常』へと向かわなければならない。

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