何もない日常が好きな図書室の少年は美少女に襲われ英雄を騙られ世界を護るために戦うⅠ

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

第一編 苦しみの始まり

序章 幸多き 浮世の尽きる 夢の朝

(1)世界同時多発テロ

 九月十二日の明け方、私はおもむろに寝床から起き上がると、熱のせいで重みを増している身体を抱え、その場に立ち上がった。全身は気だるさと痛みに支配され、声は咳と鼻水とに支配されている。その中で、私は前日に起きた大きな衝撃を静かに噛み締めていた。


 アメリカ同時多発テロ。


 それは、私の脳と心臓とをわしづかみにし、臓物をえぐり、眼底を溢れさせ、血液をたぎらせ、肉を震わし、自我をも破る衝撃を与えた。この、今までに覚えた事のないような衝撃に、私の心は奪われ、混沌こんとんたる闇の中へと突き落とされていたのである。あの最もプライドの高く、強大で、恐ろしい帝国の象徴に対して行われた攻撃は、その内面を写し、同時に、世界中から平和を奪い去った。それを、私は動物的とも言える嗅覚によって感じ取り、恐怖に怯えていたのである。

 激動が世界を包み込む中でも、この私の周囲はまだ、穏やかな時間が流れ続けている。遠くでは電灯がその輝きを西に向け始め、近くの猫も重たいまぶたを引きずっていた。そこには、何の変化もない。ただ、豊かな日常、幸福だけが残されていた。そして、私はその中を闊歩かっぽし、静かに迫り来る光に身を委ねた。


「……たさない」


 その瞬間、私の周りに広がっていた景色が完全に変化した。全ての幸福は消え去り、破壊と不幸と惨劇とがその代わりに現れる。それと同時に、私の左右は黒髪のあでやかな女性と鬼神にも比類する屈強なる肉体をたたえた男性とに挟まれた。彼らの目には、それぞれ敵意と戦意とが宿り、そのまっすぐに走る閃光で、前に控える男を睨みつけていた。


「渡さない、絶対に。私たちの希望は渡さない」


 母性を全身にまとった女性が、毅然きぜんとして男と対峙する。それと同時に口元は細かく動き、それに伴って、異様な空気がその周囲を囲い込んだ。


「娘を渡すが良い。あの強大なる力は我らが妨げとなる。さもなくば、離れ離れに逝くこととなるぞ」


 漆黒の紳士服に身を包んだ男は、悠然ゆうぜんと冷たい言葉を私の両脇の男女に投げつけた。そこには、一切の温かみがない。まるで、人にあらざる者であるかのごとく。それでも、依然として構えを崩さない男女に、ついに漆黒の男は襲い掛かった。


慈愛じあいの壁」


 刹那せつな、女性がすごみを含んだ大きな声を上げた。それと同時に、二人の前に薄い膜のようなものが現れる。それに対して、漆黒の男が触れると、膜は彼の全身に電流を流し、目に痛烈なる光を与えた。だが、彼はそれを冷たい顔のままで突き破ると、銃を放つ男の前に飛び込み、指でその腹部を刺した。ぜた。


「時空のさい


 それに続いて、二つの透明なさいが涙の頬に伝う女性から放たれた。その後を、さまざまな色が混ざり合い、醜悪しゅうあくを成したものが追う。それは、明らかに日常とはかけ離れており、空想にしても、あまりに残酷なものであった。だが、そこにはある種の実体感があり、鼻腔びくうの奥には鉄とし尿の匂いがしがみついていた。

 空中で加速をしつつ、漆黒の男に襲いかかった二つのさいは、しかし、その両方ともが男によって、素手で切り捨てられた。


「死に急ぐなら、構わぬぞ」


 消え去り行く二つの賽を背に、男は静かに宣告した。それと同時に、女性の下へと近付いてゆく。女性は次々と口を動かし、それと連動するかのように、その前に様々なものが姿を現す。だが、蹴散けちらされると、男の伸びきった手が、その胸を貫いていた。


「愚かな」


 男の腕を幾筋いくすじもの血が伝う。鮮やかな紅が新たに破壊を象徴した。だが、その中で息絶えているはずの女性は断末魔の代わりに、絶叫した。


「天帝封玉、封印解除」


 この突然の事態に、男は腕をひねった。すると、女性の目からは輝きが消え、心臓がその断末魔を上げた。しかし、それと同時に金色の光を発する玉が現れたかと思うと、私の胸を深々と貫き、この体内に取り込まれていった。


 光がその落ち着きを取り戻すと、そこには、失われたはずの幸福があった。無論、そこには破壊や不幸などはなく、私は日常へと回帰していたのであった。


 だが、これが全ての始まりであった。

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