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「今思うとヒドい告白だったけど。でも、あれからいろいろあったよね。あの日の海、いま思い出してもつまんなかった」
郁はゆっくりカレーを完食する。僕は遅れて食べ出したせいか、まだ少しだけ残っていた。チーズの降りかかったチキンカツが化石みたいに取り残されていた。
「もう一度いくか、海?」
「ううん」
郁はそう言って、
「あのね、薫くん。あれから何年か経って、こうして一緒に暮らすようになって。私、あなたに嫌われないようにいろいろ我慢した。あなたの好きなところをたくさん見つけたし、嫌いなところもたくさん見つけたよ。知ってる? 私ってバカなフリして、意外といろんなことに気づいてるんだよ」
「……なんの話?」
「薫くんが私に料理作ってくれるなんて、そんなふうにしてくれるときって何かを隠してるときなんだよ。知ってる? 本人は気づいてないかもだけど、必死に取り繕うとしてる。私にはわかるよ」
「隠すって、何のことを?」
「八坂未彩のことに決まってるでしょ」
空間が凍りついた。
あの日の海が、雨でなく雪に変わったみたいに。僕の目には、あの日あてもなく曇り空を見上げていた少女が見えていた。遠く鈍色の空の向こうに、昔のボーイフレンドを探す彼女のまなざしが見えていた。
「私、気づいてたよ。私が寝た後、薫くんがアパート抜け出してどこかに行ってること。誰かに会ってること。バンドの練習ってウソついて出掛けてることも。八坂さんとラインのやりとりしてたことも、ぜんぶ。寝言で彼女の名前を呼ぶのだって聞いた。朝起きて薫くんのために紅茶を淹れてあげてるのは私なのに、でもあなたは私じゃなくて『八坂』って名前をつぶやいたの。私ぜんぶ気づいてた。ぜんぶ知ってた。それも知った上で黙ってたけど、でももう無理だよ」
「八坂とはそういうんじゃない」
「じゃあ、なに? 一緒にタバコ吸ってたのも知ってるよ。禁煙するって言ったのに、私に隠れて八坂さんとは一緒に吸って。あの人といる方が心地良いんでしょ? そうでしょ?」
「違う」
――八坂はいなくなったんだ。
そう言いたかったけど、言ったところでもう郁の感情を逆撫でするだけというのは分かっていた。もう僕が買ってきたショートケーキがテーブルに運ばれる見込みはまったくなくて、ただ泣きはらした郁がそこにいるだけ。腫れ物に触れるように、僕にはもうなにもできなかった。
「別れようとは言わないよ。私は薫くんのこと好きだから。こんなことされても、好きだから。だけど、いったん距離を置いた方がいいよ、私たち。しばらくは頭を冷やした方がいい気がする。そうしてほとぼりが冷めた頃にまだつきあう気があったら、またつきあうと思う」
「……出てったほうがいいよな」
郁はコクンとうなずいた。あのとき、ソフトクリームを買ったときと同じみたいに。
*
ギターと携帯と財布、それから服だけ持って、僕はアパートを追い出された。僕には転がり込むアテもカネもなくて、だからいちばん相談したくないやつに相談しなくちゃいけなくなった。つまり、古橋悟に。
やつは会社のあてがったアパートに住んでいた。さすが設計事務所というべきか、なんかこじゃれた雰囲気のワンルームだった。
インターホンを押すと、一分ぐらい間があって悟が出た。
「待ってた。いま鍵を開けるから、入れ」
オートロックが開き、部屋の仲で。僕の部屋に対して、悟の部屋がずいぶん散らかっていた。部屋の脇には大量の紙が積み上げられて、資料が山のようだった。その隣にはベースが二本と、アンプがひとつ。それからマーチンのアコギが一本。防音のためか、吸音シートがそこここに貼ってあった。
「芳丘女史とケンカしたって?」
「ああ、まあ」
「原因は例のパンク娘だろ。八坂未彩だったか?」
「そうだよ。浮気だと思われてる」
「その通りだろ? 何か飲むか? ブランデーならある」
「じゃあ、一杯くれ」
ロックグラスにブランデーをストレート。二人でそれを飲むと、僕はため息を漏らした。
「郁を裏切ったのはわかるけれど。でも、僕は八坂を愛していたというか、彼女を救ってあげたいと思ったんだ」
「メサイア・コンプレックスだ。芳丘女史と長く居すぎたな。おまえにまで病がうつったか」
「かもな。僕は八坂のために曲を書きたかったんだ」
「どうしてまた?」
「八坂は、元カレの作った曲が『まるで自分のためにあの人が書いてくれた曲』だと思って、それ以外の音楽を体が受けつかなかったんだ。ほかの音楽も聴きたいのに、呪いみたいにそれしか聞けなかったらしい。だから僕は、そんな彼女のために曲を書いてやりたいと思った。彼女が聞ける曲を書きたいと思った」
「ひどいお節介だな。それで書いたのがこのあいだの曲か?」
言って、悟は机上のMacBookに触れた。CUBASEが起動してて、ちょうどこのあいだの新曲のデモテープを開いていた。
再生すると、僕のヘタクソなギターが流れ出した。コーラスを深めにかけたアンビエントなアルペジオ。そこへリクのドラムが殴り込んで、歪んだベースリフが始まった。
「悪くない曲だろ。リクが書いて、俺が仕上げた」
「そして僕が詞をつけた」
八坂のために書いた曲。
僕は、それを彼女に聴かせてどうしたかったんだろう。彼女に僕のことを好きになって欲しかった? 違う。彼女を救いたかった? そんなの僕の独りよがりだ。僕はどうして彼女に曲を書きたいと思ったんだろう。
どうして?
かつて郁は、その「どうして?」という疑問に答えるため、僕と一緒に海へ向かった。その答えが見つかったどうか僕にはわからないけれど。でも、彼女はそれでも忘却もせずに前進を始めることになった。
僕はどうすればいい?
自分の書いた曲を聴き、ブランデーを飲み、悟の買った高いソファーに座りながら、僕は静かに目を閉じた。そして瞼の裏の暗闇のなかでぼんやりと思った。
「なあ悟、ひとつ相談していいか?」
「なんだ?」
「そのデモテープ、カセットテープに焼いてもらうことってできるか?」
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