第25話 プール 

 夏前から始めたジョギングを秋の中頃まで続けた。雨が降っていなければ毎回10キロを走った。マンションから出て1キロくらい走ると田んぼだけになり、どこまでも真っすぐに続くアスファルトの農道を大きくぐるりと周り、扇川おおぎがわの土手に出て、玲が住んでいるマンションの前の道を走り、自宅のマンションに帰ってくるコースだった。

 仕事が休みの日は日中の空いている時間に、平日は仕事から帰ってから家を飛び出して走った。時々、農道じゃない街中まちなかの道で、子どものスイミングの送迎で走る玲の車と遭遇した。玲が何て言っているのかわからないが、車に乗っている子どもたちが窓を開けて俺に手を振ってくれた。俺は微妙な面持ちになったが、手を振り返した。長男のリュウヘイくん、次男のショウタくん、そして、矯正の眼鏡を掛けた女の子が真夏ちゃんだ。普段、玲から子どものエピソードを聞かされたり、時には、相談も受けていたから名前も覚えてしまった。


 体重はみるみるうちに落ちていき、見た目もシュッとした体形にまでなったが、秋を迎えて右膝の内側の部分が痛むようになり、落葉が舞う頃にはとうとう、走れないくらいの痛みになった。何年も運動らしい運動をしてこなかった上に、10キロの距離を走ること自体、この歳で初めてだったこともあって痛めたんだろうと俺は思った。これは、だいぶ後になってわかったことだが、無理をした、というよりは、シューズに問題があった。ジョギングを始めるにあたって、俺は大型スポーツ用品店でランニングシューズを買ったのだが、それは、上級者用の超軽量のレースタイプのシューズだった。超軽量なので、もちろん、足はサクサクと前に出せたんだろうが、薄くて反発性の強いソールが初心者の俺の脚への負担を加速させたのだった。その結論に行き着いた数年後のジョギングの再開の時には、前よりも厚いソールのシューズを履き、その後は膝の痛みは再発していない。


 膝の痛みを発症した当時の俺は、多くの無知のランナーがそうであるように、整形外科を受診してレントゲンを撮られ、湿布を渡されて「無理をしないで様子を見てください」と言われてその通りにしたが改善はしなかった。

 その後、職場の同僚に教えてもらった評判のいい接骨院に行って電気を当ててもらったりしたが此処も駄目。

 ネットで検索して飛び込みで入った整体院で症状を言うと、その整体師は膝なんてちっとも触らずに同じ右足の腿裏だけを40分くらい揉んだだけだったのだが、痛みはすっかり無くなった。なんでも、その整体師が言うには、腿裏の血流が悪いせいで膝に痛みが発したとのこと。俺は、腿裏のツボを整体師に教えてもらって自分でマッサージすることで痛みを和らげることができるようになった。


 とはいえ、冬になって積雪ともなると、さすがに屋外を走ることはままならず、自宅から車で30分ほどのところにある屋内プールに通うことにした。

 ボートレースの収益金により全国にこのような施設を持つ公益財団法人が経営している25メートルの温水プールだが、夜のこの時間に個人的に利用しているのはほんの数名だけで、コースロープで仕切られた2コースを使って泳げるようになっていた。コースロープを外したそれ以外の7割のスペースでは、ダイエットを志すおばちゃんたちのプールエクササイズが行われていることが多かった。

 俺は、水の抵抗を利用したウォーキングをしたり、ビート板を使ったバタ足や平泳ぎで往復していた。

 プールエクササイズのおばちゃんたちの最初のメニューはウォーキングなのだが、20人くらいの集団で同じ方向を周回することでプールの水が大きなうねりとなって俺を襲い、俺は小舟のようにコースロープに打ち付けられた。


 そんな話を笑いながら聞かせたら、玲が「あたしも一緒に泳ぎたい」と言うものだから平日のある日に約束した。

 脱衣所から水着姿の玲が後ろ手にゴーグルを付けながら歩いて来た。小柄ながら、その姿は、まさに、スイマーの体つきだった。エクササイズのおばちゃんたちは、すでに、ウォーキングを終えて、音楽に合わせて片足ずつ水面につま先を上げる運動に入っていたが、それ自体が滑稽に思えるほど対照的な玲の姿だった。


 まずは、クロールを泳いで見せてくれたのだが、昔の運動音痴的な泳ぎしか知らない俺にとって、それは驚愕の姿だった。水への鋭い腕の入水、キレのいい腕の返しと抜き、ほんの少し顔を横にして息継ぎする無駄のない動き、低い丈ながら力強い水しぶきを上げるバタ足…どれをとってみても綺麗なクロールだった。

 ボーっと見ていることしかできない俺の元にあっという間に帰ってきた玲はゴーグルを額に上げながら「じゃ、泳いでみて」と言った。

 クロールを教えてもらう予定なんてなかったのだが、俺は言われるまま10メートルほど泳いだ後、振り返った。戻ってきて、という仕草を玲がしたので戻ると、それだけでもう息が切れていた。


「えっと、まず、泳いでいる時にどこ見ている?」


「どこ見てる… そうだな、前の方だな」


「それじゃあ、水の抵抗を受けて進まないわ。顔は真下を見て。それから、手を入水するときは…」


 こんな感じで4つくらいのことを教えてもらって俺は短い距離を泳いでは玲の教えを受けたのだが、上手くなっている実感はちっともなかった。できたのは、せいぜい、視線をプールの底にすることくらいだった。


 すっかり息が切れて、俺が休憩を申し出ると、プールサイドの一角にある体を温めてリラックスさせるためのバスタブみたいなところに誘われた。

 入ると、プールの水よりもさらに温かくて気持ち良かった。


「玲が、あんなに上手に泳げるとは知らなかったよ。ほんとに驚いた」


「ううん、これでも、まだまだ課題は多いのよ」


「昔の玲を今のコーチに見せてあげたいくらいだよ」


「ふふふ、それならコーチだって知ってるわ。あたし、ゼロから始めたんだもの」


「あ、そっか。よく、ここまで上手くなったね。ほんとすごい」


 俺は思っていることをそのまま言葉にした。


「時間を掛けて練習すれば、あたしくらいになんて誰でもなれるわよ」


 まだ続いているエクササイズのおばちゃんたちを眺めながらそう玲は言ったが、俺はちっとも頷けなかった。


 そうこうしているうちに、玲の右手が、俺の水着のトランクスの下から入ってきた。


「玲…」


 俺のはすぐに反応して硬くなった。


 玲は、エクササイズのおばちゃんたちを横目で見ながら握った手をゆっくりと上下させた。



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