第一話

 二月四日、午後十一時過ぎ。ぱらぱらと雨が降る中、ビニール傘とビジネスバッグを手に、憂鬱そうな顔で暗い路地を歩く一人の男がいた。

 酷く疲れているようだったが、一刻も早く家に帰りたいのか、歩みはそう遅くない。傘を差しているにも関わらず靴は濡れていた。


 この辺りの道は、人通りが少なく、車もほとんど通らない。周辺に店や娯楽施設がなく、住宅ばかりに囲まれているせいだろう。

 ただ雨の音だけが聞こえている。近隣の住人も眠っているのか、もしくは夜だから静かに過ごしているのか、一人暮らしが多いのか、人の気配というものをまるで感じない。

 心寂しい空間。けれど、男はこの静寂に、ほんの少しの心地良さも感じていた。


 この道を歩き慣れているのだろう。男は、何か複雑に思考することもなく、淡々と歩みを進めていく。男が今考えていることといえば、明日の仕事のことと、今朝の失敗のことくらいだ。それすらも、ぼんやりとしか考えていない。


 慣れた道を慣れた足取りで歩いていたはずの男が、不意に足を止める。そこに大きな障害物か壁でもあったかのように、いや、ありえないものを見たかのように、唐突に立ち止まったのだ。

 うろたえる男の前にあったのは、障害物でも壁でもなかった。当然、存在を疑うようなでもない。ただ一人の女だ。長い黒髪を雨に晒し、冷えたアスファルトに座り込んでいる。その頬は、涙に濡れていた。

 いや、正確に言えば、頬を濡らしているのが涙だという確証はない。無論、状況からして、雨である可能性の方が高いだろう。けれど、男は涙だと思った。特に理由はない。強いて言えば、女が怯えたような顔をしていたからだろうか。或いは、震える肩を見て、そう感じたのかもしれない。


 その女は、白一色のワンピースを着ていた。それも、ノースリーブで薄手のものだ。

 どう考えても、二月四日の真夜中、雨の中着るものではない。それどころか、女は靴も靴下も履かず、そのワンピース一着以外になにかを身につけている様子もなく、よく見ると体の其処彼処に痣や切り傷があった。


「——大丈夫ですか?」

 その声かけで男の存在に気がついた女は、ばっと顔を上げると、いっそう怯えるように大きく目を見開いた。慌てて後退り、地面に手を擦る。男もまた、そんな女の様子を見て、肩をびくりと震わせる。

「あっその——あ、怪しい者じゃないですよ。本当に。そ、そりゃあ、突然声をかけられて驚いたと思いますけど、俺も驚いたというか——いや、俺が言いたいのはそうじゃないな……」

 辿々しい言い訳。こんな時でさえ保身を優先する自らの未熟さに呆れながら、男は弁解を続ける。

「と、とにかく、俺はただの平社員で、貴方を傷付けようとかは思ってないし、ええと……け、怪我してないですか、地面に手を擦ってたみたいですけど……!」

 女が後退る前から体が傷だらけだったことに、男は気付いていた。暗くて細かい部分まではよく分からなかったが、それでも気付けるほど大きな傷が、何箇所かに付いていたのが見えたのだ。

 そして、この質問が、女に良い印象を与えないのではないかということも、なんとなく理解していた。彼女はきっと返答に困るだろうし、仮に怪我をしていたとしても、こんな勢いで聞かれては答えにくいだろう。

 ただ、このまま弁解を続けては、墓穴を掘り続けるとしか思えない。だから話題を変えたい。それだけだった。


 数秒の沈黙。

 女は、警戒した目つきでじいっと男を眺めている。

 この人はだれだろう。どうしてこんなところにいるんだろう。てっきり、ここは人なんて通らないと思っていた。油断していた。まさか、こんな場所に、人がいるなんて。

 恐怖と焦りで激しく脈打つ心臓を、薄い布の上からぎゅうっと押さえつける。

「——ご、ごめんなさい、あの……」

 それ以上、言葉が出てこなかった。男の勢いに圧倒されたのではなく、人と出会ってしまったという事実に怯え、喉が締まってしまったようだ。


 だが、男はそうは捉えなかった。驚かせてしまった、怯えさせてしまったと、罪悪感に苛まれる。

 なんとか彼女の気持ちを解そうと、懸命に思考を巡らせる。けれど、男にとって、そういったコミュニケーションは苦手分野だ。

 まして、ある程度コミュニケーション能力に長けた者であっても困り果ててしまうような、今のような状況では、なにをどうしたら良いのかさっぱりわからない。


 ざあざあと、雨が降っている。

 男が一人で歩いていたときよりも、雨が強くなっているようだ。

 男は、目の前の女が傘もささず雨に打たれ続けていることにようやく気がついて、慌てて質素なビニール傘を女の頭上に差し出す。

「ええと……驚かせてしまってすみませんでした。その……雨も強くなってますし、二月にその格好は冷えますよ。お互い、家に帰りましょう。この傘は差し上げますから……」

 本当は、もっとまともなことを言うつもりでいた。けれど、男の脳裏に浮かぶ言葉はどれも、通報されかねないものばかりだったのだ。

 少し家で暖まって行きませんか。ネットカフェか居酒屋でも探して雨宿りしませんか。どこかの銭湯に行きませんか。一緒に着替えを買いに行きましょうか。ご自宅まで送って行きましょうか。

「……だ、大丈夫です、このまま帰れます……ありがとうございました……」

 女はふらりと立ち上がると、一度深く頭を下げて、男の進行方向の逆側に向かって歩き出した。

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