第一章 邂逅

(2)朝の風

 世界中を驚愕させたあの事件から六日が経った。その頃には、私の病も回復し、まだ不安は残るものの、中学校に復帰した。

 朝。

 いつもとは異なり、心臓が上げる悲鳴をよそに学校の階段を駆け上がっていた。だが、この私が目指したのは教室ではなく、併設の図書室であった。そこには、私の友人がいるはずであり、何よりも、私を待つ仕事があるはずであった。


「おはようございます、辻杜つじもり先生」


 勢いよく図書室の戸をあけると、中には黒いジャンパーを着て、丸みを帯びた身体をさらに丸めた辻杜先生の姿があった。右手にはコーヒーがあり、左手には文庫本が収められてある。それは、いかにも図書館の主たる先生の威厳を示しており、同時に、私に日常の実感を与えた。


「おお、二条里にじょうりじゃないか。もう、かぜは治ったのか」

「はい、おかげさまで。むしろ、仕事をしないとまた風邪ををひいてしまいそうなぐらいですよ」

「それは早めに仕事をやらないとな。待っとけ、今、名簿を出すから」


 こう言うと、辻杜先生はその巨漢をカウンターの中に封じ込めた。それに伴い、狭いカウンターがかすかにゆれる。窓の外から吹き込む風も、まるで、このこっけいな様態を微笑ましく見ているかのようであった。


「そう言えば二条里は知らんだろうが、今日、また転校生がお前のクラスに来るようだな。それも、女子が」

「そうですか。それはまた、騒がしくなりそうですね」


 先生の話に私が軽く答えると、辻杜先生は明らかにつまらないという目を向け、カウンターの中から這い出てきた。


「お前たちはどうしてそんなに淡白なんだ。少しは反応してもいいだろう。まあ、お前たちに異性を意識した生活を営めと望む俺の方がばかなのかも知れんけどな」


 こう言いつつ、辻杜先生は手にした名簿や貸し出し帳を私の前に広げる。


「そう言われましても、本に数学に、が趣味の私にとっては、何ら食指を動かされるものがないんですけど」

「まあ、分からんでもないが。しかし、少しは反応しても良かろうが。恋は人生を豊かにするぞ」

「まあ、新しく人が増えるわけですから、嬉しいことではありますね」


 私の言葉に、辻杜先生は全身の生気を込めたため息をつき、その場にあった椅子にに座り込んだ。それを確認してから、私はいすに腰掛けると、すがすがしい空気の中でいつもの仕事を始めるのであった。


「ところで、二条里」


 辻杜先生が、気力の完全に抜け切った身体を抱え、静かに口を開いた。そこには、異様なものは殆ど存在しない。ただ、眼底に潜む厳しい光を除いて。


「あの自爆突撃事件をどう思うか」


 辻杜先生の鋭い光が私の目を捉える。それと同じくして、私はそこに異様な感覚を覚えた。そのため、その答えを避けようと心底にて思ったが、逃げられず、答えざるをえなかった。


「第一に考えた事は、パクス・アメリカーナの崩壊です。これは、遅かれ早かれ起きるとは思っていたのですが、国内で起きたこの二度目の攻撃に、アメリカは確実に動揺するでしょう。同時に、アメリカを敵視する国々は勝機を感じ、独立の気運が高まるでしょう。第二に、近いうちに戦争が起きるであろうとも思われます。テロであろうと何であろうと、誇りを傷つけられたのです。新鋭の国がこのような屈辱を受けた場合、その恥をそそぐべく、確実に反撃を行います。これは間違いないでしょう」


「そうか。まあ、参考にさせてもらうな」


 辻杜先生は生気を取り戻してたいを正すと、静かにタバコに火をつけ、それを緩やかにくゆらし始めた。それは、一瞬だけ侵された日常の再生であり、穏やかな青空の復活でもあった。

 遠くを行く白雲のかげには鳥たちが飛び交い、その先に控える陽光は遥かにその先を、私たちを見据えていた。

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