第06話 「柚木さん」
俺は、ハイボールの3個を連続してポケットインさせて、4個目はミスした。
って、実は、わざとミスして、玲と交代した。
いい気になって落とし続けてほぼ勝負を決める状態にして、今までどれだけ痛い目に遭ってきたことか、俺は身に染みているからだ。
玲は、1週間に2日くらいWithに来て玉を撞くようになった。
あの、年上の彼氏と一緒ではなく、一人でだ。
しかも、そんな玲に玉撞きのレクチャーをするようになったのはコバヤシさんだった。なんだかんだ言って、コバヤシさんは面倒見がいいのだ。
左手のブリッジの作り方、右肘を支点にしてストロークすること、キューの真上に自分の顎を置くこと、そして、的玉にどれだけの厚みで手玉を送り込めばよいかということ、といった基本的なことをゲームをせずに反復練習で教え込んでいた。
しかし、いかんせん、玲は昔からの二つの悪癖があって、それが上達を妨げていた。ひとつは、キューを持つ右手が、手玉を撞く瞬間に内側にこねるように握ってしまうこと。もうひとつが、手玉を真っすぐ撞き切れていないことだ。
ビリヤードの初心者の人は「玉を打つ」とよく言う。しかし、打つのではなく、あくまでも撞くのである。手玉をキューで真っすぐ押し切る感覚を持って撞かないと、手玉までは真っすぐキューを出せたとしても、手玉にキュー先が当たったその先まで真っすぐ送り込むことはできない。
玲と付き合うようになってからの当時の俺は、何度もそのことを玲に伝えたが、かえって、へそを曲げられてゲームどころではなくなった。
今回も、俺とゲームをやるために、毎日、ネカフェで練習した、と玲は言っていた。玲にとって、俺は、昔から、男女の仲以外に、ライバルなのだ。そのライバルから否定しようがない指摘をされると玲は途端に怒り出してしまって、こちらは万歳になる。
今日のネカフェの8ボールの試合でも、玲の昔からの悪癖は残ったままだったのがすぐにわかった。それでも、調子が良ければ、訳もなく的玉をポケットインさせることはできるし、ダシも偶然決まったりして、連続してポケットインさせることができる。
今日は、偶然にも、そんな訳の分からない調子の良い日のようだったので、俺は、この久し振りの対戦で玲の機嫌を取ることにした。
「練習のかいあって、今日は入ってくれるわ」
8番ボールを入れて上機嫌の玲が嬉しそうに言った。
「いやあ、久し振りなのに、こうやって、みなぎってできるから俺も嬉しいよ」
15個のボールをラックしながら思ってもいない
玲は1時間、プレイして家に帰ると言うので、最後のゲームの一つ前で、俺は本気を出して最後の8番ボールまで4連続で的玉をポケットインさせて1回勝たせてもらって、あとは、全部、玲に勝たせて終わった。
「今日は、どうもありがとう。久しぶりに楽しかったわ」
「ああ、俺も楽しかったよ」
「また、あたしとやってくれる?」
「ああ、もちろん」
そう会話して玲はネカフェを後にした。
「あの…柚木さん、今日、師匠、来ないみたいだし、あたしとやってくれませんか?」
Withで玲は初めて俺を誘った。
「俺なんかでよければいいけど、俺はコバヤシさんみたいに上手に教えられないですよ」
たしか、俺はそう言ったと思う。
当時だから、忖度なしで、9ボールで玲をコテンパンにしたのだが、玲は全く怒ることなく俺と最後まで対戦をした。
「柚木さん、やっぱり、上手ね。あたし、全然、勝てないし」
「でも、里見さん、上手くなってますよ。このまま、コバヤシさんからいろいろ教わるともっと上手になりますよ」
「また、あたしとやってもらえますか?」
「はい。もちろん。いつでもいいですよ」
あの頃、玲は、俺を「柚木さん」と呼んでくれたんだった。
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