3

 八坂と連絡がつかなくなって二週間あまりが過ぎた。僕は何度となくコンビニでコーヒーを買い、公園で噴水とコウモリを眺めて、Tのバーに通い、そしてレコード屋で掘り出し物を探した。でも、一度として八坂の姿を見ることは無かった。


     *


「今日、後輩の送別会なの」

 朝、郁がそう言いながら出掛ける支度をするのを、僕は歯を磨きながら聞いていた。

「後輩の?」

 口にたまった歯磨き粉と唾液の混合物を吐き出してから、僕は言った。

「そう。仕事やめるて、結婚するんだって。それでいったん実家に帰るから、街を出てくんだってさ」

「そう、結婚ね。めでたいじゃない」

「そうだね。そういえばさ薫くんは考えないの? これから先どうしようとか、バンドとか、仕事とか」

「考えてたらこんなことしてないよ」

「だよね。それが薫くんの良いとこだし、悪いところだと思う。大学院、行けば良かったのに。リクちゃんみたいに」

「行ったところで就職がさらに難しくなっただけさ……。じゃあ、帰りは遅いの?」

「うん。ご飯作れないから、どっかで食べてね」

「どうにかするよ」

 ブーツを履き、つま先をトントンと叩いて。郁は一瞬だけ振り返って、玄関を開けた。このアパートもいい加減古くなってきて、ドアを開けるたびに異音がするようになった。キュイィッて、獣か何かの断末魔みたいなのが。

「ねえ、薫くん。覚えてる?」

 行きがけに、郁はつぶやいた。

「なにを?」

 だけど彼女はとたんに首を横に振って、それからドアを閉じた。

「ううん、なんでもない」

 彼女らしからぬ冷たい言葉とともに。


 その日、郁が帰らないことは、ある意味で僕にとっては好都合だった。

 その日、僕は十八時に仕事を終えると、いつものレコード屋に立ち寄ることにした。目的はひとつ、八坂がいるかどうかを確認にしにいったのだ。だけど案の定、八坂はレジ打ちもしてなければ、レコードの陳列もしてなかった。三十分してもう一度行ってみたけど、やはりいなかった。だから僕はしばらく店内で暇つぶしをして、彼女を待つことにしたけれど。

 僕は暇つぶしがてら、棚の中の円盤たちを見回ってた。端から端まで、ひとつも見逃さないように。時間を押しつぶすように。

 四つ目の棚にさしかかった頃だろう。七〇年代のOからUまでの棚で、ちょうどクイーンとかラモーンズとかが並んでいた。ラモーンズの『アイ・ワナ・ビー・ユア・ボーイフレンド』を手に取ったとき、もう一時間以上が経っていたと思う。いい加減店主の視線が苦しくなってきたので、僕はレジに向かうことにした。客は僕以外に誰もいなくて、店主のオヤジと僕の二人きりだった。

「はい一点で二五〇〇円だね。最近ちょくちょく来ては、長いこと見回ってるけど。どうしたの?」

「いや、なんていうか、探しものというか」

 僕は財布から三千円を取り出しながら、

「あの、一つ聞きたいんですけど。前にアルバイトの女の子がいたと思うんですけど。こう、派手な髪をしたパンクな感じの……」

「ああ、八坂さんのこと? 彼女なら辞めたよ」

「辞めた?」

「ああ、二週間ぐらい前にね。突然にだよ、ほんと。こっちとしては困ったよ。辞める理由も教えてくれなかったしさ。まあ彼女の履歴書を見たらなんとなく察したけど。いろんなバイトを転々として、そのたび住む場所も変えてたみたいだから。いまごろもうこの街にはいないんじゃないかな?」

「そうですか……」

 何となく察していた。だけど、あらためて言われると、信じられなかった。いや、信じたくなかった。

「君、八坂さんと仲良かったって聞いたけど。よくTのバーで一緒に飲んでたって。もしかして彼女のこと好きだった? でもダメだよ、ああいう子はすぐどっかに行っちゃうタイプだから」

「ええ、よく知ってますよ」

 ――そりゃもう、イヤというほどね。

 それから僕はラモーンズを片手にTのバーに行き、一人静かにレディスターダストとナポリタンを食べながら、『アイ・ワナ・ビー・ユア・ボーイフレンド』を聴いた。二時間ほど店にいて、さらにもう一杯のギムレットを頼んだけれど。それでもやはり八坂は店に来なかった。

 そのとき僕は、もう彼女のことはあきらめた方がいいのだと、やっと気づきだしていたけれど。それでも彼女のことを思うのが辞められなくて、ノートに書き綴った詩を繰り返し見ては、彼女にそれが届けられる日を夢見ていた。


 アパートに戻ると、酔っぱらった郁が着替えているところだった。下着姿でリビングを出て、ちょうど脱衣所に向かおうとしていた。

「おかえり、薫くん」

「ただいま。そんな格好してたら風邪ひくよ」

「これからお風呂はいるところだからいいの」

 言って、郁は脱衣所へ。僕は彼女を見送ってから、ひとりリビングでテレビを見ていた。YouTubeをミラーリングで繋げて、適当に昔のアーティストのミュージックビデオだとかを眺めてた。とくにラモーンズがなぜか頭から離れなくって、また僕は『アイ・ワナ・ビー・ユア・ガールフレンド』を聞いていた。

 郁は長風呂だから、ラモーンズなんてアルバムを十周ぐらいできたと思う。ジョーイ・ラモーンが十一回目の『ロックンロール・レディオ』を歌い出したころ、郁は髪をタオルでぐるぐる巻きにして出てきた。下着姿だった服は、もこもこのパジャマになっていた。

 僕がラモーンズを聞くのをやめようとすると、郁はリモコンを取り上げて、僕の隣に座った。

「苦手だろ、こういう音楽」

「苦手じゃないよ。けっこう好きだよ、こういうの。パンクっていうの? こう、ギャーン! ってさ」

「郁、酔ってる?」

「うん、かなり。後輩ちゃんにすごい飲まされちゃってさ。みんなでワインを三本くらい開けたの」

「そりゃ大したもんだ」

「だからすごい酔ってる。珍しく気分がいいの、なんだかね。いまなら何でも言える気がする」

「たとえばどんなことが?」

 僕はそう聞くと、郁はぐっと背伸びしてから、僕を見て、変顔をいくつもしてから、首を横に振った。

「やっぱ言えない」

「なんで?」

「時が来たら言うよ。でもね、ねえ、薫くん覚えてる?」

「なにを?」

「覚えてる?」

「だから、なにを?」

「私知ってるんだよ。ねえ、薫くん今日はどこで何を食べてきたの?」

「Tのバーでナポリタンを食べたよ。レコードを聴きながらね」

「薫くんあの店すきだよね」

「レコードが聴けるから」

「本当にそれだけ?」

「あとマスターが良い人だから」

「あとは?」

「料理がおいしい」

「ほかは?」

「静かなところだから」

「あの人は?」

「あの人って? 谷さんのこと?」

「知らない。寝よう? 布団敷くね」

 郁は酔っぱらってたけど、それきり何も言ってくれなかった。布団を敷いて、いつも通り寝るだけだった。ただいつもと違ったのは、僕も郁も酔っぱらってるってとこだったけれど。

 布団のなかで僕らはお互いの体温を感じながら、でも顔だけはぬっと出して、冷え込み始めた冬の空気を感じていた。光熱費削減のために最近は暖房を節約してて、吐息はいまにも白く濁りそうだった。

「ねえ、薫くん」

 酔いどれの郁は目を閉じながら言った。

「なに?」

「ひとつ聞いて良い? 八坂さんのどこが好きだった?」

「なんの話だよ」

「八坂さんと友達だったんでしょ」

「まあ、いちおうは」

「どうしてあの人と一緒にいたの」

「それは……たぶん、彼女が昔の自分みたいに見えたんだと思う。そう思ったら、ほっとけなくなった」

 デマカセだ。半分ぐらいは。口が勝手に理由を作った。

「そう。かわいいもんね、彼女」

「郁のほうが綺麗だよ」

「本気で言ってる?」

「半分くらい。なあ、もう寝よう。いま君は酔ってるんだ」

「うん。ねえ、薫くん、覚えてる?」

「なにを?」

「ううん、おやすみ」

 その晩、郁はそれきり口を開かなかった。僕が何を忘れているかは、分からなかった。


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