(7)宣告

 放課後、私は図書室へと顔を出す前に職員室に立ち寄った。無論、何か勉強に関する質問があってなどという殊勝しゅしょうな心がけがあっての行動ではない。単に、辻杜先生から呼び出されたがために行くだけであり、ほとんどだるさしかなかった。周りでは、修学旅行の準備にいそしむ生徒の群れもある。この事が不快感を産むきっかけであるのだが、それ以上に、私には重くのしかかるものがあった。

 一礼をして室内へと踏み入る。刹那せつな、入り口の傍に座る岩波先生からの冷たい視線を受ける事となる。この目が、私にはやや耐え難い。それでも、何とかやり過ごして行くと、辻杜先生が机上に本を重ねて待っていた。


「来たか、二条里。意外と早かったな」


 辻杜先生が顔を上げる。その手には何か古い本があり、机上の片隅には乾燥した木の実らしきものもあった。


「で、用事はなんなんですか」

「大した事じゃない。この本を図書室に持っていってくれないか」


 ふと、目をおろす。そこに積まれた本は分厚く、十数冊にも及ぶ。骨が折れそうな事はけ合いであったが、辻杜先生の期待と脅迫きょうはくこもった目を見ていると、到底とうてい、断れるようなものではなかった。


「はいはい。了解しました」

「よし、頼んだぞ。まあ、やや私用に近いからな。これをプレゼントしてやる」


 そう言うと、辻杜先生はズボンのポケットから一振りのナイフを取り出した。装飾はほとんどと言って良いほど無く、刃はき出しでき出しでやや鈍い光を放つ。


「先生、こんな危険物を渡してどうするつもりですか」

「ああ、それなら大丈夫だ。切れ味自体は悪い。特定の使い方しかできないようになってるからな。まあ、本の修理に使ってくれ」


 それじゃあ頼んだぞ、と辻杜先生は言い残すと私を尻目にそそくさと喫煙室へと向かう。私は溜息を一つ残して、大量の本と共に図書室へと向かった。


「二条里、どうしたのですかその本の山は」


 着くなり、内田が驚いたような声を上げる。無理も無い。普通に考えれば酷使のレベルである。とはいえ、図書部からすればこのようなものは日常茶飯事であり、おかげで力もそれなりに鍛えられてきた。


「ああ、ただ辻杜先生に頼まれただけだ。それよりも、他の面子はどうしたんだ。今日は放課後休館日だが、いつものメンバーは揃うはずだぞ。まあ、土柄は数学の補習だろうけどな」

「それが、山ノ井さんは専門部代表会議に参加するために来られず、水上さんと仰る方は定期健診なので病院に行かれるそうです。それからもう一人、誰か来られたのですが、その方は疲れたと言って帰られました」

「ああ、渡会はいつもの事だ。それじゃあ、慣れない図書館で孤軍奮闘していたわけだな、内田は」


 答えは無い。しかし、それはカウンターの上にある開きかけのマニュアルを見れば一目瞭然いちもくりょうぜんであった。せめて、本棚の整理ぐらいはと思ったのであろうが、それに手をつける前に惨敗ざんぱいしたようであった。やや、微笑ほほえましい。


「ところで、少し良いですか」


 苦笑しながら、辻杜先生に頼まれた本をカウンターの中に押し込んでいると、内田が調子を正して声をかけてきた。境を越える。その上で、私は内田の方に向き直った。


「どうした、内田」

「いえ、大したことではないのですが、この本棚の中に少しだけ技令の形跡のある本が混ざっていたので」


 冷や汗が、背筋を伝う。それでも、可能な限り平静に、私は内田に訊ねた。


「どういうことなんだ、それは。まさか、何か危険性のあるものなのか」

「それは、簡単に見ただけですので、何とも言えません。ただ、この持ち主が危険である可能性は高いです。今日の午後から目をつけていたのですが、詳しく調査してみる必要性があるようです」

「詳しくって、どうするつもりだ」

「夜半にここに侵入して、特殊な技令を用います。夜であれば、校舎に人もいないでしょうから」


 侵入という言葉を耳にした瞬間、私の冷や汗は一瞬にして引き、代わりに恐ろしい想像が頭を過ぎった。その想像はやがて内田の口から発せられ、そして、結局は現実となってしまった。




「こんなことして怒られないのか、私たちは」


 夜半、内田の脅迫めいた要望に負け、私達は図書室へと侵入していた。この時、図書部の中でも私だけの知る方法で不法に入っていたのであるが、これこそが内田による要求であった。


「ぜひ、侵入ルートを作ってください」


 この一言を聞いた瞬間、私は全ての覚悟を決めたのであるが、以前にも利用した事があったので、それ自体は単純であった。


「それにしても、通気孔からあのような方法で入れるとは知りませんでした」

「で、何をするつもりなんだ、内田。まさか、例の本を吹き飛ばすつもりじゃないよな」

「ええ。吹き飛ばすだけで済むなら幸いです」


 内田が剣を構える。最早、穏便おんびんに事態が進むなど望みようも無かった。


「二条里、申し訳ないのですが、しばらくの間だけ席を外していただけないでしょうか。この本の封印を解けば、明らかに死闘になりますので、巻き添えになりかねません」


 内田の言葉を待つまでも無く、私は図書室を離れようとしていた。昨日、助かったばかりの命である。このような場所で失いたくは無かった。そのため、私は図書室の鍵を内側から開けると、ほうほうの体でその場から逃げ出した。

 夜の校舎は常に不気味な空気をかもし出す。日常からすると異質なこの空間は、その薄暗さと無機質性とによって生命に不安を与えずに存在することができない。特に、現実と非現実との境が失われたばかりの私にとってみれば、その恐怖は現実のものであった。

 後ろへと遠ざかってゆく自分の足音すら怖い。警報機の赤は私に警鐘を鳴らす。そのような中で、遠くの方にうっすらと明かりが見えた。


「理科室、だったよな、あそこは」


 背筋を冷たいものが伝う。それこそ、電灯の明かりであれば何ら怖いことはなく、単に誰かが残っていると考えられる。しかし、そのやや赤みを帯びた光はゆらめき、この空間の恐ろしさを際立てていた。否、むしろ私の好奇心を駆り立たせることに対してその本領を発揮している。私の足は入られたかのように理科室の方へと向かい、何の備えもなく、その中を覗いてしまった。


「これはどうも、ねずみが忍び込んでしまったようですね」


 その時、脂肪の壁によって独特の低さを持った声が、私の背後に回りこんだ。思わず、振り向く。何もない。しかし、その目を横に向けた瞬間、目を異様に光らせた岩波先生の姿が浮かび上がった。


「見ましたね、二条里君」


 恐怖が、私に首を振らせる。身体の奥底で危険を知らせるものがある。足は言う事を聞かず、口も成す術を知らない。ただ、目と耳だけは私に情報を送り続け、危機感を浴びせかけ続けた。


「嘘をついても構いませんが、ばれるようならお止めなさい。それにしても、予防線を張ってはいたはずですよ。図書室に術を施した本を置き、そちらに注意を向けていたはずです。それをまあ、あなたのような未熟者に見抜かれるとは、手抜かりでした。敵は辻杜と校長のみと思っていた、私のミスのようです」


 目の前で、岩波は次々と口を滑らせて行く。そこには、いつもと同じ冷たさが顕在し、私を締め付けてゆく。ただ、いつもと一つだけ異なるのは、その背後に何か禍々まがまがしい気が集まり、それが具現化しようとしていることであった。


「まあ、良いでしょう。幸いな事に研究は終わりました。さあ、踊りなさい、二条里君。私とこの『紫の大地の恵み』の技力の前に」


 岩波は、わらった。刹那せつな、紫の光がその身体を覆う。周囲には突風が吹きすさび、耳をつんざく高い音が脳の深奥しんおうを貫く。足は震えて使い物にならない。目からは止め処なく涙がこぼれる。怖いという次元を通り越した現実は、そのまま光を晴らすと、岩波の身体を醜悪しゅうあくなものへと変えてしまった。


素晴すばらしい。まことに素晴すばらしい。これこそ力。まさに、全てを砕く力」


 岩波が狂喜の声を上げる。否、狂った声を上げる。その圧倒的な存在に、私の足はようやく反応を示した。恐怖が去ったわけではない。危機感が恐怖を超越し、身体防御の能力を発揮したのである。そして、発揮した以上、私は躊躇ためらうより先に、その場を脱しようとした。


「お待ちなさい、二条里君」


 しかし、それを止めたのは岩波の声であった。


「何をしているのですか、二条里君。喜びなさい。何といっても、あなたはここで私の実験台になれるのですから」


 逃げ道は、断たれた。後は、殺されるよりほかになかった。

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