第09話 そして、到達したところ

「おはようございます」


 俺は、7時53分にいつものあの踏切に捕まったから、8時少し過ぎにデスクに付いた。


「柚木さん、おはよう。どう?玲ちゃんから連絡来たぁ?」


 加藤さんが意味ありげな視線を送りながら尋ねてきた。


「あ…いや、はい。また、ネカフェで玉を撞いただけですけど」


「あら、そなの。ま、それ以上の…っていってもね~お互い家族あるんだし…」


 自分で話題を振っておきながら、加藤さんはたしなめ半分にそう言った。



 現在の俺は、県の公務員として、本城市の地域振興局内にある教育事務所で働いている。教育事務所とは、いわば、県の教育委員会の出先機関で、管内の公立小・中学校等や市教育委員会に対し、指導及び支援を行う仕事だ。指導及び支援といえば偉そうな感じだが、先生のための研修会や研究会の企画・運営をしたり、学校や園の現状やら課題やら要望などを把握して、県教育委員会の担当課に伝えたりする何でも屋のような仕事だ。本城市のこの職場に転勤した前も、実家からほど近い市の教育事務所で同じような仕事をしていた。

 自分がこうやって教育的な仕事場に居るのも、此処、本城市にある教育大学の大学院を修了したからなのかもしれないが、実際には、今まで語ってきたように、怠惰な院生生活と、そして、ごたついた修了だった。


 他の院生が一年生の冬から取り組んでいたのに対して、二年生の秋からようやく修士論文の準備を始めた俺は、締切ギリギリで修論を提出したものの、内容が不十分、ということで「不可」の沙汰をもらった。

 

「修士論文の発表会の日程を此処に貼っておくから見ておくように。ただし、全員が発表できるとは限らないけどね」


 人文地理学の助教授が俺を見ながら研究室でそう申し述べたことを今でも覚えている。

 そして、俺以外の19人が、大学構内に新しくできた講堂のこけら落としも兼ねた修士論文発表会で発表をしている頃、俺は、アパートで論文の書き直しをしていた。


 そして、皆から遅れること2カ月、5月のある日、俺だけのための修士論文発表会が行われた。

 発表会を経て、晴れて修了した19人の院生が、一人15分の発表に5分の質疑だったのに対して、俺の発表は60分。質疑応答は時間無制限だった。

 会場は、もちろん、講堂ではなく、多目的室みたいなところで行い、社会科コースの教授、助教授、講師、そして、どこから呼んできたのか、見たこともないような偉そうな先生みたいな人も居て、コの字型に机を並べた会場に立った俺は、席の一番遠い所に誰が座っているのかわからないくらいの「多勢に無勢」感を味わった。

 この措置は、完全なる懲らしめであろうと俺は思ったが、これを乗り切らない限りには修了が無いわけで、俺は必死に1時間喋り、訳の分からない教授陣からの質問にもできる限りのことを答えた。


 7月のある日、俺は、大学の学長室に呼ばれて、たった一人の修了式を行ってもらった。

 写真でしか見たことが無かった白髪頭の学長が修了証書を読み上げた後、「柚木君、いろいろあって大変だったことだろうと思いますが、今後、この経験を生かせるようにしてください」という言葉を掛けながら俺に修了証書を授けた。


 だから、俺の履歴書の最終学歴の欄には「○年7月修了」と毎回書かなくてはならない。

(そんなの3月に決まっているだろうが)と今まで思っていたが、そうではないことを身を持って体験した。



 4カ月遅れで修了した俺は、親からの命令で実家から程近い市に引っ越して、バイトをやったり、非常勤で役所勤めをしたりして食いつなぎ、実家の神社の仕事も手伝った。その間の2年間、玲とは遠距離になったわけだが、月に1~2回程度、土日にどちらかが赴いて関係を続けた。


 最初は、淋しがっていた玲だったが、遠距離も2年目になると、変化が表れてきた。

 それは、もちろん、玲の方の変化で、電話をしていても、久しぶりに会って体を重ねても、俺に対して距離を置いている感じが否めなくなった。


 玲が100km離れている俺のアパートに泊まり掛けで来る約束をしていたある土曜日の朝に電話があり、風邪をひいたから行けない、と言われた。

 電話を切ってから、それまでの玲に対する悶々とした感じが現実ではないのか、と思った俺は、すぐに身支度をして高速バスで本城市に向かった。


 2時間バスに揺られ、停留所から歩いて10分くらいのところにある玲の実家を訪ねると、母親が玄関に出てきた。


「玲ちゃんの風邪の具合はどうですか?心配だったのでお見舞いに来ました」と俺は神妙に言った。


「あら?玲は、お昼に銀行の友達のバイクで出掛けたんですわぁ」


 サーっと血の気が引くような感触と共に、鈍感だと思っていた自分の勘が、こんなところで当たることを恨めしく思う気持ちにすぐに声が出なかったが、かろうじて、近くの公園で待っている旨をお母さんに告げて俺は玄関を出た。


(風邪をひいて俺のところに来れない奴が、バイクにニケツして出掛けるか?)


(今までの、あの素っ気ない態度はやっぱり…)


(今頃、玲は、そのバイク野郎と…)


 俺の思考は、その3つを堂々巡りするだけで、どこにも辿り着かなかったし、ひっきりなしに吸う煙草の本数が増えるだけだった。


 途中、一度だけ、お母さんが公園に来て、家に上がって待つように言ってくれたが、こんな状況でお母さんとどんな話をすればよいのかわからなかった俺は丁重に遠慮して、なおも公園のベンチに座って待ち続けた。


 待ち始めてから3時間後、玲が走ってやって来た。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 半泣きになりながら玲は謝った。


 珍しく謝る玲の態度よりも、俺が欲しかったのは、嘘までついてその銀行の同僚とやらのバイクにニケツして何をしていたか、という説明だった。


「銀行の同僚から相談に乗ってほしい、と言われて…」

「風邪は…本当に朝は、具合悪かったの…でも、治ったから…」


 俺がどんなに聞いても、それ以上は玲は答えなかった。


 そのうち、犬の散歩の帰りだと言わんばかりのお母さんがやって来て一緒に謝り始めたものだから、それ以上、玲を責めることはできなかった。


 玲がどういうときに嘘をつき、一旦、嘘をついてしまえば、頑として「本当は…」と正直に話すことなく貝のように口をつぐみ通すことを俺は知っていた。


 玲と別れるのであれば、この場面もその機会だったんだろうと思うのだが、この時も俺は許したのだ。


 いろいろと考えた末に辿り着いたのは、悔しいかな、俺は、心底、この玲に惚れているんだろう、ということだけだった。





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