ちくわと歩く

白里りこ

第1話 転がり落ちる俺


 だいたい俺は、唐突に変なことを始めて周囲を驚かせることが多かった。


 例えば、中学生の時は帰宅部で勉強一筋だったのだが、高校に上がってからは何の知識も無いのに将棋部に入部した。そこにいた後輩が掛け持ちしていた弦楽部の演奏にいたく感動した俺は、大学に入ってからはいきなりオーケストラのサークルに入ってバイオリンを始めた。


 その日、俺がいつものように楽器を背負っていなかったのは、不幸中の幸いであった。


 俺は歩道橋を渡って階段を下りている所だった。その踊り場に──犬がいた。

 タオルが敷いてある段ボールの中で、柴犬と何かの雑種のような小さな犬が、律儀におすわりをしていたのだ。

 首輪はつけていなかった。


 捨て犬?

 この御時世に?


 俺は一分ほどその犬と見つめあってから、ポケットからスマホを取り出してしゃがみこんだ。写真を撮ろうとしたのだが、次の瞬間スマホの画面から犬が消えた。


 何かに気付いて逃げ出したのだ、と分かった時には後の祭りだった。


 ドシャーンと何かがぶつかってきて、俺の右手からスマホがすっぽぬけた。ぶっ倒れた俺はそのまま階段をごろんごろんと転がり落ちた。


 近所の子供が、悪ふざけで歩道橋の階段を自転車で駆け下っていたが故の、事故であった。

 全く困ったものだ──。




「すみません、そういう訳で今日の合奏には行けません」

「ええ!? 大丈夫なの!? 怪我は!?」


 バイオリンのパートリーダーの先輩が大声を出したので、俺はバッキバキに割れたスマホの画面を、やや耳から遠ざけた。


「怪我はよく分かんないす。擦り傷と、あと自転車とぶつかった腕が少し──。とりあえず今から病院行くんで」

「まだ行ってなかったの!? 早く行きなよ!」

「いやでも犬が」

「犬?」

「捨て犬がいたんで、家まで連れて帰ってたんすよ」

「はああ?」


 先輩は、信じられない、という風に声のトーンを高めた。


「何で事故に遭ったくせに捨て犬を優先してるわけ?」

「轢き逃げされたんで、周りに誰もいなくなっちゃって──」

「いいからとっとと病院に行って! そして通報して!」

「ハイ」

「気をつけてね!?」


 言って、先輩は通話を切った。


 俺はくるりと振り返った。


「じゃあ俺は病院に行ってくる。犬を頼む」

「あのさあ」

 妹は腰に手を当て、膨れっ面だった。

「そんな血まみれで犬持って帰ってこなくていいから」

「世話を頼んだぞ。何か食べさせてやってくれ」

「何かって、ちくわくらいしかやるものないけど──って、犬の心配はいいからさっさと行けっ!!」


 妹は俺を蹴り出さんばかりの勢いで家から追っ払った。


 そこで俺は、だんだん痛くなってきたなぁ、などと思いながらトコトコ歩いて大学病院の緊急外来へと赴いた。


 そこで「もう少し早く来なさい」と怒られた。


「そうすればここまで悪化せずに済んだんですよ」

「ハイ」

「とにかくね、この、打撲による上腕二頭筋の挫傷が少し厄介ですから。今は固定してありますからね、右腕を動かす運動は極力避けるように」


 俺は素直に頷きかけてから、ふと考え込んだ。


「バイオリン弾くのは大丈夫ですか?」

「……。うーん、もしそれが激しい運動を伴うようでしたら……二ヶ月間は控えた方がいいでしょう」


 ズギャーン!!


 俺は、事故に遭った時よりも、遥かに大きな打撃を心に食らった。


 バイオリンの弓を持つ手は右手。右腕は左腕よりもずっと運動量が多い。初心者の俺なら尚更、筋肉に余計な力を入れてしまうだろう。


 本番まで、あと一ヶ月なのに!!


 年にたった二度しかないこの演奏会のために、毎日部室に通って練習に励んできたのに──!

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