(5)出会い

 頭の奥底を緩やかな痛みが走る。少しだけ、生ぬるいものが額を伝うのがかすかに感じられる。それが、何となくにしても、血であると気づいたとき、私は完全に視界と意識を取り戻した。

 周囲に広がる景色は、意識を失う前と何ら変化がなかった。ただし、目の前に、例の少女とその持っていた剣とが無造作に放り出されていた事を除いてではある。私は静かに少女へと近寄ると、その顔を覗き見た。

 静かに広がった優雅な黒が森を包む。月明かりが、私と少女との姿を映し出す。その中で、私が見た少女の顔は、ほのかに紅潮していた、しかし、確かに大人へと進むべく与えられた魅力を含んだものであった。思わず、自分の顔も紅潮しているように感じられる。それ以上に、私の汗腺は正直にその昂りを表していた。


「素敵、だな」


 初めて、私は自分から素敵という言葉を使った。それに伴い、私は恥ずかしさを感じると同時に、言葉の奥深さに感じ入ってしまった。綺麗とも、可愛いとも、美しいとも違う。この「素敵」という言葉は、自分の内包する客観性と主観性とのせめぎ合いのうちに生じたのである。そして、この初めての思いに、私は困惑せざるをえなかったのである。

 重くのしかかったものを、首を振って払い落としてから、私はさらに少女の持っていた剣を拾い上げた。剣は驚くほど軽く、いつか握った事のある真剣よりも遥かによく手になじんだ。その感覚が少女の動きを思い出させ、その理由を明確に示す。それでも、試しに近くに転がっていた自分のかばんからプリントを一枚取り出して切ると、綺麗に二枚の紙となった。この事実を確認した私は静かに、着けていたベルトや取り外し式のかばんの紐で少女の手足をしっかりと縛りつけたのであった。

 遠くを、闇に染められた雲が行く。その中にあって、月はしっかりとその存在を示していた。星も、それに従うしかなく、それよりも遥かに小さな人間である私は、ただその光の恩恵を受けるだけであった。この、神秘的な空の下で、少女は静かに目を開いた。


「ここは、いったい」


 少女が身体を起こそうと、腕を右にやろうとする。だが、それは私によって縛られた左腕によって妨害される。少女は、一瞬だけあっけに取られた顔をしていたが、やがて、自分の状況に気づいたのか、私のほうをにらみ返してきた。


「無駄な抵抗は止めてください。縛られてても、私はあなたを攻撃できます」


 そう言うや否や、少女はすばやく口を動かし始めた。しかし、それは途中で止まり、それと同時に、少女は嘆くように言った。


「催眠法令に梅の香に、それから風韻斬ふういんざん用の技力と大結界、小結界三回。そして、風のしがらみ一回だから、技力が、足りない」


 最後の指を折り終わるのと同時に、少女は深い溜息をついた。


「大丈夫か。何かあったのか」

「ふ、不要な心配はされないでください。私は負けたのですから、どうぞ、あなたの好きなようにされればいいでしょう」


 明らかに、少女がやけになる。少女の目はいまだに冷ややかであった。


「勝者の権利、というわけか」

「そうです。敗者は勝者に従うものです。たとえ、それがどんな事でも。まあ、男性が望まれる事など、一つか二つでしょうか」


 少女が私から目をそらす。気丈なる行動と裏腹に、眼の下がかすかに震えていた。


「そうか。じゃあ」


 私が静かに少女へと近付いてゆく。漆黒が世界を支配しているというのは、人の世の常には、好都合であろう。だが、私は少女の震えを無視できなかった。


「な、何をするんですか」

「何って、『かせ』をはずしてるんじゃないか。まあ、戦いは終わったんだ。とりあえず、身体ぐらいは自由にしてもいいだろう」

「偽善者のつもりですか」

「いや。まあ、普通の男なら喜んで姦通かんつうに及ぶだろうが。いや、そんな古典的なことをする奴がいるかどうかは分かららないが、兎に角、私にはそんな勇気もなければ義理もない。それに、そんなことをしたところで、私には何の得もない。だから、私は勝者の権利を行使して、君と話をするつもりだ」

「話す事など」

「まさか、趣味が人を襲う事じゃないだろう。別に、趣味とか好きな本とか聞くぐらい、構わんだろう」


 少女の顔が一瞬にして変わる。そこには、微塵の冷たさもなく、ただ、この馬鹿としか言いようのない変人を前にして、完全に毒気の抜かれた中学生へと変化していた。


「初めて聞きましたよ、こんな話。命を狙ってきた人を捕まえて、趣味だの好きな本だのを聞くために勝者の権利を行使する人なんて」

「ま、普通の人はしないだろうな。襲った理由を聞くやつならいるだろうけど。でも、野暮ったいだろう。せっかくの出会いなんだ。一期一会って言うとおり、大切にしないとな」


 私は自分の行っている事のおかしさに、思わず自分で笑ってしまった。確かに、命を奪おうとした人間に対する態度ではない。だが、なぜだか私はこの少女に対して怒ろうとは考えもしなかったのである。


「申し訳ありませんでした」


 少女が、私に対して頭を下げる。この行為がどこから生じたものかは分からない。それでも、私は何となくこの少女との間で心が通じ合ったのを感じたのであった。




 それから私たちは、互いに雑談を交し合った。ひとたび謝罪すれば、それはもう仲間であった。ゆえに、私は少女に剣を返したし、少女も剣を鞘に収め、身体から離していた。そして、何の変哲もない話をするのであった。


 しかし、そろそろ話の話題が尽きようとしていた時、少女は突如として語った。


「しかし、あなたは強力な技令ぎれい体則たいそくとを潜在的に内含しています。このままでは、明らかに命の危険にさらされる事でしょう」


 周囲の風が刹那せつなに固まる。私が予想していたよりも、遥かに冷たい。現実との隔絶感。それが、この世界を凍てつくものへと変えた存在であった。


「聞きなれない、言葉だな」

「体則は、人間の持つ肉体が根源的に持つ非科学的な存在で、物理的な現象に影響を及ぼしたり、その物体や肉体を強化します。また、起源は体力で、この保有量が肉体の成長の限界を決定します。俗に、トップアスリートと呼ばれる人たちはこの保有量が高く、肉体を鍛える事でその限界量まで高める事ができます。そのため、彼らの肉体はたくましく、そして、その使い方も見事な形になるのです。逆に、技令は人間の持つ魂が根源的に持つ非科学的な力です。精神を高揚させたり、集中させたりすることで作用を及ぼし、化学反応を起こしたり、パラレルを創造したり、時間を操作したりすることもできます」

「悪いが、そんな事を一度に言われても理解できんぞ」

「大丈夫です。おいおい理解できるものと思います。ただ、今はご自身が高い戦闘能力を保持しているという事だけを頭に入れられておいて下さい。そして、あなたがそれをある程度まで使えるようになるまでは、一緒にいたいと思います」


 少女がかすかに微笑む。それは、少女にとって非常に大きな決断であったのかも知れない。だが、私はその中に一種、奇妙な絆とも言うべき感覚を覚えたのであった。だからこそ、私の頭を支配したのは単純なる拒絶ではなく、従容しょうようたる頷きであった。


「ありがとうございます。それで、よろしければお名前を教えていただけませんか。いつまでも、あなたと呼ぶわけにはいきませんから」

「ああ、それは構わない。ただ、君の名前も教えてくれるかな。どうも、人の名前を覚えるのが苦手なようでね。一回じゃ覚え切れなかったみたいだ」

「それは、重症かもしれませんね。私は内田うちだ水無香みなかと申します。以後、よろしくお願いします」

「私は二条里にじょうり博貴ひろたか。まあ、敬称つきもなんだから、適当に苗字か名前ででも呼んでくれ」

「二条里、ですか」

「ああ。よろしくな、内田」


 互いにお辞儀をし、右手を差し出すと、私たちはそれを静かに握り締めたのであった。


「ところで、あの先生は大丈夫でしょうか」

「あの先生って、誰だ」

「黒いジャンパーを着て少し肥えている、まだ若い先生です。都合上、技令で眠っていただいたのですが、まだ眠っているようならば、起こしにいかないと、かぜをひいてしまいそうで」


 この内田の一言で、全ての事象は一つに繋がった。それでも、私は自分と内田とに、大丈夫、大丈夫だ、と言い聞かせると、かばんを拾い上げて、いつもと変わりのない帰途に着いた。



 見上げれば美しい月の影。その傍らには、高貴なる雲の従う姿だけがあった。

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