第5章 名前を呼ばれない男
第28話 ここはどうするの?
本城市での勤務も三年が経とうとしていた二月の中旬に異動の内示をもらった。転勤先は、実家から程近い地方都市の地方振興局となった。
俺は、土曜日の夕方、いつものネカフェの駐車場で玲と待ち合わせをした。
「お待たせ… あれ?こっち?」
助手席のドアを開きかけたところで、俺が運転席に居ないのがわかった玲が後部座席に乗り込んできた。
「今日はね、大事な話が二つある」
「大事な話?嫌な話じゃなきゃいいけど」
「ひとつは、次の転勤先が決まったんだ。
「 …そなんだ。良かったじゃない、家から近くて」
「もうひとつは…」
「これから、最後になるホテルに行く、とか言わないでね」
「ああ、もう、これで玲とは逢わないことにしたいんだ」
「えっ?」
「すまん」
「なんで? 奥さんにばれた、とか?」
「いいや。ばれてないよ」
「あたしのことが嫌いになっちゃった?」
「いいや、それもない。むしろ、前よりも大好きだ」
「じゃあ、なんで…」
玲は俺の左隣に座っているけれど、俺の方に顔を向けて目線を外さずにそう言った。
「美砂なんだ」
「美砂ちゃんにばれたの?」
「いいや、むしろその逆でな」
「意味わかんない。もっとわかるように言って」
「玲と逢う時に、適当な理由を言って家を出るだろ。そうするとさ、美砂が玄関先まで来て『おとうさん、きをつけていってきてね』って笑顔で見送るんだ。前からずっとそうだったんだけど、最近、そうやって送り出されるのが酷く辛くなったんだよ」
玲は、今度は目線を下にして、瞬きしないで俺の話を聞いていた。
「もう、噓をつくのが辛いんだよ。で、次の転勤先も此処から遠くなって、今迄みたいに逢えなくなるだろうし、これを機会にもう逢わないでおこうって、さ」
目線を下にしていた玲の目から涙が二つ三つと腿に落ちた。
「あまりにも急だし、心の準備もできてないし、勝手だわ」
「わかる。玲のことを嫌いになったんなら、段々、そういうのが玲に伝わって『やっぱり』って感じだろうけど、これは、あまりに急で、理由は俺の勝手だ」
ここから先は、お互いに何も言うことなく、長い沈黙が続いた。おそらく、10分くらい経ったのではなかろうか。
「わかった。でも、ここはどうするの?」
玲は右手を俺の股間に這わせてそう言った。
「ここは… そうだな… きっと、使うこともなくなって退化して、そのうち無くなるんじゃないか」
そんな冗談を言ったところで、玲はクスリともしなかった。
もうだいぶ前から薄々、気が付いてはいた。
玲は俺に旦那さんとしての役割を求めていたし、俺は旦那さんの代わりを務めていた。俺は玲が自分を頼ってくる、求めてくることに満足感を得ながらも、同時に、玲に対する昔の復讐が実行されていることにも満足していたのだ。
自分の思い通りにならないとすぐに機嫌が悪くなり、思い通りになれば相手の状態を気遣うことなく喜び、自分はあけすけなくズケズケと喋るくせに、相手には気遣いを求め、自分の欲望の通りに正直に突き進む。そんな恋愛時代から結婚生活に至るまでの玲への復讐だった。そして、そんな復讐心を満足させる応えは、(な?俺じゃなきゃダメだろ?)と俺に思わせる玲の反応一択だった。
しかし、そんな復讐心も、思っていたよりも長続きすることなく、いつしかから、俺自身がどんどんと玲にのめりこんでいっていた。とっくに、玲に対する復讐は終わって二度目の恋愛を楽しんでいたのだ。
家を空けることが多い旦那さんのせいで、確かに、玲はやらなきゃいけないことの多さに苦しんだだろう。しかし、その一方で、玲は自分のやることや子どもたちに関する裁量権を得て自分の思うように動けるようになっていった。また、旦那さんの両親を他の場所に住まわせることで気遣いや嫁ならではの拘束から解かれていた。そして、何よりも「自由になるお金と時間」手に入れて存分にそれを使ってきた。それは、玲のパーソナリティにぴったり合っている生き方、だと思う。そして、おそらく、俺と一緒の生活では、手に入らなかったものだろう、とも思う。
と同時に、玲のそんな生き方の恩恵を俺自身もこの3年間享受してきたのだった。
だけど、もしくは、だから、玲のことを俺が嫌いに思う前に、俺のことを玲が嫌いに思う前に、まだ、家族が俺の後ろ髪を引っ張ってくれているうちに、別れる。
玲の言う通り、俺の勝手極まりない理由からの別れの告げだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます