第31話 名前を呼ばれない男
7月の終わり。梅雨が明けて強い陽射しが照り付ける土曜日の午後に俺たちは逢った。
車で俺が1時間半、玲が30分で着く、とある展望岬に繋がっている駐車場が待ち合わせ場所だ。其処で、玲が自分の車から俺の車に乗り換えて一緒に近くのホテルに行くのがお決まりになった。以前、殊勝にも玲が提案した互いの自宅の真ん中くらいの地方都市で逢うことはとっくの昔になくなっていた。ある真冬にその都市で待ち合わせた時に、あまりの積雪に玲がギブアップして以来、此処がいつもの場所になっていた。
「高速走ると、ほんともう、虫がべったり付くね~。帰ったら真夏に『かあちゃん、高速で何処に行ってたの?』って言われちゃうな~」
助手席に乗り込んできた玲が言った。
ホテルに入って躰を重ねた後に、8月初めに多目的スタジアムで行われるライブの相談をした。元々、そのミュージシャンのファンだった玲が2枚チケットを取り、玲曰く、女友達と一緒に行くはずだったのだが、友達の都合が悪くなり、真夏ちゃんのスケジュールとも折が合わずに俺に話が回ってきたのだった。4万人収容のスタジアムをソールドアウトさせるミュージシャンだから、もちろん、俺もよく知っているミュージシャンだったし、好きな曲も数曲あった。しかし、俺に話が回ってくる順番は、この時には、少なくとも三番手の地位だった。
宿泊場所、集合時間、そして、この日は渋滞必至の幹線道路故にホテルからスタジアムまでの道順なんかを相談した。その後「もう一回したい」と言って後ろから抱きしめようとする俺の両手をするりと抜けて「真夏が家に帰る前に帰んなきゃ。車洗わないとだめだし」と言って玲は浴室に行った。
「玲って俺を名前で呼んでくれたことないよね。まあ、いいんだけど、でも、普段、心の中では俺を何て呼んでいるの?」
以前から、聞きたかったこれを、意を決するかのように浴室から出てきた玲に俺は尋ねた。
「ん?呼ばないよ」
「え…」
「それより、今度のライブ、もしも、知り合いに会っちゃったら、あなたは佐藤さんね」
姿見で自分の裸の体をくまなくチェックした後に、自分の髪を後ろで結びながら玲はそう言った。
「佐藤さんは、いつもあなたに話しているあたしの友達の旦那さん。わかった?間違えないでね佐藤さん」
なんと、玲にとって、俺は名前がない男だった。そればかりか、アリバイ用の『佐藤さん』だけはすぐに名付けられてそう呼ばれた。
俺は、まだ陽が落ち切っていない高速道路を、往きと同じくらいの羽虫の墓場をフロントガラスやバンパーに作りながら自宅に向かって走らせた。そして、帰宅後に、かつてのバイク二ケツ事件を例にとって、長い文章のショートメールで心中を吐露した。また、普段、玲が俺の名前を心の中でさえ呼んでくれていないことについて酷く傷ついたこと、もうだいぶ前から玲の素っ気ない態度に心を痛めていることも付け加えて送信した。
【あたしは何も変わってない。そうやって、疑うようになればなるほど、疑いは止められないものよ】
素っ気ないことや冷たい対応を認めることも、バイク二ケツ事件についても触れることなく、心の中でさえ名前を呼ばれないことに俺が傷ついていることにも全く触れずに、ましてや、『私を信じて』という言葉もなく、玲から返ってきたのはこのたった一言だけだった。
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