第29話 呼び水

 3月の彼岸の連休を使って実家への引っ越しをした。

 美砂は、4月から実家の街にある幼稚園に転園し、妻はパート先を見付けて隔日で働き始めた。

 俺は、古津ふるつ市にある振興局内の教育事務所で働き始めた。本城市での仕事と同じく、先生のための研修会や研究会の企画・運営をしたり、学校や園の現状やら課題やら要望などを把握して、県教育委員会の担当課に伝えたりする仕事をしていた。


 8月の初め、俺は5か月ぶりに本城市の振興局に出張で行った。大きな教育大会が本城市で行われるのでその応援として動員されたのだ。


 教育大会の準備が終わってから、宿泊先のビジネスホテルにほど近い中町の居酒屋のカウンターで、刺身の盛り合わせを肴に生ビールを飲んだ。




【玲、元気か?】


 俺は、ほぼ迷うことなくショートメールを送った。


【あら、めずらしい。元気よ。あなたは?】


 以前の玲と同じく、すぐに返信を寄こした。


【元気でよかった。俺も元気だ】


【どうしたの?突然】


 俺は、次の返信を打つのをいささか迷ったが、喉に生ビールを流し込んでジョッキをテーブルに置くと、すぐに指が動いた。


【本城に出張で来てるんだ。今、海栄うみえいで飲んでる】


【海栄って、中町の入口のところね。あなた、ひとり?】


【ああ、一人で飲んでる】


 次の返信までは3分ほど間があった。


【あと30分で行けるけど、行くとだめ?】


【いいよ。待ってる】



 俺は、半分くらいあったビールを全部体内に流し込んで、でも、ゲップは踏みとどまって、メニュー表を広げた。もちろん、玲が来たら何を注文すればいいかを考えるためだ。


 実家に引っ越してからの5か月間、俺は玲に連絡を取らなかったし、玲も俺にメールを寄こさなかった。

 考えないように、考えないように、と自分に言い聞かせてはきたが、結局、俺は欠かすことなく毎日、玲のことを思い浮かべていた。


(玲は、今頃、スイミングのレッスンを受けているだろうか)


(胸がどこにあるのかわからないくらいの薄い上半身、カモシカのような細い脚に見入っている男はいないだろうか)


(俺という男がいなくなって、玲は違う男といいことをして楽しんでいるんじゃないだろうか)


(俺が連絡するまで玲は自分からはしない、と決めているんだろうか)


(我慢しきれなくなって、玲の方からメールをくれればいいのに…)


 頭に浮かぶことは、どれもこれも貧しい妄想と願望ばかりだった。





「じゃあ、俺が先に部屋に行っているから、玲は少ししたら来てくれ」


 俺は、そう玲に言い残して、ロビーの左側にあるエレベータに乗った。

 俺が部屋に入ってから、2分くらいしてドアがノックされ、俺は玲を部屋に招き入れた。


「此処、初めて入ったけど、思ったよりも小さい部屋ね」


 バッグを小さいテーブルに置いた玲を両手で振り向かせると、俺は強く抱きしめた。


「玲、逢いたかった」





 『どうしたの?』とは聞いても、『なんで連絡を寄こしたの?』とか『もう、逢わないんじゃなかったの?』とは、けっして玲は言わない。

 なぜなら、自分が欲していたものがこうやって戻ってきたのだから。わざわざ玲の方からケチを付けたり追い返したりすることはしないのだ。




「あれ?退化してるんじゃなかったの?さては、使い込んでいたとか」


「まさか。俺は、あれ以来、まったく使ってなかったよ」


「それじゃあ、これは、なーにー?」


「退化しかけていたのを玲が目覚めさせたんだよ」


「あら、そうだったの。よかった、無くなってなくて」


「念のために、できれば味見してもらいたいんだけど」


「ん?下のお口で?それとも…」


「味見だから、上のお口でお願い」


「いいよ」





 正しいか間違いかじゃなく、欲しいか欲しくないか、で行動を決める。

 その晩、二人は同じ気持ちになって、同じ行動をとった。


 だけれども、その呼び水は、間違いなくこの俺自身が出したものだった。

 あの時の、あれだけの決心なんて、半年経たずに、いとも簡単に自ら壊しに掛かった、そんな俺だった。



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