(4)森の小屋

「誰かいませんか」


 ひたり、ひたりと夕闇が近づきつつある中、私は紅の中に黒をたたえた森の中をさまよっていた。近くを風が抜けるたびに、私の小さな心臓は見事に萎縮いしゅくした。森全体は悲しい闇に包まれている。だが、その空気は喧騒けんそうによって支配されていた。


「もう、帰られましたか」


 私の声に答えるものはない。次第に、紅が紫へと変化してゆく。その最中にある今は、空が最も美しい宝玉と化している。それを眺めれば、少しは私の心も和らいだが、双肩そうけんに重くのしかかった二つの不安は、決して離れる事がなかった。

 やがて光の先に、朽ちかけた一軒の小屋が姿を現した。それに向かって、疲れた足をせかす。足は風と一体となり、目は森と一体となった。

 ゆえに、私は強い一閃に反応した。


風韻斬ふういんざん


 鋭い光が前を横切る。その正体に気づいたとき、私は悟った。明らかに、尋常ではない。凶暴な刃物特有の殺気が私に迫ろうとしているのである。そのようなものは日常には存在しない。ゆえに、私の琴線きんせんは常態を超えて張り詰めた。


「誰だ。こんな事をするのは」


 奥歯の震えを噛み締めて、私は大きな叫びを上げた。これに返ってくるのは更なる凶器。私の汗腺は全てが膨張し、恐怖が私に失禁を誘おうとしていた。既に、腰は抜けている。大地につくばり、土の匂いを抱きしめ、枯葉の気を食らう。


「運がいいようですね。本来ならば両方ともに、一撃必殺の攻撃だったはずですが」


 冷たい言葉が、背後より迫る。それと同じくして、無機質の冷たいものが私の首元に触れる。慌て、逃げる。その後を刃物が追う。


「私は、あなたに恨みはありません。しかし、生かしておくには、危険すぎます。残念でしょうが、運命を受け入れてください」


 風が冷たさを増していた。そこには、温かみなどない。涙もない。ただ、胸が苦しくなるだけの冷たさだけがあった。それでも、私は大きく息を吸い込むと、一思いに、後ろを向いた。


「顔を見て、何になるというのでしょうか」


 無機質な声が、私を貫いた。それと同時に、私の頭は強い衝撃を受けた。

 そこにあったのは例の少女の姿。すなわち、私の隣に今日、まさに座り始めた少女の姿であった。


「な、なんで君が」


 私の問いに少女は答えず、ゆっくりと刃物を向けてきた。なお、彼女の顔に笑みはない。明らかに仮面をはめている。私は直感的にそう悟った。しかし、悟っただけでは何の解決にもならない。彼女の持った鋭い両刃の刀が私の喉下のどもとへと迫る前に、後ろへと飛びのいた。汗が、はねる。剣が裂く。逃げる。はねる。裂く。闇を私が裂く。剣が追う。少女の顔は変わらない。汗もない。それでも、少女は言葉を放った。


「諦めてください。あなたでは、逃げ切る事などできない。いさぎよく、私の剣を受けてください」


 少女の剣がさらに迫る。それに対して、私は逃げるより他にはない。死にたくはない。頭に受けたあの衝撃を、物理的には受けたくはない。この二つの恐怖が、私の頭と身体を縛りつつも、支配する。足は震え、立つこともままならない。だが、動かぬ事は許されぬ。ただ、逃げる。私のできることはそれだけであった。


「いい加減にしてください。早ければ、まだ、苦しみを受けずに死ねます」


 右往左往しているうちに日は暮れた。頭も身体も悲鳴を上げる。その中での少女の最後通牒つうちょう。それでも、私はひたすらに逃げた。


「無駄です。風のしがらみ」


 少女の言葉と同時に、私の周囲につむじ風が起きた。しかし、それは次第に大きな渦となり、私の身体は風によって大きく空へと放り込まれた。


 木々より高く空を舞う。犬の遠吠え近くなり、時の流れは遅くなる。しかし、地面が次第に近付いてくる。全ての音が消えてゆく。鋭い剣が大地の間近。その隣には、少女の姿。近付くにつれ、恐怖が消える。ただ、諦めだけが私の胸をく。だがその合間に、少女の頬に涙が伝っている事を視認した。


「本当に、いいのか」


 ふつふつと、私の心の奥底に何かがたぎり始める。無論、私は死にたくはない。だが、それ以上に、少女は泣いている。冷酷無情の士であれば、涙などは流れない。死んではならない。私の心は燃え上がった。


「死んでたまるか」


 刹那せつな、私の身体が光に包まれ始めた。それに伴い、大地に光の線が走り始める。それは、複雑に絡み合い、混じり合い、最後には巨大な八角形として少女を包み込んだ。


「な、なにが」


 少女の顔から初めて完全に仮面がはがされた。その額には汗が漂う。だが、それを確かに見定める前に、私の視界は完全に光によって閉ざされたのであった。

 爆風に近い風が私の身体を再びさらう。遥か遠くにあったはずの地面がもはや近付いていたのか、私は即座に幹へと叩きつけられ、背中に強い衝撃を覚えて、腕に腐葉土と枯葉の感触を覚えた。だが、少女のほうは悲鳴を上げるばかりで光の中から姿を現さない。その間にも、周囲を覆っていた爆風は止み、それに代わって、さらに強い光によって私の身体を覆い隠した。その中で、私はやがて安堵と不安と共に意識を失うのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る