(8)撃鉄

 火事場の馬鹿力とは、よく言ったものである。

 死刑宣告の後、私は岩波の猛烈もうれつな攻撃をかわし続け、逃げおおせていたのである。無論、普通であれば不可能である。それを、奇跡的にも受け流し、追い詰められながらも、数分間は逃げ続けたのである。足が言う事を聞かないのは分かりきっている。それでも、大腿だいたいのはちきれんばかりに躍動させると、その力で上へ上へと逃れ続けた。

 ただ、敗走を続けている者に勝利は存在しない。やがて、最後の階段を駆け上がると、夜風行く屋上へと追い込まれるのであった。運命に必死で抗う。自分の無力を痛感させられる。


「いい場所に来たものですね、二条里君。紫の魔力は闇を以って最上とします。まさに、この実験を締めくくるに相応しいものです」


 吐き気が、止むことなく続いている。無理もない。体の限界を大きく超えて走り続けたのである。加えて、この岩波は先程から低重波を放ち続けている。身体への負荷は、確実に私の全体をいましめようとしていた。


「さあ、お逃げなさい。この重圧と空間から逃れる事ができれば、の話ですが」


 手のひらの上で踊らされるということは、これほどまでに苦しい事であるのか。防御など不可能なこの状態で、月下に舞う。しかし、そこに典雅てんがさなどはなく、ただ、死の恐怖から逃れるためだけに舞い続けた。

 それでも、やがては終焉しゅうえんが来る。フェンス際まで追い込まれると、今までの躍動が嘘であったかのように、身体は沈み込んだ。


「さすがに、モルモットといえども、人間は違いますね。これ程楽しい時間はなかった」


 岩波が卑劣ひれつな笑みを浮かべる。気分が、悪い。死の直前というのは、これほどまでに気持ち悪いものなのか。むしろ、死と言うものは人の幸福を突如として奪うものであるのかもしれない。日常に、全く不満がなかったといえば嘘になる。しかし、こうした状況になるよりはましである。少なくとも、二日続けて死と隣り合わせの状況になるなど、あってはならないはずである。そう考えると、たまらなく悔しかった。

 生きたい。これほどまでに強く思ったことはなった。生に対する執着が、正に対する執着が、全身に力をみなぎらせる。吐き気は止まる事を知らない。それでも、虚空に浮かぶ月光だけを頼りに、私は両の足で向かい合った。

 地面が揺れる。世界は歪む。恐怖によるのか、岩波の技なのかは分からないが、常軌じょうきいっしている事に変わりはない。それでも、戦う姿勢だけは貫かなければならなかった。


「ほう、まだ立てるというのですか」


 五月蝿うるさい。耳にさわるというレベルのお話ではない。ただ、その声だけが、今の私を現実へと誘う、唯一の道標みちしるべであった。静かに、ポケットの中へと手を忍ばせる。一つの可能性を握り締める。


「しかし、二条里君。いいですか、実験というものには必ず結果と終焉しゅうえんというものが存在します。これは、曲げようもない、事実なのです」


 頭は至って冷静だ。それは、唯一の救い。その驚くほどの冷静さの中で、私は、静かに布を広げた。

 布が有り得ない鳴動めいどうを示す。鳴動めいどうは振動を呼び、さらには激動を呼ぶ。反動が身体の奥を握る。その天地を揺るがす波動を前に、一つの影が発動した。


「なるほど、二条里というのは危険を呼び覚ますようですね」


 澄んだ少女の声。その声に安堵あんどする。とはいえ、その少女がやや震えているところを見ると、その安堵あんどが幻想である事に気付かされた。


「内田、簡単に言えば追い詰められた。一人では逃げようがない」

「そのようですね。それにしても、醜悪しゅうあくさがきわっています。一体、何が起きたというのですか」

追々おいおい説明する。まずは、逃げよう」


 私の言葉にうなずくと、内田は私の身体を拾い上げ、そのまま、フェンスへと飛び乗った。


「ほう、大道芸ですか。しかし、ここは屋上。逃げる事は叶いませんよ」


 内田は岩波の忠告を無視して、飛ぶ。一瞬で重力のとりことなり、落ちる。生じた風は身体を襲い、容赦なく殴打おうだを繰り返す。その荒れ狂う世界の中で、内田は凛とした声を放った。


「風のしがらみ」


 技令が静寂せいじゃくを撃つ。突如とつじょとして吹き上げてきた風は、私と内田の身体をさらい、強い浮力を与える。やがて、地上が私達に近付き、風が大地へといざなった。


「二条里、走れますか」


 内田の問いに、無言でうなずく。腰が抜けてもおかしくはない状況であったが、危機感はそれを凌駕りょうがしていた。両の足で立つ。足が回転を始める。


「おやおや、どちらへ行こうとも無駄ですよ」


 しかし、それを止めたのは、目の前にある岩波の巨体であった。


「そんな、ばかな」


 内田さえも、絶句する。無理もない。必勝の速度を期して、逃げたのである。それを、この禍々まがまがしい怪物はいとも容易く凌ぎ、私たちの前に回りこんだのである。狂っている。それ以上の適確な表現がないほどに、予想だにしない出来事であった。


「仕方ありません。不本意ですが、お相手いたしましょう」

「ほう、あなたもモルモットを志願するというのですか。これは、楽しみですね。活きのいいモルモットは貴重な存在ですから」

「お祈りは済みましたか。今から、私が地獄への切符を切って差し上げましょう」


 岩波に対して剣を向ける。だが、その言葉とは裏腹に、内田の額にかすかな汗が浮かぶ。万に一つも勝利はない。その背中は、必死に訴えかけていた。その中で、私は全ての頭脳を回転させた。

 選択肢は想像以上に少ない。とはいえ、結果に至っては一つしか存在しない。元々から存在しないものを、それでも必死に手繰たぐり寄せ、一つの可能性を導かざるをえない。さもなければ、私達は運命に圧殺あっさつされ、時という荒波の中に藻屑もくずとして消えてゆくしかない。

 目の前を見据える。強化された岩波の一撃に、内田が舞う。悲鳴が舞う。固いもの同士がぶつかる無機的な音が耳を包むと、足下に内田の身体が転がった。


きと質とは、別物のようですね」


 言うと、岩波はその巨漢で内田の身体を踏みつけた。再びの悲鳴。苦渋くじゅうは周囲の空気を凍らせ、絶望は岩波の愉悦ゆえつを増大させた。


「さあ、結果を、導く時です」



 それで、何かがはじけた。



 大地に、両の足を立てる。震えが全身を覆う。それでも、一片ひとひらの意志が希望となり、それが、可能性となる。ただ、その希望は絶望と背中合わせであり、可能性も幻想と融合している。その中で、私は両の目を閉じ、一つの奇跡を想像した。


天帝てんてい封玉ほうぎょく、封印解除」


 頭の中で、あの言葉が反芻はんすうされる。それと同時に、身体中が沸き立ってくる。狂気に身を任せてしまいそうなほどの苦しみの中、世界が黄金の光に包まれた。


「光魔法など、有り得ません」


 岩波が明らかな動揺を見せる。今までの余裕は無残にも砕け散っていた。私も、あまりにも強い光に目を開く。すると、足下に数多の光が線となって広がっていた。


「英雄の、技令」


 内田が、苦しみながらもつぶやく。


「これが、二条里の力」


 冷静な内田の一言の直後、線は光を増し、そこから光の帯を突き出した。たとえるなら、オーロラ。しかし、このオーロラは地面から噴き出していた。


「二条里君、よもやあなたが技令を用いることができるとは思いませんでした。しかし、それを無駄な足掻あがきと言うのですよ」

 

岩波はそう言いながら、光の帯に触れる。しかし、光の帯は強く輝くと電流が走り、岩波の身体を内側へと押し返した。岩波がうろたえる。だが、この光は追い討ちをかけるかのように岩波を包み込むと、白金と黄金の強い輝きを放った。


「馬鹿、な」


 岩波の声は光の収束と共に消えてゆき、後には、気を失った内田の姿と、紫色の宝石だけが残された。

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