第16話 先輩は帰り道で俺の名前をささやく 1
手を繋ぎ、同じスピードで歩き出した先輩の横顔を見る。
「~~♪」
「先輩、やけに上機嫌ですね。鼻で歌ったりなんかして」
「え~? そうかな~? 私はいつだってこの通りだけど……えいっ」
そう言って、先輩は俺の手を握ったまま、腕に抱き着いてきた。
確かにいつもの甘やかしモードの先輩だが、いつも以上に強い力でべったりしているような。
さっきまでの暗い顔は、今や完全にどこかへと消えてしまっている。
「もう、先輩。人に見られちゃいますから……」
「え? 人がいなければこのまま先輩のカラダを思う存分堪能できるのにだって? まったくもう、後輩ったらエッチなんだから。でも、そんなところも、か、わ、い、い、ぞっ!」
「うわ、クソうぜえ」
勉強会の時は他の二人や妹に気を遣っていたのだろうか、まるで鬱憤を晴らすかのごときエンジン全開のウザ絡みである。
そんな俺たちの様子に、周囲の人たちからの視線は生温かい。そう、ちょうど九条先輩や大和先輩が俺たち二人を見るときのような……バカップルですね。すいませんよくわかります。
そして、さらに先輩はアクセルをベタ踏みで、俺へと迫る。
「なあ、後輩」
「? 今度はなんですか?」
「いや、こうして夜道で手を繋ぐまでの仲になったのに、未だに後輩先輩で呼び合うのはおかしいかなと思って。私たち、そろそろもう一つ先の段階に進むべきだと思わない?」
「また変なこと言い出した」
先輩後輩の関係としては今のままで十分良好だし、これ以上はないと思うのだが。
もう一つ先の段階……ということは。
「もっと俺と仲良くなりたい、ってことですか? 例えば……そう、友だちとして」
「っ……」
「あれ? 先輩?」
何か間違ったことでも言ってしまったのだろうか、先輩の顔が微妙に曇る。
次の段階、つまり、先輩後輩という上下の関係でなく、友人同士というフラットな関係になることだと思ったのだが。卒業で終わらず、ずっと良い関係を築いていくというか。
「う、うん、そうだな! 何も間違っていないぞ。……そう、後輩はまだまだ私に対して気を遣いすぎているからな。遠慮なんかせず、もっと私に言いたいことを言って欲しいし、したいことなんでもしていいわけだ」
「ああ、なるほど……」
しかし、俺にとっての神楽坂先輩は、俺のことを見捨てないでくれた恩人であり、尊敬できる人である認識は変わらない。
なので、いきなり『遠慮なくどうぞ』と言われても、どうしたらいいかすぐには考えが浮かばない。
「ふふん、困っているな後輩。では、私から一つ提案をしよう」
「先輩から?」
「うん。そうだな……まずはお互い名前で呼び合うというのはどうだろう?」
つまり、九条先輩や大和先輩が言っているように、俺も『美緒』と呼べということだ。
まあ、妥当な線だろう。現状、俺の『先輩』呼びはともかく、先輩は俺のことを名前でなく『後輩』とだけ言う。いつの間にかそうなっていたわけだが、他の先輩は『三嶋』とか『三嶋君』と呼ぶので、不自然といえば不自然か。
「……えっと、それじゃあ、」
名前で呼ぶだけなのに、やけに緊張する。
「み、美緒、先輩」
「美緒、って呼び捨てはしてくれないの?」
「それはさすがに。先輩が先輩であることに変わりはないんですから」
「真面目だなあ、後輩は。せめて『さん』づけお願いしますっ!」
「……美緒さん」
そのぐらいならいいだろう。皆がいる前では恥ずかしくて無理だが。
「はい、次は先輩の番ですよ。先輩は俺のことなんて呼んでくれるんですか?」
「かれぴっぴ」
「やめろ」
即答した先輩の意見を、俺は真っ先に却下する。というか、それは人を呼ぶときには使わないし、そもそも俺は先輩の彼氏ではないし。
「冗談だよ。う~ん、でも迷うなあ。後輩の呼び名を編み出すのなんて造作もないことだけど、一番しっくりくるものだとなあ。……あ、そうだ」
そう言って、先輩は俺の耳に顔を近づけた。
「先輩……近いんですけど」
「ええじゃないか。ぐへへ」
「セクハラ親父か」
「まあまあ。ちょっとだけ、私のわがままにつきあってよ? ね?」
先輩からのわがまま……これまで先輩の好意に甘えてばかりだから、そう言われてしまうと弱い。
「わかりましたよ。……で、何をするんですか?」
「こうするんだよ。……朋人」
そうして、先輩は俺の耳で名前を囁いた。
先輩の息遣いがダイレクトに伝わって、ちょっとばかりくすぐったい。
「う~ん、反応はいまいちか。これは却下かな」
「……あの、どういうことか説明してもらっていいですか?」
「うん? やっぱり一番後輩が気に入った呼び方がいいかと思って、試してるんだ」
「……近づく必要性あります?」
「ある!」
ないと思うのだが。わがままを受け入れたのは俺だから、とりあえず最後まで付き合うが。
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