10

 モールの中は昼時を過ぎに、余計に人だかりが出来始めていた。特に四階のレストランフロアには、昼食を取りに来たであろう外回りのサラリーマンたちが、これから仕事に戻っていくところだった。もう外は涼しいのに、額にたっぷりの脂汗をかいて。彼らはハンカチ片手に駐車場のほうへ歩いていった。

 僕らはエスカレーターに乗って、あてもなく上に向かってた。郁の手を引いてやると、彼女は右往左往しながら次にどこいこうかと考えてくれた。

「ねえ、次どうする? 映画でもいかない?」

「昼飯はいいの?」

「うん。私あんまりおなか空いてなくって。薫くんは?」

「僕は二日は食わなくても生きてける」

「あはは、大学時代はタバコとコーヒーで生きてたとか言ってたもんね」

「三日は食わなくても生きてたよ。映画、なにか見る? これからなら何が間に合うだろう?」

 エスカレーターを何往復もして、僕らは劇場がある六階までたどり着いた。平日昼間だからか、それとも劇場の入れ替えのタイミングだったからか、客入りはまばらだった。鼻に大きなピアスをしたモギリの女の子が、けだるそうにスマートフォンを見ているぐらいには。

「貸し切りみたい」

 誰もいないラウンジフロア。郁は僕の手を放れて、その広い野原のような空間に躍り出ると、振り返った。

「何見る? 薫君に任せるよ。私映画詳しくないから。なんかすごい評判いいのあったよね」

「そうだね、たしか……」

 僕は頭上に並んだ電光掲示板を見上げた。見れば、リバイバル上映でキューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』をやっていたらしい。「好きな映画は?」と聞かれて、映画好きの友人に対してだったら、トップ10ぐらいには入れる映画だ。でも、郁に見せたいと思う映画じゃなかった。彼女があの暴力的で、性がむき出しの世界を見たらなんと言うだろう。べつに郁は、そんな無垢な存在ってわけじゃないけれど。自分のコンプレックスだとか、そういうのと重なって、居心地の悪さを感じるに違いない。だから、どんなに僕がキューブリックの画作りとか、色彩が好きだと言っても、郁とみれるはずがない。それは2001年が眠くなってしまうのと同じくらい、だった。

 仕方なく僕は、その横に並んだハリウッドのロマンティック・コメディを選ぶことにした。よくTVCMもやっていたし、タイトルをあげたら郁も「ああ、それね。見たかったんだ」と言ってくれたから。

 でも半券を買っているとき、僕は思ってしまった。もしかして八坂とだったら、僕は一緒にキューブリックを見れたのかも、と。


 上映まではしばらくあったから、とりあえずポップコーンでも買おうということになった。

「何味がいい? 僕は紅茶にするけど」

「じゃあ私も。ポップコーンはね、私キャラメルがいい」

「じゃあ、キャラメルと紅茶が二つで」

 ポップコーンは弾けた。パチン、パチンと音を鳴らして。スコップですくい上げられている間も、言うことを聞かない腕白小僧みたいに。そこかしこに弾けてまわって、店員の指にまで触れかかりそうになっていた。

「いいにおい。薫くんも食べる?」

「あとでね。映画が始まったら食べるよ」

 僕は紅茶を受け取り、もう一つを郁に手渡しながら。

 ちょうどそのとき、劇場の入れ替えが終わったんだろう。十人そこらの観客たちがぽつぽつと出始めてきた。さっきまでスマホを見ていたバイトのモギリの子も、やっとポケットにアイフォンをしまって、「ありがとうございました」と機械的につぶやいていた。

 そして僕は、その中に見つけてしまったんだ。

「あ、」

 あの女を。

 彼女を。

 このタイミングでもっとも会いたくなかったあの人を。

 秋空のブルーアッシュ。青黒く艶やかな、ショートボブの髪。青白い肌と、血色の悪い口紅。長いまつげと、泣きはらしたようなメイクの瞳。丈の短いレザージャケットに、濃紺色のダメージジーンズと、マーチンのブーツ。

 八坂未彩だった。八つの坂に未だ彩りあらずと書いて、彼女だった。

 僕は必死に彼女と目を合わせないようにした。それでいて、僕は八坂を目で追ってしまっていた。郁が隣にいるのに、彼女を見つけたくなかったけれど。それでも僕は彼女を追いかけ、ついには目があってしまった。八坂も驚いたようすで目を見開いて、それから小さく手を振った。

「誰、あの人?」

 郁がポップコーンを抱えたまま、僕に耳打ちした。その声音が明らかに敵愾心をはらんだもので、僕には郁らしからぬトゲのある口調がやけに気に障った。脳内でリフレインする。「誰」というフレーズが。

 僕は全身の肌が粟立つのを感じたけれど、その感覚をよそにして、八坂は僕に近づいてきてしまった。

「めずらしいね、こんなとこで会うなんて。その子、ガールフレンド?」

「ああ、まあ……」

 僕はどうしようもなくて適当な相づちを打った。そんな僕をよそに、八坂はいつもの飄々とした態度だった。

「はじめまして。わたし、八坂未彩って言います。八つの坂に未だ彩りあらずと書いて、八坂未彩。よろしく、森島くんのガールフレンドさん」

 差し出された華奢な白い手は、郁に向けられた。郁の小さな柔らかな手とは違って、八坂の指はたくさんのシルバーで武装されていた。ベルトや甲冑、スタッズで彼女の指はいっぱい。郁がその手を握り返したとき、僕はなんでこんなことになったんだろうと思った。

「芳丘郁です……。八坂さんは、薫君のなんなんですか?」

「友人。わたし、あのレコード店でバイトしてるの。ほら、彼がよく来てるアーケードのとこの。そこで知り合ったってだけ。あとはたまに音楽や映画の話をするかな。そういうカンケイ。別にあなたのボーイフレンドをとって食っちゃおうだなんて、そんなこと考えてないから安心してよ」

「友達……ってことですか?」

「そんなところね。じゃあ、わたし行くわ。若い二人を邪魔しちゃいけないから」

 アデュー、とでも言わんばかりに。八坂はらしくない手の振り方と、チャーミングな笑顔を振りまいて、僕の前を去ろうとした。いつものあの、捕らえ所のない冷めた態度じゃなくて。

「待てよ、八坂!」

 気づいたら、僕は紅茶を片手に、郁をその場において、八坂の背中を追っていた。郁がさらに僕のあとを追おうとしていたけど、でもすぐに映画が始まるアナウンスが鳴ってしまう。

「薫くん、映画始まるよ?」

「郁は先に行って待ってて。どうせ開始十分はCMが流れてるから。すぐもどる」

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