第二話
男は数秒、呆然と立ち尽くした。男は人並みの勇気しか持たず、気も弱く、対人スキルもまるで無かったが、お人好しだとか馬鹿だとか、よく言えば心優しいだとか言われるような人物でもある。
だから、当然、傷だらけの体で雨に打たれ、凍えながら帰路につく若い——おそらく未成年の——女のふらついた足取りを、無視して帰るわけにもいかなかった。
「あ、その、それじゃあ俺の連絡先を教えますから、何かあったときは——」
男の愚かな提案に、女は微笑みだけを返した。
全てを拒絶するような、悲しみの混じった笑みだった。
男はそれ以上なにも言えず、後悔だけを噛み締め、女の後ろ姿を見送った。
冷静に考えれば、警察を呼ぶだとか、もっと積極的に声かけを行うだとか、兎角なにかしらできることはあったはずだ。けれど、男には思いつかなかった。ただ困惑し続けて、たいしたこともできないまま、女をひとりで帰してしまった。
ああ、名前も聞けなかったなあと、男はぼんやり考える。名前を聞いておけば、もしかしたらまた出会えたかもしれない。
いや、名前を聞かなくても、もしかしたら会えるかもしれない。また明日も、今日と同じくらいの時間にこの道を通ろう。そして、明日も彼女がここにいたら、今度こそ名前を聞こう。
名前を聞くよりも、連絡先を渡した方が良いだろうか。何か力になれることはないだろうか。彼女を救うために、俺にできることはなんだろう。
徐々に、雨が弱くなる。
男は一人で立ち尽くしているのが馬鹿らしくなって、またゆっくりと歩みを進めた。
ビニール傘に雨粒が落ち、パラパラと音を立てている。数分前までの非日常が嘘のように、その景色は日常に戻っていた。
女が座り込んでいたアスファルトは、当然ほかのアスファルトとなんら変わりない様子でそこにあり、女に差し出していたビニール傘も、さっきまでと何一つ変わらない。
女に傘を差し出している間、ずっと晒されていたスーツが、まだ濡れているというだけ。
男の足が早くなる。だんだんと歩幅が広くなり、さっきまでとは比べものにならないほど早く歩いている。それだけではもどかしくなったのか、男は更に速度を上げ、ついに走り出した。
早く家に帰って、なにか小さな紙に、今日の出来事を書き留めよう。それから、付箋かなにかに、自分の連絡先を書いていつでも渡せるように持っておこう。
男はそれだけを考えて、小走りで自宅に向かう。
自宅も目前、もう後は階段を登るだけというところまで来ると、男が足を止めた。
小さな紙に細々と書くくらいなら、いっそ日記をつけてしまえばどうだろう。
それは唐突な思い付きだったのだろうが、今すぐ家に帰るつもりにもなれなかった男は、数秒悩んだ末、自宅とは違う方向に歩きはじめた。
ぽつぽつと、雨が降り続けている。
徐々に弱くなってきて、傘を差さなくてもなんとかなるくらいになった。
男は、自宅から少し離れたコンビニエンスストアに立ち寄ると、学生が使うような罫線のノートを一冊手に取る。
ついでにカップラーメンでも買って帰ろうかと少し悩んで、結局買わずに店を出た。
店を出る頃には、さっきよりも雨が強くなっていて、数十分前の非日常の時間を、強く思い出してしまう。
彼女は、無事に家に帰れただろうか——。
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