第17話 杜とラフォーレ
短い口付けは受け入れてくれたものの、玲の涙の理由は、とうとう聞かず終いだったし、玲も言わず終いだった。
強いて言えば、「奥さんと子どもと同居するようになったら、もう、あたしとは会わない?」という玲の問い掛けと、ちっとも考えていなかったという俺の返答のせいではないかと俺は考えた。しかし、俺の返答はまさにその通りであって、妻子が引っ越してくるからといってもう会えないとも考えていなかったし、何も決めてはいなかったのだ。
今、こうして一人になって自分に確かめてみれば、むしろ、今まで通り会いたいし、会ってもっと濃厚に接触したい、という気持ちに他ならない。
携帯電話を手に取ってはみるものの、ショートメールで意思表明するには重すぎる内容だし、かといって、さっきネカフェの駐車場で別れたばかりなのに、「会ってくれないか?」と言い出すのもいかがなものかと思われた。
結局、お互いに連絡を取り合うことなく、日曜日と平日の5日間が過ぎてしまい、土曜日になって俺がいつものネカフェに行かなくても、今度は、玲から連絡が来ることもなかった。
(妻と娘がこちらに引っ越してくるのは明日の午後…おい、達哉、このままでいいのか?)
(玲は、最早、俺とは会えないと決めて掛かっているのではないか)
「もしもし、玲、今、ちょっといいか?」
「いいよ」
「今夜、もしよかったら、
「杜に?う~ん… ちょっと、待ってて」
玲が誰かに向かって何かを話している様子が電話越しでわかった。
「何時?」
「俺は何時でもいいけど、玲は?」
「あたしも、いいけど」
「じゃあ、18時はどうかな。もしよかったら、俺が車で迎えに行くけど」
「じゃあ、あたしのマンションのすぐ近くにセブンがあるのわかる?」
「わかるよ」
「そこに18時でいい?」
「わかった。じゃあ、行くね」
先週の涙が嘘のような普段のトーンで玲は受け答えをしたことに少しホッとして、そして、少し残念な気もした。普段は冷たいくらいの強気な言動の玲が、理由はさておいて涙を流すしおらしい態度を取ったこと自体に、俺はある種の優越感を覚えていたのも事実だったからだ。
「おまたせ」
車の助手席に乗り込んだ玲は、淡いカラフルな細い線で彩られたチェックのブラウスにアイボリーの薄いロングスカートを着ていた。
「杜のマスター元気かな」
「ああ、きっとね。奥さんもきっと元気だよ」
「杜には何回か行ったの?」
「うん。スキーの帰りとかにね。そうだな、2、3回くらい行ったかな」
「あたし達が二人で行って、びっくりしないかな」
「ああ、さすがにそれは、びっくりすると思うよ」
本当は、玲と離婚して以来、この本城市には年に1回は訪れて、その度にレストラン杜を訪ねていたので10回くらいは来ていた。桜や蓮池など名物は季節で限られ、他はどうってことのない街なのだが、妙に親しみが湧いて車を飛ばしてついつい来ていた。“いつか、どこかで、玲とまた逢ったりして…”という気持ちが無かったか?と尋ねられれば否定はできない心のパーセントがそこにはあったはずだ。
「こんにちは。マスター、お久しぶりです。今日はゲストと一緒です」
「こんにちは。マスター、奥さん、ご無沙汰しています」
「いらっしゃい。お、これは…どういうこと?」
「ま、偶然にこの街で会って、此処に久しぶりに来てみるかってことになりまして」
「今、どこに住んでるの?」
「えっと、言いにくいんですが、実は、ずっと此処に住んでまして」
「あ、そだったの。柚木さんはそれでも、ちょくちょく顔出してくれたけど、あんたはちっとも顔出してくれなかったじゃないの」
「えへへへ」
およそ15年ぶりくらいの再会になるマスターと玲との会話だった。
レストラン杜は、俺たちが離婚した頃に建て直されて、広い店内と広い駐車場の店に生まれ変わっていたが、店を切り盛りしているマスターは真っ白になった髪の毛以外は、気さくな人柄も含めてちっとも変ってはいない。
「何にしよっかな~。あ、ミートソースもまだある。ナポリタンも。あ、豚汁に、カキフライに、とんかつ野菜入りも!」
「俺は、とんかつ野菜入りにするよ」
「じゃ、あたしも!」
「マスター、とんかつ野菜入り定食を二つお願いします」
「はいよ」
俺たちは小上がりや、テーブル席には座らずに、厨房が丸見えのカウンター席に横並びに座って、マスターや奥さんとお喋りしながら料理の出来上がりを待った。
マスターが作るとんかつ野菜入りは、細かく刻んだ野菜を厚さ1センチくらいの豚肉で包んでそれに衣を付けて揚げる。歯ごたえや風味のミスマッチがとても美味しい。少々柔らかめのご飯と薄味の味噌汁と一緒に俺たちはほくほくと食べた。
付き合って、結婚して、離婚して、と俺たちの素性の全てを知っているマスターと奥さんは、嫌な顔一つせずに当時と変わらない料理を作ってくれて、俺たちの昔話にも付き合ってくれて俺はとても嬉しい気持ちになった。そして、おそらく、玲も同じ気持ちだったんじゃないかと思った。
「なあ、玲、杜に来てよかったか?」
「うん。よかった」
「じゃあさ、もう一軒、モリに行ってみるか?」
「もう一軒のモリ?」
「ああ、ラフォーレっていう森さ」
「ラフォーレ… え?マジで?」
「ああ、俺、そういう気分なんだ。いい?」
「うん。いいよ」
俺は、車のエンジンを始動させて、国道沿いのホテルラフォーレ本城に向けてハンドルを切った。
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