第2話 プロテスタントの教え
メンデルスゾーンはあまりバイオリン弾きに優しい作曲家ではない。
弾くのが難しい曲が多いという意味だ。
今回の演奏会のメインの曲目は、メンデルスゾーンの交響曲第五番「宗教改革」。
第一楽章などは特に忙しく弓を動かすことになるし、そもそも弦楽器には休符が少ないから第四楽章までほぼ休み無く弾かねばならない。
この一曲だけで演奏時間は合計で実に三十分。一般的な交響曲に比べればかなり短い方だが、習いたての慣れないフォームでの長時間の演奏は、ただでさえきついものがある。
次の演奏会には、きっと俺は出られない。
ションボリ。
俺の家系はプロテスタント系のキリスト教徒であるからして、今度の演奏会は殊に楽しみにしていたというのに──。
「ただいま……」
「おかえり。どうだった?」
「俺、次の演奏会出られないかも……」
「……ふうん」
妹の声は平坦だった。
「わふっ」
「こら、ちくわ。おすわり」
「ちくわ?」
「ちくわ。喜んで食べたから」
「勝手に名付けるなよ。俺が拾ったんだぞ」
「あ、たいやき食う? そこに置いてある」
「え? 食うけどさ」
「お茶淹れるから待ってて」
「……」
一応、妹なりに、俺を心配してくれているらしい。
「わふっ」
ちくわは、俺の前にあるたいやきを、つぶらな瞳でじっと見つめている。その首にはピンク色のリボンが丁寧に結んであった。ありあわせで首輪を作ったつもりなのだろう。
俺はたいやきの尻尾をちぎって、ちくわに与えた。
「……」
何故だか俺は、将棋の盤面を思い浮かべていた。
オーケストラ全体を支配する指揮者は「棋士」。団員をまとめる
そのように例えるとするならば、まだまだ初心者な俺は、一介の「歩」に過ぎない。
しかし「歩」一つのあるなしで、盤面の状況は大きく異なってくる──。
「はあ……」
でも俺は、ちくわを拾ったことを後悔したくなかった。それとこれとは別なのだ。悪いのはあの子供だ。
……あいつ地獄に落ちないかな。
メンデルスゾーンはユダヤ系の生まれでありながら、敬虔なルター派キリスト教徒である。それに対して俺の家は、カルヴァン派に端を発する教派に所属する。
カルヴァン派の教えは「予定説」が有名だ。
その人が神によって救われるか否か──天国へ行けるか否かは、既に神の意思により決定済みである。人間がいくら善行を積もうが悪行に走ろうが、この予定が覆ることはない。
但し、救われると決まっている人々には天命というものがある。禁欲的にこれを遂行することは、即ち自らが救われる者であることの証左となる。
要するに、自分の成すべきことを成せということだと、俺は解釈している。
そして俺は犬を助けるべきだと思った。だからこれで良いのだ。
オーケストラの団員には迷惑をかけることになるし、俺の練習の成果も水泡に帰すわけだが……。
「ちくわ……お前も罪な奴だな」
俺が顎の下を撫でてやると、ちくわは嫌がる様子もなく尻尾を振った。
何と可愛らしい。ますます見捨てるわけにはいかなかった。
「オーケストラより、命の方が大事だもんな」
俺は半ば自分に言い聞かせるようにして呟いた。
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