(9)安寧への隷属

 それから後は、大変な事この上なかった。ひとまずは生命の危機を脱したものの、後に残ったのは眠れる少女であった。彼女を残して去る事などできるわけもなく、必死の思いで、近くのさびれた神社に連れ込むのが精一杯である。そのため、廃屋はいおくで一息をつくと同時に、私はそのまま倒れ込んだ。

 ただ、私がそのまま眠りにくことはなかった。らぬ興奮が心の奥底にともり、拍動が力強く時を刻んでいる。


天帝てんてい封玉ほうぎょく、封印解除」


 例の言葉を反芻はんすうする。周囲に変化はない。虚構きょこうのような現実がこの世界を支配し、抽象が具象となる。そういった時を、つい先ほどまで体験していたのである。背筋が凍るのは容易なことであった。空想であればという甘い考えなど通用せず、ただただ、受けに甘んじなければならなかった。

 風の中にやや冷ややかさが混じる。月の嘲笑ちょうしょうが心を覆う。吐く息、吐く息が熱く、吸う息、吸う息が痛い。まさに、現実の乖離かいりが私をいましめる縄となって襲いかかっていた。

 少女は目を覚ます気配もない。安らかな寝息だけが、この現実を否定してくれる。


「英雄の、技令」


 だが、この少女もまた私に対して一つのいましめを与えていた。そこに顕在けんざいする英雄という言葉に、私は震える。恐怖と同時に、それとはあいれない何かが脳内を支配する。「英雄」という言葉の裏に隠された本意を考えると、胸中きょうちゅう喧騒けんそうは止まるところを知らなかった。


「それが、お前がこの世に生まれてきた意義だ」


 その時、あの特有の、鼻にかかった声がやしろを包み込んだ。


「何のことはない。普通の人間が自らの進路を決めるようなものだ」


 葉を踏みしめる音が少しずつ近付いてくる。否定と拒絶が脳内で交錯こうさくする。


「ただ、それが普通のものと違うのは」


 林の奥から一つの影が現れた。


「天より与えられた使命だということだ」


 絶句、する。現実の崩壊が目の前で極大化する。今まで信じてきた日常など、所詮しょせんは夢でしかない。そう、辻杜先生の影は告げていた。


「言葉が出んのか」


 先生は、いつもよりもやや優しげな目で私を見つめてくる。しかし、その手に握られたものは明らかに異質なものであり、岩波とも異なる気を放出していた。緊張が走る。身体は全く動かない。ただ、一つの現実だけを見据え、私は口を開いた。


「敵ならば」

「止めておけ。今のお前では、万に一つの勝ち目も無い。それに、俺はお前たちの味方だ」


 そう言うと、辻杜先生はその場で足を止め、内田の方をうかがった。まだ、意識はない。それを確認すると、辻杜先生は再び私の方に目を向けた。


「まあ、この様子ならそのうち回復するな。とりあえず、放っておいても大丈夫だろう。さて、何から話すか。本当であれば、技令と体則の説明からすべきなんだろうが、その必要はないようだな。それよりも、あの背脂が何者かを話す方が先決だろう」


 背脂、と聞いた瞬間に緊張感から解放される。辻杜先生も、よほどあの岩波先生が嫌いだったのか、憎々にくにくしげな様子で発音している。そこに、どこか日常との繋がりを感じると、私も素直に質問した。


「ええ。とりあえず、人間とは思えませんでしたが、何者なんですか。宇宙人とかモンスターとかであれば話は早いんですけど」

「あながち間違えでもないんだが、残念ながら、奴はきちんとした人間だ。ただ、技令の力で体組織を変化させ、巨体化し、事実上のモンスターに変化したんだ」

「あれも、技令なんですか」

「ああ。ただ、奴自身の限界量では足りなかったから、技石で補っている。お前が今、手に持っているそれだ。その技力を利用して奴は禁じられた技令を放った。俺と対峙たいじし、自らの羨望せんぼうを埋めるために」


 遠い目が月を貫く。両者の間に何があったのかは分からないものの、感傷がそこに強い影を与える。問うべきか。その思いは男の背中の悲しみに封殺された。


「しかし、その禁じられた法を打ち破ったのは、まぎれもなく、お前の技令だった。英雄の技令と呼ばれる、陣形じんけい技令ぎれいだ」


 背筋に冷たいものを感じる。いい加減に慣れてもよさそうなものであるが、未だに、自らの能力をげられると、背筋に冷たいものを感じる。それでも、一片ひとひらの勇気を振り絞って、強く、訊ねた。


「では、その陣形技令とはどのようなものでしょうか」

「光の線と、その線上に生じる光の壁によって敵を攻撃するものだ。この技令を用いる者は、その世界において英雄となりやすく、故に、英雄の技令と呼ばれる。まあ、最近では実力でこれを習得する者が多くいる。それでも、天性の才能で用いる事ができるのは、本物の英雄以外にはあるまい」


 辻杜先生の目にいつわりはない。むしろ、私をただゆっくりと見つめ、さらには、その先にある影をじっくりと見詰める。しなさだめというよりも何か温かみのある目つきであり、静かにあることを訴えていた。

 木々のざわめきが狂おしい。星のざわめきが狂おしい。私の足は大地になどなく、私の心はただ一つの可能性に向かってひた走っている。その走りこそが、思いとなり、考えとなり、決断となり、言葉となった。


「仲間に、なれということですね」


 風の吹きぬける音が、後に困惑を残す。一つの空間に二つの意志が重なり、互いの思いが緊迫を起こす。青さと枯れの香りが鼻をつき、大地の揺らめきが胸を突いた。


「違う。下にけと言っているんだ」


 絶句。


「仲間というのは、あくまでも力量差の少ない場合の関係だ。それに、お前にとってもその方が都合がいい事になる。だから、協力しろ」


 のちに、静寂せいじゃく。あくまでも、辻杜先生の目は本気である。しかし、それ以上に恐ろしいのは、裏がないことである。

 目は口ほどまでにものを言う。このことわざが示すとおり、目を見れば相手の意思は伝わってくる。特に、誠意というものは瞳の深奥しんおうに現れやすい。そこに、濁りがないのである。答えは、一つしかなかった。


「先生、何が相手で何を目的とするのですか」

「敵はただ、安寧あんねいを崩す者達。目的は平和。そう、言うなれば」


 二人で月を見上げる。


「何気ない日常を守るために戦うだけだ」


 次の瞬間、私は差し出された手を握り締めた。その手に込められた力はいかにも強く、しかし、温かなものであった。

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