おはよう

日常

『それじゃ、お願いね。』

そう言って親父に抱かれる晴に手を振った。

今日は週に一度の、晴を実家に預ける日だ。

『うん、五時には送るから。』


『わかった。』


『まだ…よくないのか?』

親父は気遣うように言った。


『…春には仕事復帰するよ。』

とは言ったが、暦は今三月である。


『そか、無理するなよ。』

親父は晴をチャイルドシートに乗せる。

車から母も出てきて手伝う。


母と目があった。


『近所なんだってね、菅原家。』


母は言った。

菅原とは心の命を奪った犯人の名だ。



『どうするの?』


母のその言葉は今なによりも痛かった。


どうするの?

心の仇を討たないの?戦わないの?

そのニュアンスがあったかどうかは片貝の主観でしかないが、その言葉は剃刀になり片貝の腹に入っていった。



『そのうち…。』


片貝は曖昧な言葉で逃げた。


『…そう。じゃ行ってくるね。』


片貝は晴を乗せた親父の車を見送った。


何を「どうする」のか、何を「そのうち」にやるのか、ふわふわで掴み所のない会話だったが、母は片貝に、心の仇を討たせたがっているのは明白だった。


言葉にされるのが辛いから、片貝はいつも逃げた。


晴を見送り家に入ると茜は掃除機をかけていた。


あれ以来決して片貝の両親とは会おうとせず、両親も察してか無理に家に上がろうとはしない。


「かわいい初孫を自分のせいで亡きものにされてしまった」と言う負い目からなのかもしれない。

確かめるのが恐ろしいから、茜には聞けない。



(逃げてばかりだな、パパは。)


片貝は内心で呟いた。


茜は一心不乱に掃除機をかけている。

心ここにあらずだが、力強くも見える。

茜はもともとタフな女だ。


心なきあとも家事を疎かにしたことがない。


『菅原家、車あったよ。』

不意に茜が掃除機を止めて言った。


『そか…、いるんだな。』

茜に話しかけられることは「買い物」や「でかける」などの業務連絡以外はあまりないため戸惑った。


『どうする?』

茜は言った。


片貝は俯いてしまった。


『…あんたの病気って、いつ治る?』

三つ上の姉さん女房の茜は片貝をあんたと呼ぶ。


そして病気とは、片貝の精神疾患である。


片貝は事件以来心を病み、休職中だった。


『…わからない。』


『…そ。』


茜は再び掃除機をかけ始めた。


片貝は自分でインスタントコーヒーをいれた。


「病気いつ治る?治ったら、菅原殺してよね。」

頭の中で「誰か」の声がした。




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