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 アルコールを飲んだのは現実の僕じゃなくて、夢のなかの僕だった。夢のなかで、僕は一杯のジントニックを飲み干していた。大好きな音楽に酔いしどれながら、そしてあの女に会いたがっていた。

 シャワーを浴びて頭をリセットしてから、僕は脱衣所で半裸のまま、スマートフォンを眺めていた。

 八坂とのメッセージのやりとりは、先週のまま止まっている。僕がライブハウス&バー・レノンの住所を送って、既読が着いて、それきりだ。それきり僕は八坂に「来てくれよ」とか「来てくれてありがとう」とか「どうして来なかったんだ?」なんて何も聞けなくって。結局そのまま一週間近くが経過している。

 いま一度、僕は八坂にメッセージを送ろうとしたけれど。でも地図の横についた「既読」の文字が呪いのように僕を邪魔して、映画館の喫煙所で見た八坂の顔がまるで僕を軽蔑していたかのように思えはじめて、結局僕はスマホの電源を落としてしまった。


 それでも僕が八坂に未練が無かったかと言えばウソになるだろう。

 昼前、郁が布団を畳んで仕事に出かけると、僕も寝間着から着替えて外へ出た。別に誰かに会う約束をしていたとかそう言うのではなくて、ただ散歩に出たいと思った。外の空気を吸いたいと思った。

 ……と、言うのは口実だと思う。

 僕は散歩とは名ばかりに、八坂と言った場所を巡った。

 まずはあのコンビニ。タバコの品ぞろえは相変わらずで、最近は店先に手巻きなんかも置くようになっていた。チェのシャグなんかがおいてあると、僕は余計に八坂を思い出した。

「何番ですか?」

 って、たぶんタバコの銘柄なんて一生覚えることもないだろう女子大生風のアルバイトが声をかけてきたけれど。僕はタバコは買わず、缶コーヒーだけ買って外へ出た。


 次に僕は公園に向かった。夜更け、コウモリたちが鳴きわめき、昼にはサックス型をした噴水が荒々しい演奏をする公園だ。

 僕は噴水脇のベンチに腰を下ろして、さっき買った缶コーヒーを買った。税込み百円のやすいコーヒーは、砂糖の塊みたいな味がした。

「ここには昔、でっかい屋敷があってな」

 突然、大きな声がした。でも僕は自分に話しかけられたわけではないと思って、しばらく無視してコーヒーを飲んでいた。

 けれど横目に見てみれば、それは隣のベンチに座る老人の独り言だと分かった。痴呆症の徘徊老人か知らないけれど、吐瀉物みたいな匂いのするおじいさんで、前掛けの切れ端を集めて縫ったみたいな服を着ていた。腰はひどく曲がっていたのに、声はやけによく通った。

「ぜんぶおれの土地だったんだ。使用人が百人いた。おれのおやじは畑をやってたけど、おれは百姓になんてなるもんかと思って、必死に商売して、成功したんだ」

 老人の独り言は続く。僕はいつしかその物語に聞き入ってしまった。

「結婚して家を立てて、五人の息子と十二人の孫を育てた。でも、いまはもうなーんもない。土地は国に売っ払っちまって、そうしたらこの有様だ。屋敷はどこいった? なんだあの噴水は? おれだったらな、もっと違う庭を造る。わかるか?」

 ぎろり、とそのときやっと老人の目が僕を向いた。けれど僕は、その老人とは目を合わせちゃいけないと、なぜだか本能的に思った。老人は僕にジリジリと近寄って来たけれど、僕は黙ってその場に座ったままでいた。

 しばらくすると、老人のお目付役みたいな青年がやってきた。淡いブルーの作業着を着た角刈りの男性で、柔道家みたいだ太い腕で老人の体を持ち上げてしまった。

「坂本さん、もう勝手に出てっちゃダメって言ったじゃないですか。帰りますよ」

「うるさい、ここはおれの家だった!」

「そうですね。でも、いまは公園なんですよ。ほら、帰りましょう」

 腕力と言葉にねじ伏せられて、それまで尊大な皇帝のような振る舞いをしていた老人は、どこかに失せてしまった。まるでヒモかモヤシみたいに小さく細くなってしまって。

 僕はその背中を見ながら、飲み干した缶コーヒーを隣のゴミ箱に投げ捨てて帰った。


 それからレコード屋に行き、Tのバーに行き、そして家に戻った。帰り際、八坂のアパートに行ってみようとも思ったけれど、その道中でなんだかものすごく怖くなってしまい、引き返した。

 あの老人のようになってしまうのではないかと、僕はそう思ってしまったのだ。

 もしかしたら八坂は、あのカセットテープの男性と再会して、僕のことなんかすっかり忘れてしまったのかもしれない。僕が彼女の前に出て「僕はいつも彼女とタバコを吸い、バーで音楽を聴き、曲を作った。彼女のために」なんて言っても、それはボケ老人の戯言のように扱われて。例の『彼』に腕一本でひょいっと投げ捨てられてしまうかもしれないと。そう思ってしまった。

 だから僕は、もう一度レコード屋に立ち寄り、レジ打ちに八坂がいないかだけ見て、家に帰った。レコ屋には、禿頭の店主が一人物寂しそうに座るきりだった。

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