遅くなったので、今夜は蜂岡の寺のある太秦うづまさに嶋麻呂と小鹿は泊まることにした。秦一族のものが、そこには大勢いる。嶋麻呂と小鹿が座っていた河原から西へ一直線に盆地を横断すれば、そこが太秦だ。

 確かにこの盆地には何もない。暗くなるとかなり無気味だが、そうなる前に何とか太秦に着いた。蜂岡の寺の近くの、嶋麻呂の親類の家に二人は宿を借りた。


 翌朝の日の出とともに、嶋麻呂は小鹿を近くの河原に連れ出した。昨日座って見ていたのとは別の川だ。その河原に、二人は立った。

「昨日の川、なんていう川だったかしら」

「鴨川か」

「ええ。その鴨川より、この川のほうが大きいのね」

 朝の清々しい風が、河原に草の香りを運ぶ。ひんやりとした空気の中で、それがとてもさわやかだ。対岸は割りと近くまで山が迫っているが、ぼんやりと霞がかかってよく見えない。

「ねえ、この川は?」

 頬にほんのりと紅がさし、面長でそれでいて愛らしい少女である小鹿は、嶋麻呂の横顔を見た。

「ん?」

「この川の名前よ」

「おまえはいつもそうやって、すぐに川の名前を聞くんだな」

 嶋麻呂は少し笑った。

「昨日の川は賀茂一族の集落から流れてくるから、鴨川だって言ったよね」

「ああ」

「じゃ、この川の名前、当ててみましょうか」

「何だ?」

「秦川?」

「いや、違う」

「じゃあ、太秦川」

「発想が単純なんだよ。大堰川おおいがわだよ、大堰川。昔、稚武大王わかたけるのおおきみの時に、我われ秦一旅が朝廷の命を受けてこの川に堰を作ったんだ。この川の名前は、そこから来ている」

「そうだったの」

「鴨川が盆地の東の川、この川が西の川で、ここからすぐ南の所で二つの川は合流しているけどな」

「それにしてもここの盆地、すごく都に似てる」

 小鹿はそう言ってから、四方を見渡した。この川と鴨川との合流点も朧気ながら認められた。

 嶋麻呂は先にくるりと川に背を向け、歩きだした。小鹿も慌てて、それを追った。

 嶋麻呂は振り返った。

「蜂岡の寺へ、行ってみるか?」

「うん、行きたい」

 小鹿はすぐにうなずき、

「ねえ」

 と、言った。

「何だ?」

「あなた、無理してない?」

「なぜ?」

「無理に平穏を装ってるみたいよ」

「そんなことはない」

 あとは怒ったように、嶋麻呂はむっつり黙ったまま歩いた。

 川沿いの森と桑畑の間を歩き、遠くに蜂岡寺の山門が望まれる地点まで来た。ところが、山門の前が黒山の人だかりであることは、遠目でもすぐに分かった。

「何だ、あれは?」

 嶋麻呂はふとつぶやいた。小鹿も群集を見た。

「背が高い人が多いのね」

「何のんきなこと言ってんだよ。何かただ事じゃないぞ」

「だってこのあたりの人たち、皆あなたと同じく背が高いわ。おまけに鼻も高くて、顔の彫りの深い人も多いみたい」

「くだらないことに感心するな。それが秦一族の特徴なんだ。それより早く、寺に行ってみよう」

 ぶっきらぼうに言い捨てると、嶋麻呂は急ぎ足で山門へと近づいた。その額には、汗がにじんできた。

 その時、群衆の中から嶋麻呂にとって見覚えのある顔が出てきた。そして真っ直ぐに、嶋麻呂に近づいてきた。

「嶋麻呂殿」

「あ、朝元殿」

「来テイタノデスカ」

「ええ」

「アナタ父上モ、蜂岡ノ寺ニ来テイマス」

「え?」

 桑畑の中で朝元に思いがけないことを不意に言われ、嶋麻呂は呆然とした表情をしていた。二人の会話に、小鹿だけが取り残されていた。

「父上、来テイマス」

「なぜ親父が、今頃こんな所に」

請益しょうやくデス」

「え、請益?」

「ハイ。特別ニ官ノ許シガ出タノデス」

「ねえ、ショーヤクって何なの?」

 と、そこで小鹿が口をはさんだ。

「高僧にすがって、特別に教えを請うことだ。普通はよっぽどのことがない限り、許されないことになってるんだけど」

 嶋麻呂はそう簡単に説明した。

「会イマスカ?」

「え、会えるんですか?」

「モチロン警護ハ固イ。デモ、私ニ任セレバ、大丈夫、会エマス」

「いや、いい」

 嶋麻呂は首を横に激しく振った。

「今は会いたくない。俺は官に反抗するため、わざと身代わりにはならないことに決めたんだ。だから、今は会わない方が……」

「ソノ気持チ、理解シマス。アナタノ中デ葛藤アルコト。ヨク知リマス」

「今はもう何も言わないでくれ。黙っていてほしい。俺はもう決めたんだ」

 嶋麻呂は叫ぶように言うと、朝元や小鹿をその場に残して蜂尾か寺とは反対の方へ去ろうとした。その背後から、

「今日、ひつじノ刻、話アリマスユエ、蚕ノ社かいこのやしろニ来テ下サイ」

 と、朝元は呼びかけた。嶋麻呂の姿は、すぐに桑畑の中に消えた。


 蚕ノ社のある小さな森は、太秦の集落からだと大闢神社とは反対方向になるが、たどり着くまでそう時間はかからない。森は大闢神社のそれよりも大きい。ここが秦一族の養蚕の拠点だ。

 朝元はすでに来ていた。嶋麻呂を見ると木に寄りかかったまま、彼は無表情で手を挙げた。

「呼ビタテテ、ゴメンナサイ」

「さっきは興奮して済まなかった。でも」

 嶋麻呂は目を伏せた。そして蒼ざめた顔のまま、胃のあたりを押さえていた。

「やはり、親父に関することなら聞きたくない。もう自分で、結論を出したのだから。あなたには悪いが」

 朝元はそれを聞いて虚空を見つめ、黙って何か考えていた。しばらくは蝉の声だけが響く時間が流れた。嶋麻呂はその間も、しきりに腹部の上を押さえていた。それを朝元は見た。

「アナタ、腹部ノ上、痛ミマスネ」

「ええ、少し」

「悩ムトソウナル。私、唐土デ医学ヲ修メタノデヨクワカリマス」

 朝元は再び視線を宙へ戻した。

「分カリマシタ。話アリマスケド、ヤメマス。アナタ、悩ムアル。今ハ何モ言ワナイヨロシイノコト思イマス。アナタ身体モヨクナイカラ。タダ」

「ただ?」

「ドウシテモ見セタイモノ、アリマス」

「何ですか?」

 朝元は嶋麻呂を見た。

「ココニハアリマセン。蜂岡寺ニアリマス」

「じゃあ、行きましょうか」

 二人は桑畑の中を、蜂岡寺の方へ歩きだした。互いにもう、何も言わなかった。

 蜂岡寺に着いた。二人は無言で山門をくぐった。もはやあたりに人はすっかりいなくなっていた。境内は焼け付く日差しで白く光り、蝉の声だけが相変わらずだった。

 境内にはイスライの井とよばれている泉が、木々に囲まれた中にある。三本足の鳥居がその上に立てられている。それほど大きくはない。それを横目に、二人は金堂に入った。

 暗さに目が慣れるまで、少し時間がかかった。しかしすぐに、本尊である弥勒みろく菩薩ぼさつ半跏はんか思惟像しゆいぞうが姿を現してきた。

 二人は、弥勒菩薩の前に並んで立った。菩薩の足もとには台に乗せられた巻物が六巻、積まれて置かれていた。表紙が真新しい。朝元が無言で、それを嶋麻呂に示した。嶋麻呂は一番上の一巻を、手にとってみた。表紙には『請益秦大麻呂問答』と書かれてあった。

「アナタ父上ノ、先ホドノ請益ノ記録デス」

 と、ゆっくりと朝元は言った。

「親父は?」

「モウ役人ニ連レラレテ、都ニ帰リマシタ」

 嶋麻呂は巻物に目を落とした。

「アナタ父上モ、イロイロ悩ミマス。流人生活ノコト、朝廷ノコト、ソシテアナタノコト」

 嶋麻呂は答えなかった。

「シカシ、アナタガ選ンダ道ニツイテハ、父上ハ何モ言イマセン。私モ言イマセン。アナタ正シイノコトト思ッテ選ンダ道ダカラ」

 それでも嶋麻呂は、黙ってうつむいている。

「ソノ問答、写本デキタラ、アナタニアゲマス。ソシテ、ソレヲ朝廷ニ献上スルヨロシイ。ソレガ、大麻呂殿ノ願イ。ソシテ私モ、今回ノ事件ノ真相ヲ伝エルタメ、ソレヲ望ミマス」

「しかし、私には献上なんてそんなこと……」

「デハ、ワタシガ献上スルコトニシマショウ。ソレマデ私、コレヲ預リマス。私、モシカシタラ近々、再ビ入唐スルカモシレマセン。ソノ場合ハ、日本ヘ戻ッテキタアトデ必ズ献上シマス」

 しばらく間をおいてから、

「お願いします」

 とだけ、嶋麻呂入った。そして二人で、弥勒菩薩を見た。

「御覧ナサイ」

 と朝元は言った。

「ドコマデモ柔和ナ中ニ、厳シサヲ含ムコノオ顔ヲ」

「何かを真剣に考えておられるようだ。そのみ心にはとても入り込めない、そんな気がする」

「メシアハ考エテオラレルノデス。コノ世ノ終ワリニ、イカニシテ人々ヲ救オウカト」

 メシア――秦一族の間では、弥勒のことをミロクともマイトレヤーとも呼ばず、メシアと称するのが普通だ。

「ではわれわれはこの穢土で、メシアが来られるのを待ち望んでいさえすればいいのですか」

「イイエ」

 朝元は首を横に振った。

「少ナクトモ、秦一族ニハ使命ガアルハズデス」

「使命?」

「コノ太秦ノ地ニ我ラガ祖先デアル大闢ダビデ王ノ都『エルシャロム』、ツマリ『平安ノ都』ヲ造ルコトデス」

 朝元は静かに言った。


 都大路には、人だかりの列が両脇ともに延々と続いていた。

 その中に、嶋麻呂の姿もあった。

 今期の流人が都大路を通る。冠もない姿で後ろ手を縛られ、裸馬に乗せられた囚人がすでに三人通った。それぞれに罪状と名を記した札を持つ役人が、一人づつに先行して歩く。群衆はさえずりながら、それを見送るだけだ。

 不意に嶋麻呂の肩を、背後から叩くものがあった。冠や濃いはなだ色の朝服から官人と思われる太った中年男が、嶋麻呂の背後にいた。見知らぬ顔だ。

「秦殿の嶋麻呂君だね」

「そうですが、あなたは?」

「この度は、とんだことだったね」

「あのう……いったい……」

「石勝じゃよ」

 嶋麻呂はハッと息を呑み、表情を硬くした。その嶋麻呂を見下すかのような笑いを、肥満気味の石勝は見せた。嶋麻呂は石勝を、思う存分ににらみつけた。

「何か用ですか?」

「用ってこともないが、まあ、そんな恐い顔はよしたまえ」

「あんたはいい。あんたは自分の私欲ために盗みを働いて、それであの馬鹿正直なガキのお蔭で無罪放免だものな」

「君。人聞きの悪いことは言わないでもらいたいね」

 薄ら笑いをかき消して、石勝も嶋麻呂をにらみ返した。

「あんたのガキは孝の鑑として、正史に名も残るだろう。あんたはせいぜい満足だろうな」

「失敬な。近頃の若い者は、礼儀というものを知らぬらしい。所詮、帰化人だな」

「ほら、それそれ、それだよ。その帰化人に対する差別意識、それが俺はいちばん許せない」

 嶋麻呂は興奮のあまり、ついつい語気を荒くした。路上を見ていた群衆のうち、嶋麻呂の周りにいた何人かが、さっと二人へ視線を集めた。

「俺が親父の身代わりにならなかったのは、お上のやり方が目に見えていたからだ。体裁を整えるために、ひが事も捏造する」

「君のことを思って忠告するが、この人中でそのような発言は身を滅ぼすことになるぞ。どこに役人の耳があるか分からぬから、気をつけたまえ」

「いや、言わせてもらう。それでいて都合の悪いことは抹殺するのが、今のお上のやり方だ。正史とは別の歴史を書いたさきの東宮大夫柿本人麻呂は、遠流おんる先で殺された。その古事記も、都合の悪い部分は全部焼かれて、残りもお蔵入りだってな」

 これは、朝元から聞いた話である。

「シーっ!」

 石勝は慌てて、自分の口の前に指を当てた。

「その話は、絶対に禁句だ」

「あんたとはもう、これ以上話すことはない」

 その時、うしろから嶋麻呂の腕を別の手つかんだ。白髭の爺だった。

「若。大殿じゃ」

 爺は嶋麻呂の耳元で、小声でささやいた。

「え? 親父?」

 嶋麻呂は路上を見た。石勝は人ごみにまぎれ、そさくさとどこかへ行ってしまった。

 まさしく路上を通りかかったのは、嶋麻呂の父親だった。鬚は伸び放題で、馬の上で手を後ろに縛られている。そんな父の姿を、嶋麻呂は見た。だが、彼が血相を変えたのは、先行する役人の木の札を見た時だった。

「秦犬麻呂?」

 明らかに「大麻呂」ではなく、「犬麻呂」という名として木札には記されていた。嶋麻呂は、思わず苦笑をもらした。

「大に点一つ打って、犬にしやがった。それが所詮、この国のやることだ。稚拙な……」

「しかし流人の改名は、昔からの慣わしじゃからのう」

 背後から、白髭の爺が言う。確かに、例の柿本人麻呂も、流される時は柿本猿と改名させられた。だから今でも人麻呂を慕う人は、おおやけを憚って密かに猿丸大夫と彼を呼んでいる。

「やることなすこと何から何まで、この国のやることは笑わせられるぜ」

「若、声が高い」

「かまうものか。美泉が見つかって養老だっていうけど、その美泉がどんなに濁った美泉か、俺にはよく分かったよ。とにかく何としてでも、儒教国家としての体裁を整えたいらしいな、この国は」

 父が嶋麻呂のすぐ近くまで来た。嶋麻呂はしばらく黙っていたが、すぐに人ごみをかき分けて最前列に出た。もはや苦笑も何もかも、彼はかき消していた。

 犬麻呂にされた大麻呂は、自分の息子に気づいたようだ。ちらりとこちらを見て、

「さらば」

 と、言った。少なくとも、周りの人々にはそう聞こえたはずだ。しかし、嶋麻呂は父が本当はなんと言ったのか分かっていた。だから、

「シャロム」

 と、その言葉を口の中で繰り返した。もう父は、背中を見せつつある。その背中を凝視していた。

 背後から、白髭の爺が嶋麻呂の肩に手を置いた。

 嶋麻呂は言った。

「爺。腹へった。めしにしよう、飯!」

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