4
僕は何を忘れているんだろう。何を忘れるべきで、何を思い出すべきなんだろう。ニーチェは「忘却はよりよき前進を生む」と言ったらしいけれど。でも僕はニーチェを読んだことないし、きっとこの言葉を引用して高説を垂れる人間の九十九パーセントも、いったい彼のどの文献にその言葉があったかなんて知らないだろう。誰も大切なことは何も思い出せない。でも、どうでもいいことはずっと頭にこびりついて離れないんだって、そう気づいた。
やがて僕は思い出したのは、タイミング悪くも当日の帰り道のことだった。最終退館者を見送って、閉館処理をして、十八時過ぎに職場を出て。僕は電車のなかで昔の写真を見ながら思った。郁が笑顔の写真がたくさんあって、八坂の写真は一枚もなかった。そう言えば八坂と逢うとき、それを記録しようとか、記憶しておこうなんて話は一度もなかった。僕らはずっとタバコの火みたいにその場限りで燃えつきていた。
そうして遡っているうち、僕は気づいてしまった。三年前の十一月の二十三日というのは、つまり僕と郁が出会って約三ヶ月が経った日のことで。あの日、僕らはパートナーになることを決めた日だったということを。
「しまった」
僕はアーケード街で、雑踏のなか一人立ち尽くしてつぶやいた。
僕は踵を返すと、駅裏のスーパーマーケットに向かった。まだ時間はある。郁がいつもの僕に悲嘆して、いつもどおりに買い出しに出掛けて、いつも通りに料理を作り始めるまで。まだ走ればどうにかなる。ケーキのひとつと、チキンのひとつでも作れれば。
こんなに走ったのは高校生のときの体育祭ぶりだと思う。僕はあんなイベント大嫌いで、はやく無くなればいいとばかり思っていたけれど。でも、おかげで走り方を忘れずにいることはできていた。
階段を駆け上がって帰宅したのは、ちょうどタイムリミット寸前だった。つまり、玄関前で郁が鍵を探してふらふらしていたのだ。キーケースを取り出して、今にも部屋に入ろうとしているところだった。
「薫くん、どうしたの? そんなに息切らして」
「思い出したんだ。記念日だろ、今日、僕らの」
言って、僕は手汗で取っ手がしわくちゃになった箱を差し出した。中身は郁が好きなショートケーキだった。
「別に忘れててもよかったのに。私もプレゼントなんて用意してなかったから」
そう言う郁をイスに座らせて、僕は一人キッチンに立った。ていっても、料理なんて久々だったから、手の込んだことはできそうになかったけれど。
「郁こそ気を遣わなくていいよ。今日は僕がごちそうする、そう決めたんだ。僕がしたいから、そうするんだ」
濡れた手をキッチンペーパーで拭ってから、僕は買ってきた鶏肉でカレーライスを作ることにした。野菜を切って、肉を煮込んで、ルゥを入れればどうにかなる。それなら僕にだってできる気がした。
そうして三十分だか四十分だかして完成したのは、いびつなカタチをした野菜が入った、ちょっと濃いめのカレーライスだった。トッピングにピザ用のとけるチーズと、お総菜コーナーで買ってきたチキンカツも一緒に。見た目だけは豪勢だったと思う。
「おいしそう。料理するなんて何年ぶり?」
「そんな久々じゃないよ。大学時代はずっと自炊してたし」
郁のぶんの麦茶をコップに注ぐ。彼女のコップには、いつも消えかけのミニーマウスがあった。
「どう? おいしい?」
「うん、とってもおいしいよ。とくにこのチキンカツ、チーズ入ってるんだね」
「それ出来合いのお総菜だから。せめて僕が作ったカレーをほめてくれよ」
「えへへ、カレーもおいしいってば」
僕も彼女のあとを追ってカレーを頬張った。まあ悪くない味だった。それについてはカレールゥが仕事をしてくれたんだと思う。
「ねえ、薫くん、覚えてる?」
「今度はなに? ほかに記念日なんてあったっけ?」
「そうじゃなくって。私たちがつきあうって決めた日のこと、薫くんなんて言ったか覚えてる?」
「覚えてるよ。ていうか、思い出したよ。たしかあれは海だった」
そう、冬の海だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます