11

 八坂を追ってたどり着いたのは、喫煙所だった。映画館を出たすぐ脇、化粧室のとなりにある小さな喫煙所。中には誰もいなくて、ただ八坂が一人入るとこだった。

 引き戸を開けて喫煙所に入ると、八坂はタバコに火をつけるとこだった。吸っていたのはこないだ買っていたマルボロのソフトだった。

「ガールフレンドはいいの?」

「あとで合流する」

「そう。吸う?」

「……」

 僕はしばらく考えた。八坂はマルボロの紫煙をゆっくり吸い、肺に取り込み、その残りを頭上へと吐いたけれど。その副流煙の香りは、僕をニコチン中毒者に引き戻すには十分すぎた。そのときの僕の脳裏には、もう郁の顔は見えていなかった。腰に振りまいた香水がどうにかしてくれるだろうと、そんなふうにタカを括っている自分がいた。

「一本もらうよ」

「はい、火も貸すわ」

 マルボロをついばみ、そこに八坂が火をともす。久々に吸い込んだ洋モクは、なぜか懐かしい味がした。

「いいジャケットね、その赤い上着」

「さっき買ったんだ。彼女が選んだ」

「そう。君にあんなかわいらしいガールフレンドがいるとは思わなかった。それに、服のセンスもいいし」

「よく言われるよ。僕みたいなのには似合わないって」

「かもね。年下?」

「いいや、年上だ。僕より二つ上。よく間違えられるんだ、背が低くて童顔だから」

「じゃあわたしよりも三つ年上なわけだ」

「そういうことになるね」

 マルボロの煙を吸い、それを頭上に吐く。となりで八坂も同じようにして、僕らの周囲は煙でいっぱいになった。

「でも、意外。森島くんてああいう人がタイプだったんだ」

「そんなに意外?」

「うん、なんていうか君は――」

 言いながら、八坂は上着のポケットからあのカセットウォークマンを取り出した。彼女の元カレが作った曲。彼女が縛り付けられている呪い。音楽という呪縛。左手で撫でるように触れながら、右手で短くなったマルボロを取り上げた。

「もっとわたしみたいなのが好みなんだと思ってた」

「かもね」

 半分まで吸い終えたマルボロを、僕は灰皿にねじ伏せ、火を消した。もう二度と吸えないように捻り切って、吸い殻を水の中へと落とす。

 喫煙所の外では、グレイヘアの貴婦人が、喫煙者二人をイヤそうに見つつ、多目的トイレに向かっていく。僕はその貴婦人の訝るような瞳を思い起こしながら、もたれていた背を壁から離した。

「ガールフレンドのもとにもどるよ」

「そう。わたしはもう一本吸うことにするわ」

「ゆっくり吸うと良いよ。ちなみに八坂、ひとつだけ聞いていいか」

「なに?」

「君はどうして映画館に?」

「もちろん映画を見るためよ。バイトまで時間があって暇だから、ここで時間をつぶすことにしたの」

「何を見てたんだ?」

「スタンリー・キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』よ」

「……そう」

 引き戸を開け、劇場へ向かう。そのさなか、僕は服に付いたタバコのにおいを気にした。でも僕の鼻はもうバカになっていて、どれだけマルボロのにおいがするかなんてわからなかった。


 五分遅れで劇場に飛び込んだけど、映画はまだ始まっていなかった。この映画館は、だいたい始まる前に結婚式場のCMが四本ぐらい流れるのだけど、僕がきたのはちょうどその三本目のときで、あとは予告編が流れるのを待ちかまえているところだった。

 平日で客入りが少ないのが良かったんだろう。僕ら以外ほぼ貸し切りだったから、誰の邪魔もせずに郁の隣までいけた。

「ごめん遅れた」

「うん。ポップコーン食べる?」

「もらうよ」

 キャラメルを一つ口の中に放り込む。マルボロで辛くなった口に、甘さが静かに広がった。でも舌の先は、確実にニコチンとタールで麻痺していた。

「ねえ薫くんさ」

 郁が耳打ちする。

「なに?」

 僕はそう答えたけれど、彼女が何が言いたいかは、なんとなくわかっていた。郁は僕のほうを向いて、スンスンと何度と無く鼻を鳴らしていたから。

「薫くん、タバコ吸った?」

「いや、これはさ。ごめん、八坂が吸うんだ。彼女、喫煙所にいて」

「そう。ならいいんだけど。……八坂さんって、友達なんだよね?」

「友達っていうか。レコード屋の店員と客、それだけだよ。ほら、映画が始まる」

 被り物のカメラ男がはけていき、ブザーが鳴る。スクリーンが静かに広がっていき、見たくもない映画が始まった。


 映画自体は可もなく不可もなくて、それでも僕はとくに退屈することもなく二時間あまりを過ごすことができた。

 劇場から出たとき、僕の記憶に残っていたのはキャラメルの甘さと、僕の着衣の異臭、そして若手の女優が見せたぎこちない演技の三つだけだった。

 帰りの電車のなかで、僕らはしばらく無言だった。夕陽が差し込んでまぶしい車内で、僕は右手で吊革を掴み、左手で郁の指を握ってた。

 最寄り駅の二つ前にたどり着くと、車内にはもう座れるぐらいの余裕ができてたけど。でも僕らは座らなくて。代わりに郁は僕にそっと耳打ちした。

「薫くん、約束してほしいんだけど」

「なに?」

「あのレコード店、もう行かないでほしい」

「八坂に妬いてる?」

「そうじゃないけど。でも、八坂さんと話してたとき、薫くん楽しそうだった。悟くんと話してるときみたいだった」

「そうかな?」

「そうだよ。だから、もう会わないでほしい」

「……わかった、約束する」

「それからタバコも吸わないで」

「吸ってないよ」

「ウソ、バレてるよ。バンドの練習の帰り、いつもタバコのにおいがするから」

「あれは悟が吸うんだ」

「……ならいいけど」

 握っていた手の力が、やおら弱まって。郁は僕の指から手を離した。僕はその手を追おうとしなかったし、再び指をからめ取ろうとも思わなかった。郁もそうしなかったし、僕はそのままでいいと思ってしまっていた。

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