第03話 例のラーメン屋にて
結局、玲から連絡が無いままに二週間が過ぎようとしていた。
そんな言い方をすれば、いかにも、俺が玲からの連絡を待っていたかのように聞こえるが、実際、そんな気もしている。
明日は土曜日で閉庁だから、俺は、マンションから歩いてすぐの、例のラーメン屋で夕飯を食べることにした。注文した生ビールがとんこつラーメンよりも遅く来た、あのラーメン屋だ。
無論、店員の怠慢によるもので、俺はあの日以来、足が遠のいていたが、いかんせん、俺はその店のとんこつラーメンが好きだったので、俺の心の中で失策を帳消しにして行ってあげることにしたのだ。
夕飯時ということで、店のドアを開けると、ほぼ満席の様相だった。
前回のアホンダラ店員は居らずに、バイト風の若い女の子がカンター席を勧めてくれた。
「まず、中生をください」
俺は、まずに力を込めてそう注文した。
「中生がひとつですね。ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
案の定のマニュアル通りの応対だった。
「餃子を一皿ください」
俺は、そう付け加えた。
「中生がひとつに、餃子が一皿ですね。ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
どうしても、最後に、その一言を言って確認しないと駄目なようだったので、俺は「いいから、注文したのを持ってこいや」とは言わずに、「はい」と短く返事をした。
「中生がひとつに、餃子が一枚で~す!」
若いバイトの女の子が声を張り上げた。
俺は、東京にある神職資格課程がある大学を卒業後に、この街にある教育大学の大学院に進んだ。
進んだ、といえば、聞こえはいいが、実際のところは、“仕方なく行った”とか“逃げ込んだ”と言った方が的を得ている。
俺の家は代々、田舎街の神社の神主を務めていたので、俺は、“そういうものなんだろう”と思いながら、あまり考えることなく、神主業を継ぐべく大学に進学した。
親父は、神主だけでは食っていけないから教職課程も取るように、と言っていたので、中高の社会科の教員免許も取得した。
しかし、ろくに勉強していなかった俺は、当然のごとく、出身県の教員採用試験に落ちたので、ダメもとで、同じく出身県の田舎街にある教育大学の大学院を受験したら定員未満だったこともあって合格してこの街に移り住むことになった。
「お待たせいたしました。中生です。餃子の方はもう少々お待ちください」
当たり前のことながら、心のどこかでホッとしながら、俺は最初の一口を勢いよく飲んだ。この前の生ビールは、ラーメンが伸びないように二気飲みで飲んだが、今回は味わいながら飲めた。
俺は、学校教育科社会科コースというところに在籍して大学院生活を送ることになったが、勉学に打ち込むような志は全く無く、むしろ、“これで、最低でも2年間遊べる”と思っていたし、東京のアパートを引き払う前に、東京で付き合っていた女にも派手に振られていたし、田舎故に玉撞きをする場所も無く、気が抜けたような大学院生活のスタートを切った。
「餃子、お待たせいたしました~ ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
間違いないのを大前提で自信満々に言って来るのでどうしようかと思ったが、「以上で、よろしいよ」と答えた。
醤油と、ラー油と、酢を調合した小皿に餃子を浸して口の中に入れると、皮の中から熱々の餡が柔らかい口の中を焦がしたから、慌ててビールを飲んで冷ました。
寺町と呼ばれる町内にある二間のアパートと自転車で15分くらいにある大学を往復するだけの生活が数日過ぎた。
江戸時代の城下町だったこの街には、城跡のお堀伝いに桜並木があって、なにやら、“日本三大夜桜”のひとつらしかったので、ある夜に城跡の公園まで歩いて行った。その日は、相当肌寒かったのだが、ぼんぼりに照らされている桜を歩きながら観ているうちに綿雪が激しく降ってきて、あっという間に雪見桜になったのを覚えている。
大学院といっても、四年制大学生と一緒の校舎を使うのだが、研究室と呼ばれる部屋には、自分専用の机があって、限られた出入口を使えば、24時間、研究室で作業ができる環境が整っていた。
俺以外に、二人の大学生上がりの院生が居て、そのうち一人の女子は、なんと、俺が通っていた大学の出身者だった。顔をどこかで見たことがあるなあ、とは思っていたが、少なからず驚いた。この女子も、社会科の教員採用試験に落ちて、彼女の地元であるこの街の教育大学に院生として入学した、とのことだった。もう一人の男子も、同じような感じだった。そして、他の18人は、全員、現役の教員だった。同じ県内の人もいれば、群馬県、長野県、山形県といった近県の小中の教員、遠くは、八丈島から来ている中学校の教員も居た。
彼らは、それぞれの当該地方公共団体の許可を得て大学院の入学試験を受け、二年間、給料をもらいながら院生として勉強をしようとしている責任をしょった人たちだった。だから、入学したばかりだというのに二年後の修士論文の心配を口にし、日々の講義の聴講や、ゼミでの課題も真面目に取り組んだ人たちだった。
「あ、すみません。とんこつラーメンに半チャーハンのセットをお願いします」
俺は、すぐ横を通りかかった男の店員を呼び止めて注文をした。
「ええっと…とんこつラーメンに半チャーハンのセットですね。少々お待ちください」
男の店員は、前回の若いアホンダラ男店員の失策の尻拭いをした冴えない風体の中年男だった。しかも、お決まりの注文を確認する言葉も言わなかったし、素晴らしい店員だと俺は再認識した。
俺は、そんな真面目な現職院生とは真逆な男だった。
火曜日にある、朝一番の哲学の講義にはいつも寝坊して遅刻したし、縁もゆかりもない自然地理の講師先生のゼミに配属された俺は、毎回、わけのわからない説明で論文紹介を院生や学生たちの前で展開した。そこに集まっている学生の中には、自分の名前が付いた氷河があるような(その人が発見したから)エキスパートも居たのに、だ。
定員を満たすための数合わせで院に合格した俺なわけで、まったく自然地理の知識が無い俺を、名だたる教授陣は俺の意図と反して自然地理の若い講師に俺を押し付けた、というわけだ。
志が最初から無いのに加えて、そんな冷遇措置なもんだから、他力すら失った俺は怠惰な毎日を過ごすことになる。
しかし、もちろん、誰にも文句を言えた義理はなかった。
「お待たせしました。とんこつラーメンと半チャーハンのセットです。あの…失礼ですが、だいぶ前に、私共の不注意で、生ビールを遅れてお出ししてしまったお客様では…」
「覚えていてくださったんですか。いいんですよ。貴方のせいじゃありませんもの。お気になさらないでください。今夜は、とても美味しい生でした」
世の中、捨てたもんじゃない、って、おそらく、お互いに思ったはずだ。
*作中の、生ビールととんこつラーメンのいきさつは、『ひとり夜 ~決まりきったアナウンスと夢の中の誘う声~』より。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888909723
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