第26話 雪降る中町
同じ冬のある土曜日に、玲の誘いを受けて
なんでも、古くから中町にある地元で有名な寿司店が、秋に洋風の創作料理店を出店したとかで、行きたがっていた玲が俺を誘ったのだ。
俺は創作料理なんてちっとも興味なかったし、雪深く寒い夜に出掛けるのも億劫だったのだが、珍しく玲が何度も誘ってくるので承諾することにした。
この年の
夕方5時にマンションの管理会社が除雪車を駐車場に差し向けるとの連絡が入り、俺たちマンション住人はこぞって車の雪下ろしをした後、隣のスーパーマーケットの駐車場に車を移動させた。赤ちゃんや小さい子が居て部屋を出れないお母さんたちの車なんかは、俺たち住人が代わりに雪下ろしをしてスーパーの駐車場に動かしてあげた。こういうピンチの時に、特別な打ち合わせをしなくても助け合えるのが田舎の数少ない良いところなんだろうと思う。
予定していた時間を少し過ぎた頃に黄色い大きな除雪車が駐車場に現れて、あっという間に奥のスペースに雪を押し退けた。奥に積まれた雪山はちょっとした標高になった。
「こんな日に飲み会なんてね、まったく気が進まないんだけど」
「でも、職場の送別会なんでしょ。しょうがないわよ。にしても、本当に駅まで送らなくてもいいの?まだ、だいぶ降ってるけど」
「いいのいいの、バスで行くから。こんな日に車の運転するの危ないもの。お前は家に居てくれ」
まったくもって時季外れではあるが、職場の同僚の急な転勤による送別会ということにして、俺はそそくさと玄関を出てバス停に向かった。路線バスは、タイヤチェーンの音を僅かにさせながらほぼ定刻に俺を乗せた。(さすが、雪国のバス会社だ)と感心したが、客は俺しか居らず、ノンストップで走行してきたからだったからかもしれなかった。
終点の本城駅のひとつ前のバスの営業所で降りた俺は、予め打ち合わせていた通りに、営業所内の待合室のベンチに座って玲を待った。俺の他には客は居らず、切符や定期券を売る窓口も閉まっていた。そう、こんな猛吹雪の夜にわざわざ出掛けようとする者なんていないのだ。
ベンチに座った俺は窓越しに降り続く雪を見ることなく見ていたのだが、目の前に黒いワンボックスカーが信号待ちで停まると目が釘付けになった。運転席の男の横顔は、紛れもなく、玲の旦那さんの竹石 徹だった。俺はベンチの座る位置を右にずらして助手席の方を見入ると、笑顔を混じりで旦那さんの方を見ながら話している玲が見て取れた。
「おまたせー!遅れてごめんね。ほんと、すっごい降りだね」
「ほんとにね。うちはさっき、駐車場に除雪車が入ったよ」
「あ、そうなんだ。うちは、消雪パイプあるけど、それでも車出すのに一苦労したわ」
「遅れるって店に電話してないけど、いいかな。此処からすぐだしね」
本家の寿司屋の隣に建てられた創作料理店の白いドアを開けると、暗い空間に、テーブルだけを照らすダウンライトの店内が目の前に現れた。唄の無いジャズが流れる中、俺たちは店員に案内されて向かい合わせに座った。
客は、どうやら俺たちを含めて二組だけだったが、この降雪だから不思議ではないと思った。
運ばれた料理を大方食べ終わると、玲が俺の隣の席に移動してきた。
「ん?どした?」
「隣じゃだめ~?」
大きいグラスにまだたっぷり残っているモヒートを口に運びながら玲は言った。
「いや、だめじゃないけどさ。それより…」
「それより、なによ」
「玲は、旦那さんに何て言って出てきたかわからないけどさ、俺と会うのに、旦那さんに送らせるのはやめてくんないか」
「あら、見たの?」
「ああ、営業所からな。ちょうど、目の前で信号待ちで停まったから」
「あたしが、どうやって来ようがあなたには関係なくない?」
「まあ、そうなんだけど、待合室で旦那さんのあんな笑顔を見ちまったらな。ひどく悪い気がしてな」
「じゃあ、送ってもらわなければ悪くないとでも?」
ここまで玲に言われると、俺は言い返すことができずに、代わりにジンジャーハイボールのグラスを口に運んだ。
この時間、俺たち以外のもう一組の客は帰り、従業員も店内に姿を見せなくなっていた。
玲が右手を俺の鼠径部に潜り込ませながら顔を近づけてキスを求めてくる。
「おい、いくらなんでも店の中だぞ」
「だいじょうぶ。誰も居ないじゃない」
玲と違って俺は目を閉じることなく周りに注意しながら、それでも、濃厚な口づけをしばらく味わった。
「あなたに会うまで、あたし、性欲とは無縁だったわ。子育てとヘルパーの仕事の両立で精一杯だったから、望む暇もなかったの」
長い口づけから顔を離して、もう半分にまでになったモヒートのグラスに口を付けながら玲は言った。
「じじいは、家をずっと空けているから、子どものスイミングや塾への送りはあたし。もちろん、食事・洗濯・掃除も全部あたし。3人の子どものトラブルの処理や進路の相談もあたし。子どもたちをどこかに遊びに連れて行くのも家計のやりくりも、み~んなあたしなの」
「旦那さんは家を空けることが多いといっても高給取りだから経済的には心配要らないし、子どもたちもこうやって曲がらないで素直にすくすくと育っていて、それなりに幸せなんじゃないか。だから、それ以外に手に入るものとしていろんなことを求めたくなるんじゃないか?」
俺はあまり考えずにもっともらしいことを言った。なんとなく、そういう風に収めるように言った方がいい気がしたからだ。
「失敗した。やっぱり、あなたがよかったわ」
玲は、モヒートのグラスを見ながらポツリとそう言った。
「そうは言っても…」
と言いながらも、その先の言葉が出てこなかった。
でも、「あなたがよかった」という玲の言葉が、俺の額の内側にべったりと貼り付いてその感触がとても心地よかった。恋人同士の時代、結婚生活の時代を通して俺の方が正しかったんだというある種の優越感を感じ、俺にしなだれかかっている玲を愛おしく感じたのだった。
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