第16話 波の花

「此処は…」


「覚えてる?」


「あの、階段を降りてくと海岸の?」


「そう。結婚する前に、玲の運転する車で此処に来て、波の花を見たの」


「すごい風で、寒かったよね」



 あの日は、雪は降っていなかったものの、冬の強い季節風が海から吹き付けていた。

 海中にただよう植物性プランクトンに含まれている粘液が海の波にもまれて、石鹸状の泡となるのが“波の花”だが、強い風と低水温、そして波の高さや海岸の地形といった条件がすべて揃って起こる現象なので、当時、見られたのは幸運だったと思う。

 詳しいことは覚えていないけれど、あの日、何の前触れもなく玲が俺を誘って、今日と同じようにFMラジオを聴きながら玲が車を走らせ、当時はまだ営業していたドライブインの駐車場に車を停めた後に、店の脇の階段を二人で降りて行った。


「あの日は、風が強かったけど、波の花が出てるの知ってて来たの?」


「まさか。あたしにそんな予知能力はないわ」


「じゃあ、まったくの偶然、いや、幸運だったな」


「でも、その幸運は、あたし達の行く末には関係なかったようだけどね」


 そんな会話をしながら、店の脇の狭い階段を降りて行った。階段はすれ違うことが難しいくらいの狭さだったが、当時は付いていなかった両脇の手すりにつかまりながら降りて行った。


 階段の降り口には当時と同じに海がどこまでも広がっていたが、頭大の石だけでなく、コンクリートが階段状に敷き詰められていることから、此処がだいぶ整備されたことが分かった。


「こんな風に整備されていれば、冬に此処に来ても波の花を見れないかもしれないね」と言った俺の言葉に玲は反応することなく、右手で陽射しを遮りながら沖の方を見ていた。

 

 当時、此処に来た時も、二人とも黙ったまま、波打ち際でもくもくと湧き上がってきたり、強風で細かくちぎれて上空に飛んでいく泡を見ていた。だいたい、喋っても相手に声が届かないくらいに風や波が大きな音を立てていたからでもあった。


 「予知能力はない」と玲はさっき言っていたが、普通なら訪れる人なんて居っこないこの穴場的な海岸を玲が当時なぜ知っていたのか、俺は疑問だった。おそらく、俺以外の男にでも連れてこられたことがあるんだろうとは思ったけれど、当時はそれを尋ねるのが妙に怖くて聞きそびれていた。もちろん、今だって聞く気にはなれないけれど。


 今日は風もなく、穏やかな晴天だけれど、玲は当時と同じく、何も喋ることなく、ただひとしきり海を見て、そして踵を返して「戻ろ」と静かに言った。



 俺が想像していたよりも遥に玲の反応は薄かった。だいたい、自然ものの美しさに感嘆の声を上げるタイプではない玲ではあるけれど、それにも増して、玲は無反応だったことに幾分なりともがっかりしながら車のドアを閉めた。


「なんか、此処に来るの、うまくなかった?」と俺は恐る恐る尋ねた。


「ううん、そんなことないよ」


 今度は、玲の側になった海を車窓から眺めながら言った。


「そんなことないよ」の返事の時の玲は幾分なりとも「そんなことがある」のだ。しかし、それが何かを尋ねても玲はきっと答えないだろう。その辺りは、昔から変わることのない玲のパーソナリティだ。肝心なことにはいつだって口をつぐむ。それは、きっと玲の生い立ちも関係しているのかもしれない。寡黙で頑固なお父さんと、喋りすぎるくらいに喋っていろいろとお節介やら斟酌しんしゃくしてくるお母さん、アイドル並みの可愛い顔をして頭脳明晰だったお姉さん、そして、反抗期と相まって、家族にバレないようにいろんな悪さをしていたらしい玲。正直に話すことで逆に責められ、自分自身や友達が窮地に何度も立っていれば、“黙して語らず”が最善の方法であることを自らの体験から学んできたのかもしれない、当時、俺はそんな勝手な想像をしていた。 

 そして、思ったことを嫌味や皮肉を交えてストレートに言う性格ながら、自分の窮地では謝りもせずにだんまりを決め込む、そんな玲に当時の俺は苦しみ、そして、別れを告げたのだ。

 いや、そんなことを振り返るのは今はやめよう。今の俺たちは、互いに家族があってそれぞれにそれなりの幸せな生活を営み、懐かしい思い出と共に、利害を交えることなくこうやって一緒の時間を過ごしている仲なんだから。


「ねえ…」


「ん?なに?」


「奥さんと子どもと同居するようになったら、もう、あたしとは会わない?」


「い、いや… なんも考えてなかった。そんなこと」


「そう…」


 玲は、海の方を向いたまま、そう言った。


 俺は、ハザードランプを出して、国道から待避所に車を滑り込ませた。


「玲…」


 玲の涙が頬を伝っていた。


「どうした?なんで泣く?」


 涙を拭くことなく俺の方を向いた玲は、もちろん、何も言わない。いつだって、肝心なことは黙して語らずだ。


 俺は、シートベルトを外して、こちらを向いたままの玲に口付けた。


 玲は、何も言わず、その代わりに、目だけを閉じた。



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