第2章 嫌なことは忘れましょう

第05話 8ボール

 翌日、土曜日。軽い朝飯を食べてから俺はいつものネカフェに行った。

 休日とはいえ、主婦じゃなくても、こんな時間に玉撞きをする客なんて俺くらいしかいない。

 無料のドリンクバーで、ひとつのカップにエスプレッソコーヒーを二度、抽出してストールの隣にある小さなテーブルに置いた。なぜに、エスプレッソだと一回分が少量になるのか以前から不明だ。俺は、深煎りの濃いコーヒーが好きだからしょうがなく二度出すことにしている。


 いつものボーラード用の10個のボールをラックしている時に、ズボンのポケットの中の携帯電話が震えた。


【おはよ。どう?玉撞きしてる?】


 玲からのショートメールだった。


【おはよう。ああ、たった今、ラックを組んだところだよ】


 そう、俺が返信すると、


【あたしも行くとお邪魔?】


 と、すぐに送られてきたから、


【いや、ぜんぜん。いいよ】


 と、俺は送り直した。




 ボーラードの3フレーム目が終りそうなところで玲が来た。


「おはよ。今日は、あたしとゲームしてくれる?」


 薄紫色のノースリーブのニットに、細いシルエットの白いコッパンを着た玲は、左肩にアイボリーのトートバックを掛けて、右手にはキューケースがあった。


「ああ、いいけど、受付には?」


「あなたの連れで同じ台でやるから,って言ってある」


「でも、ボーラードの途中ね。いいの?」


「ああ、いいんだ。見てよ。3フレで22点と散々だ」


 俺は、テーブルの上の壁掛けになっているホワイトボードを指差した。


「何する?9ボール?それとも、8ボール?」


「9ボールなんて、とってもできそうにないから、エイトボール(*1)でお願い」


 キューケースから分離している二本を取り出してジョイント部分を回して一本のキューにしながら玲はそう言った。


 俺は、他に何の世間話もすることなく、黙って15個のボールでラックを作った。


「ブレイクしてもいい?」と玲は言った。


「ああ、いいよ」と俺は答えて、ストールに座った。


 玲は、ブレイクラインのほぼ真ん中に手玉を置いて、ストロークの素振りをしながらキューを持つ右手の動きを目視した。この癖は、若い頃のものだったから、俺は単純に懐かしいと思った。


 玲のブレイクはラックの先頭にある1番ボールにヒットして、珍しく、ラックの右端にあった7番ボールがポケットインした。


「じゃ、あたしがローボールね」


 玲は、次に2番ボール、そして、その後に4番ボールをポケットインさせた。


「なんだか上手になってるな」


 俺は、思った通りに言った。


「この前、あなたに会った日から、毎日、ここに来て練習したのよ」


 玲は、次の6番ボールを狙いながらそう言ったが、6番ボールは残念ながら外れた。



 木藤のカフェレストラン「Withウィズ」に隣接している倉庫に普通サイズのビリヤード台が本城市で初めて置かれるようになってから、俺はほぼ毎日店に通って1~2時間、玉を撞いた。料金は、1時間500円くらいだったと思う。そこで、飲み物や軽食を注文すればトータル千円以上の出費になったが、確固たる目標も持たないまま面白くない講義とゼミに参加する毎日を送っているだけの俺にとっては構うことが無いと思った出費だった。


 ある日の夜に、玲がWithに来た。7~8歳は年上だと思われる男と二人連れだった。アースカラーの膝丈のワンピースから、ムチムチとしたふくらはぎが二本覗き、もみあげ部分が鋭い三角形になっているショートカットの髪型に、笑うと二つのの頬骨が丸く盛り上がる顔立ちだった。


(モンチッチみたいな女の子だな)


 俺のファーストインプレッションはそうだった。

 玲も連れの男も玉撞きは全くの初心者だったらしく、肩パッドスーツのマスターからブリッジの作り方やキューのストロークの仕方を最初に教えてもらい、それから、ルール無しに15個のボールを自由に撞いていた。


(連れの男は年上なんだろうに、あの女の子の言いなりみたいな間柄だな)


 そんな余計なお世話を思いながら俺は、40半ばのおっさんとナインボール(*2)をやっていた。

 おっさんの名はコバヤシさんといい、内装の営業兼工事をやっている人だ。何代も前のマークⅡに乗っていて、自宅が海のすぐ近くらしく、ボディのいたるところが錆びていた。

 コバヤシさんは、若い頃に、だま(*3)をやっていた人なので、ポケットビリヤードはそんなに上手じゃないのだけけれど、それでも、四つ玉をやっていればこその(的玉をポケットインさせた手玉を次にどこのポジションに移動させるか)は上手く、一緒に撞いていた当時、勉強になった。


 玲は、連れの男と小一時間、撞いた後に笑顔で店を後にした。


「あんな若い女の子が、玉撞きなんてやるかね~」


 コバヤシさんは、銀縁の眼鏡をポロシャツの裾で拭きながらそう言った。


「東京じゃ、あんなんばっかですよ」と、俺は言わずに、


「コバヤシさんだって、あんな若い娘と一緒に撞きたいでしょ?」と言ったら、「バカ言え」とコバヤシさんは笑いながらそう言った。




(*1)8ボール

 15個のボールを使って二人で行う競技。1番から7番のボール(ローボール)と9番から15番のボール(ハイボール)のどちらかのグループボールを全部ポケットインさせた後に、8番ボールを入れた人の勝ち、というルール。

(参考動画)https://www.youtube.com/watch?v=g4EZg4ZkW9c


(*2)9ボール

 1番から9番までのボールを使い、テーブル上にある番号の若い番号のボールからポケットインさせて(もしくは、接触させて)、最後に9番ボールを入れた人の勝ち、という競技。

(参考動画)https://www.youtube.com/watch?v=kpQvH7Fp1qI


(*3)四つ玉

 赤2個、白2個のボールを使って二人で行う競技。ポケットビリヤード台のように穴が開いていない四角いだけのビリヤード台で行う。どちらか一つの白玉を撞いて、残り2つ以上の玉に接触させると点が入る競技。

(参考動画)https://www.youtube.com/watch?v=pt-g_7rOpXg



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