第3章 蜂蜜の湖

第12話 下駄とスカート

 アーケード街の洋風居酒屋に18時5分前に着いて、ほぼ満席の店内の廊下を歩いて、4人掛けのボックス席みたいな席に案内された。

 席は、廊下に面したところだけがオープンで、あとの三方は高い壁に仕切られている半個室のような感じだった。歩いてきた廊下を挟んだ向こう側が壁になっているので、廊下を真ん中にして両側の半個室が互い違いにあつらえられていることになる。


 メニュー表をなんとなく見ていると、間もなく玲が席にやって来た。

 玲は、アイボリーのヘンリーネックのTシャツに、ふわふわしたカラフルなロングスカート、そして、足元は素足に下駄を履いていた。


「おまたせ。だいぶ待った?」


「いや、ほんのさっき着いたところだよ。にしても、その姿に下駄って、またいいね」


「でしょ?これなら服装を選ばなくても履けるかなって。かわいいでしょ?」


「ああ、いいね。じゃ、座って。んと…飲み物何にする?」


「ん?何があるのかな~」


 玲がそう言ったので、飲み物のメニュー表を玲の側に向け直した。


「あなたは?」


「俺は生で」


「じゃ、あたしも、最初は生で。料理は、サラダかなんかあれば、あとはあなたのお任せで」


 俺は、店員を呼び出すボタンを押して、飲み物と、枝豆と、3人前のお造り、そして何種類かの串焼き、そして、シーザーサラダを注文した。

 玲の好みが変わっていなければ、悪くないはずだ。


「って、こんなところでよかったかな?」と注文した後なのに俺がそう尋ねると、「うん。いいよ」と玲が答えた。


 俺の真正面に座っている玲の髪は肩よりも10センチばかり長くて、真ん中辺りから毛先まで緩やかなカーブを描いて胸の上に静かに居た。結婚していた時よりも遥に痩せていたし、顔の輪郭も一回り小さくなった感じがした。若い頃、腕枕をすると酷く腕がしびれたものだが、この頭なら大丈夫そうな感じがした。顔の方は、以前は少し両顎が張り気味だったが、それも削ぎ落とされ、顎の先端に向かって綺麗な逆三角形を描いていた。相変わらず唇は薄く、話すと、獅子舞のようなきれいな歯並びが見て取れた。目元のメイクは以前よりも少し濃くなったような気がするが、ケバくはなかったし、玲を上手く引き立てている気がした。


「なに?そんなにじろじろと。老けたっって?」


「いや、あれから何年も経つというのに、綺麗になったな、ってね」


「そ?」


「ああ、なんと言っても、その…細さがな。びっくりだ。なんかしてるの?」


「スイミングね。子どもと一緒に始めたのよ。もう7年になるかな」


 お待たせしました、と言って、店員が生ビールを持ってきた。


「じゃ、思いもしなかった再会に」と俺が言って乾杯した。


「玲がスイミングっていうのが、まず、想像つかないよ。昔は、1メートルだって泳いだことなんてなかったじゃない」


「あ、あのホテルアクアピアの、とか?」


「そうそう。二人で行ったって、サウナにずっと入って、流れるプールで冷ましての繰り返しだったし」


「それがね。本気出して取り組むと、結構泳げるようになるものなのよ。毎年9月にマスターズの大会があるからそれを目指して頑張ってんの」


「週何回くらい行ってるの?」


「火曜日と土曜日は毎回行って、あとは、仕事の入り具合をみてね、行けたら行くって感じ」


「そんなに…それは、びっくりだ」


 付き合っていた頃も、結婚していた頃も、時々、遊びでテニスをやる以外は、玲はスポーツそのものに無縁だった。


「あなたは、なんかやってるの?けっこう、恰幅かっぷくよくなっちゃったみたいだけど」と玲が枝豆を食べながら言った。


「もう、何年も何もしてこなかったんだけど、さすがに、これじゃ駄目だろって思って半月前からね、走るようになったの」


「走るって、どれくらい?」


「基本、毎日10だよ」


「10って、10キロ?」


「ああ、そうだよ」


「すごいね~あたしは泳ぐけど、走らないの。走るの嫌いだから」


「俺は、走るけど、泳がないの。泳ぐの嫌いじゃないけど息がもたない」


「ねえ、今度一緒にプール行ってみない?教えてあげるよ」と玲が言った。


「いやあ、泳ぐのはどうなんだろ」


 突然の玲からの誘いに困惑してそんな返事になった。


「煙草は?やめた?」


「いや。ほら…」


 と言って、ポケットから煙草とライターを出した。


「変わったのね。ラッキーストライクは?」


「ラッキーストライクか、懐かしいな。今じゃ、あんなきついの吸ったら倒れるよ。なんかね、試しに吸ったメンソールが良くなってね。メンソールの刺激が一番強いのが1ミリだから、これにしてんの。」


 俺たちは、店員が次々に持ってくる料理をつまみながらしばらく昔話をした。




「で、奥さんは、どんな人?」


「どんな、って、至って普通の人だよ」


「実家ともうまくやってるの?」


「ああ、なんとかね。それだけを考えて結婚したようなもんだから」


「どうやって知り合ったの?」


 案の定、玲はグイグイ聞いてくる。昔からそうだ。


「妹の紹介でね。妹と同じ職場だったから。『兄ちゃんには、こういう人がいいと思うよ』ってね」


「仕事は、なにやってんの?」


「美容師だよ」


「ふ~ん…何歳差?」


「う~ん…8つ下」


「えええっ?それ、犯罪級じゃない!」


「まあ、地味な人なんで、そんなに歳の差を感じないんだよ」


「ふ~ん…」


 自分から聞くだけ聞いておいて、羨むようなネタだとわかると不満げになるのが玲という女だった。


「玲の旦那さんは、どんな人?」


「どんなって、普通の人よ。うちのは」


「何歳差?」


「じじい、よ」


 自分は聞きたがるくせに、尋ねられると途端に口が重くなるのも昔から変わらない。


「じじい、って、何歳上よ?」


「五つ」


「お仕事は何してる人?」


「自然災害の研究してんの。土砂崩れとか鉄砲水とか」


 それを聞いて、もしや、と俺は思った。


「もしかして、NHKとかローカルのニュースに出たりしてない?」


「してる」


「やっぱり。竹石って苗字、どこかで見たような気がしてね。すごい人と結婚したんだな」


「すごくなんてないよ。家にはほとんどいなくて、全国を飛び回っているし、騙されたわ」


「にしても、立派に3人子どもつくってるじゃない」


「もう、あたしから『お願いします』って頼み込んで、よ」


 うすら覚えの竹石さんと玲とのセックスを俺は思い浮かべた。






 

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