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 十一時過ぎに僕らは家を出て、電車で隣駅まで向かった。それから路線を乗り換えて、一路ショッピングモールまで。さすが職場ということもあって、郁は乗り換えにこなれていた。何両目に乗れば昇りエスカレータに近いかとか、乗り換えの出口に近いかだとか、ぜんぶ把握していた。だから平日の真っ昼間、僕らは三十分足らずで目的地まで着いてしまった。

 平日のショッピングモールは、意外と人がいる。図書館はいつもいつものように人が来て、去っていくけれど。こういう場所には人の波があって、たぶん今日はそんなに大潮な日ではないんだろうけれど。それでも僕らみたいに平日休みの若者たちがたくさんエレベーターに乗り込んでったし、学生らしき集団でスターバックスは満員だった。

「こっち。せっかくだしステージ衣装選ぼうよ」

 郁は僕の手をぐいぐいと引っ張って、モールのなかを駆けていく。待ってなんて言っても、彼女は聞いてくれない。

「ステージ衣装だなんて、そんなたいそうなモンじゃなくていいって。ふつうのやつでいいんだ。ほら、ダウンジャケットみたいなやつとか、セーターみたいのでさ」

「ダメだよ。ロックバンドなんだからさ。ほら、こういうのとかどう?」

 僕の手からするりと抜けたかと思うと、パタパタとどこかへ吸い込まれていく。水を得た魚みたいな郁を、僕は追っかけた。

 郁が入っていったのは、最近入居したとかいうブティックだった。なんていうか六〇年代のアメリカみたいな雰囲気で、だけど店内BGMにはずっとビートルズが流れてる。レトロな雰囲気で、そこだけ異国みたいな雰囲気を醸していた。

「これとかさ、すごくない?」

 郁が引っ張り出したのは、ペイズリー柄の入ったジャケット。まるでマジカル・ミステリー・ツアーみたいだ。確かにビートルズが流れてるだけあるなと、僕は思った。

「いつ着るんだよ、それ。そんな派手な服着てる彼氏が隣に立っててほしいか?」

「そう言われると迷うかも。でも、着てみたら似合うかも。ほら、試着しようよ」

「えー。着るのか、それ?」

「そう。下も選ぶから、これもって先に試着しつ行ってて」

「はいはい、了解」

 なんていうか、こうなった郁は止められない。彼女は、僕を着せ替え人形みたいにして遊ぶのが好きなのだ。たぶん。僕も悪い気はしないし、楽しいけれど。

 二時間ぐらい、僕らは空腹も忘れて端から端まで試着して回った。ペイズリーのジャケットやら、赤いズボンやら、紫のシャツやら。郁は二言目には「ステージ衣装だから」とか「着てみれば似合うかもよ?」と言って、なんでもかんでも持ってきた。営業をかけようとした店員も、郁のエネルギーにたじたじだった。

 そうして結局買ったのは、ワインレッドのジャケットと、青のストライプシャツ、それから長めのトレンチコート。久々に僕のクレジットカードは悲鳴を上げそうになっていた。

 たっぷりの服が入った紙袋を手に、近くの喫茶店に入ったころには、もう午後一時を回っていた。だけど僕らは不思議と空腹を感じなくて、レストランには入らなかった。小腹は空いていたから、ただ二人分のカフェラテとサンドイッチだけ注文して、腰を落ち着けることにした。

 カフェはちょうどモールの三階にあって、せり出したデッキからは階下へと続く吹き抜けが一望できた。エントランスフロアでは北海道物産展をやっていて、老夫婦たちが列をなしてカニに群がっていた。

「これで今年の冬は乗り切れそうだね」

 郁はラテにたっぷりのブラウンシュガーを注ぎながら言った。

「赤いジャケット、かっこよかったよ。さっそく着てみたら?」

「ここで?」

「うん、着てみてよ」

「ステージ衣装じゃないのか?」

「普段着でもカッコいいと思うよ。薫くんなら似合うよ。赤いジャケットの似合う人の隣で歩いてたい」

「そう言うなら着るよ」

 ラテの泡がついた唇を拭って、紙袋を拾い上げる。赤いジャケットは札をはずして入っていた。まるでそのまま着てくださいと言わんばかりに。そうさせたのは、郁だったかもしれないけど。

 袖を通すと、なんだか新鮮な気分だった。着衣にはすっかり無頓着な僕だけど、こうして誰かに選んでもらったり、似合うとかって言ってもらったりするのはイヤじゃない。むしろそうするために、人は服を着たり、髪を切ったりするのかもしれない。つまり誰かに愛してもらうために、自分を愛せるようにするのかも。だから自分を痛めつけているうちは、誰も自分のことを愛してくれないように。

 ああ、なんだかまた八坂のことを考えるような気がして、僕はワインレッドに彼女の赤かった髪を思い出して。だけどすぐに郁の顔を見て、八坂のことを忘れた。

「どうかな?」

「いいと思うよ。かっこいい」

「派手すぎない?」

「薫くんは控えめな顔してるからちょうどいいよ」

「けなしてる、それ?」

「ううん。ほめてる。私のセンスと、薫くんのスタイルを」

 甘いラテを口に含む。こんなに甘いコーヒーを飲んだのっていつぶりだろうかと思った。八坂と喫煙所にいるとき、僕はいつもブラックか微糖だったなと、ぼんやり思い出した。

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